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この一党の意見を完全に牛耳っていたのは、ニコラス・ヴェダーといって、村の長老で、この宿屋のあるじだった。彼はその宿屋の門口に、朝から晩まで腰をすえ、日光を避けて、いつも大きな木の蔭に入っているようにするほかには動かなかった。だから近所の人たちは、彼が席を移したところによって、日時計とおなじくらい正確に時刻を知ることができた。じっさい、彼はめったに口をきかないで、絶えずパイプをくゆらしていた。しかし、彼の子分ども(偉い人物には、かならず子分がいるものだ)は、すっかり彼の心を了解していて、彼の意見を推測する方法を心得ていた。だれかが読んだり話したりしたことで、気に入らないことがあると、彼は猛烈にパイプをふかし、怒って、しきりにすぱすぱ煙を吹きだすのが目についた。しかし、お気に召したときには、ゆっくり静かに煙を吸いこみ、かるい雲のようにふわりと吐きだすのだ。ときには口からパイプをとって、香りのよい霞のような煙を鼻のあたりにうずまかせながら、重々しくうなずいて、大賛成の意をあらわすのだ。
この砦からも、不幸なリップはついにがみがみ女房のために、いやおうなしに追いだされてしまった。彼女は不意にこの平穏な集会のなかに押し入って、一座のひとびとを頭ごなしにどなりつけるのだ。あのいかめしい人物のニコラス・ヴェダーでさえ、この恐ろしい女丈夫の毒舌をまぬがれることはできなかった。彼女は彼に向い、亭主をそそのかして怠け癖をつけたのはおまえさんだと言って、まっこうから食ってかかった。
あわれなことに、リップは、しまいにはほとんど絶望の淵におちてしまった。畑仕事や女房のがなりたてる声から逃れるには、銃を手にして森のなかへ迷いこむよりほかに手段はなくなった。彼は森のなかで、ときどき木の根もとに腰をおろして、ウルフと弁当を分けあうのだった。彼は、共に迫害に苦しむ仲間として、ウルフに同情をよせていた。「かわいそうにな、ウルフ」と彼はよく言った。「おまえの女主人はおまえにみじめな暮しをさせているな。だが、気にかけるんじゃないよ、な。おれが生きているかぎり、おまえの友だちになって味方してやるからな」ウルフは尾をふって、主人の顔をものおもわしげに見入るのだった。もし犬にも憐れと思う心があるものなら、ウルフのほうも、心の底から主人をあわれんでいたに相違ない。
よく晴れた秋の日、こんなふうにして長いことぶらぶら歩いているうちに、リップはいつのまにか、カーツキル山脈のいちばん高い峰の一つに登っていた。彼は大好きな栗鼠撃ちをしていた。銃声がしじまにこだまし、またこだまをかえした。息もきれぎれに疲れはてて、彼は午後もおそくなってから、山の、草におおわれた緑の丘に身を投げだした。そこはちょうど断崖の端の頂きになっていた。木立のすきまから、彼は、なんマイルにもわたって鬱蒼とした森林がつづいている低い地方をいちめんに見おろした。遠く、はるか下のほうには、堂々たるハドソン河が望まれ、紫色の雲のかげや、たゆたう小舟の帆影を、その鏡のような水面のここかしこに、眠たげに映しながら、音もなく、荘厳に流れ、やがて青い高地のあいだにその姿を消していった。
ふりかえって見おろせば、そこは深い峡谷で、荒れはてて、ものさびしく、草木がぼうぼうとおいしげり、その谷底はそばだつ断崖から崩れおちた岩のかけらで埋まり、夕映えの光もほとんどさしこまなかった。しばらくのあいだリップは、寝ころんだまま、この光景に見入っていた。夕暮れは次第に濃くなり、山々は長い青い影を谷間に投げかけはじめた。これでは村に着かないうちにすっかり暗くなってしまうだろうということに彼は気がついた。女房の恐ろしい剣幕に出会うことを思って彼は深い溜め息をもらした。
彼が山をおりようとしたとき、遠くのほうから「リップ・ヴァン・ウィンクル、リップ・ヴァン・ウィンクル」と呼びかける声がきこえてきた。彼はあたりを見まわしたが、烏がただ一羽、山の上を羽ばたいてゆくほかには、何も見えなかった。きっと気のせいだろうと思って、ふたたびおりてゆこうとした。そのとき、同じ呼び声が森閑とした夕ぐれの大気にひびきわたった。「リップ・ヴァン・ウィンクル、リップ・ヴァン・ウィンクル」と同時に、ウルフは背中の毛を逆立てて、一声ひくく唸り、主人のかたわらにこそこそと近より、恐ろしげに谷間を見おろした。リップはこのとき、訳のわからぬ気味悪さが身に迫ってくるのを感じ、不安げに同じ方向を見た。すると奇妙な姿をした者が、何か背中に重いものを背負って、前かがみになりながら、ゆっくりと岩をよじのぼってくるのが目に入った。彼は、こんなさびしい人のかよわぬところに、人間のすがたを見たのでびっくりしたが、これはだれかこの近辺のものが助けをもとめているのだろうと思い、手をかしてやろうと、急いでおりていった。
近づいてみると、彼はその見知らぬ人の様子の風変りなのにますます驚いた。背の低い角ばった体格の老人で、かみの毛は濃くて、ぼさぼさしており、胡麻塩ひげをはやしていた。服装はずっと古いオランダ風で、布製の胴着の腰を帯紐でしめ、半ズボンをなん枚も重ねてはいていたが、そのいちばん外側のはだぶだぶで、両側には一列に飾りボタンがつき、両膝には房がついていた。彼は肩に、酒がいっぱい入っているらしい頑丈な樽をかついでいて、こっちへきて荷物に手をかしてくれとリップに合図した。この初めて会った知合いに多少きまりが悪く、不安でもあったが、リップは例によってすぐさま申し出に応じた。そこで、かわるがわる樽をかつぎながら、二人は、水の涸れた渓流の川床らしい狭い峡谷をよじのぼって行った。登るにつれて、リップはときおり長く余韻をひく遠い雷のようなひびきを耳にした。それは高い岩と岩とのあいだの深い峡谷から、というよりはむしろ、その割れ目からきこえてくるように思われた。二人の進む嶮しいみちはそのほうに通じていた。リップはちょっと立ちどまったが、これは高山でときどき起る一時的な雷雨のひびきだろうと思って、また歩きつづけた。峡谷を通りぬけると、切りたった絶壁にかこまれた小さな円形劇場のような窪地へ出た。その絶壁の縁には、木々がおおいかぶさるように枝をさしのべているので、青空と明るく輝く夕やけ雲とがちらっと見えるだけだった。ここまでずっとリップとその連れとは黙々として一生懸命に登ってきた。このような人けのない山のなかに、なんのために酒樽を運びあげるのか、リップにはひどく不審に思われたのだが、この見知らぬ男には何か妙な得体の知れないところがあって、そのために恐ろしい気がして、馴れなれしくできなかったのである。
円形劇場にはいると、新たにふしぎなものがあらわれた。真中の平らな場所で、一団の奇妙な様子の人たちがナインピンズをして遊んでいた。彼らは変った異国風な服装をしていた。あるものは短い上衣を着、あるものは胴着を着て、いずれも帯に短剣をたばさんでおり、大部分はその案内者とおなじ型のだぶだぶの半ズボンをはいていた。彼らの顔つきも一風かわっていた。長い顎ひげを生やし、四角ばった顔で、豚のような小さい眼をしているものもいれば、また、鼻ばかりでできあがっているような顔をしていて、白いすり鉢形の帽子をかぶり、そのうえに赤い小さな鶏の尾羽をつけているものもいた。みなそれぞれ顎ひげを生やしていたが、その形も色もさまざまだった。そのなかにひとり頭目とおぼしきものがいた。その男はがっしりした老紳士で、雨風にたたかれてきたような風貌をしていた。彼はレースのついた上衣を着て、幅の広い帯に短剣をさし、羽根飾りのついた山高帽をかぶり、赤い長靴下をはき、踵の高い短靴にはばらの花かざりをつけていた。この一団のひとびとを見てリップがおもいだしたのは、村の牧師ドミニー・ヴァン・シャイクの客間にある古いフランダース派の絵のなかの人物だった。その絵は、むかし移住の時代にオランダから持ってこられたものである。
とりわけリップに奇妙に思われたのは、この連中が、あきらかに遊び興じているのに、このうえなくしかつめらしい顔をし、ふしぎに黙りこくっていて、まったく今までに見たこともないような陰気な遊び仲間だったということである。この場の静けさをやぶるものは、ナインピンズの球のひびきだけで、球がころがるたびに、その音は雷鳴のように山々を伝ってこだました。
リップとその連れが近づいてゆくと、彼らは急に遊戯をやめ、じっと動かない彫像のような目つきをして、異様な、ふしぎな、生気のない顔でにらんだので、リップの心はおじけづき、膝ががくがくふるえた。彼の連れは、そのとき、樽の中味をいくつかの大きな酒壜にあけかえ、リップに合図して、一座のものに給仕するように命じた。彼は恐ろしさにふるえながら、指図にしたがった。一同は黙りこくったまま、酒をぐいぐい飲むと、また勝負にとりかかった。
次第にリップの恐怖や不安はおさまっていった。彼は、だれの目も自分にそそがれていないすきをみて、思いきってその飲みものを味わってみるほどになったが、その風味は上等のオランダ酒そのままのようだった。リップは生まれつき酒好きだったので、すぐにまた一杯やりたくなった。一口のむとまた一口に手が出て、あまりなんどもなんども酒壜をかたむけていたので、ついに正気を失い、目がくるくるまわって、次第に頭が垂れさがり、そのままぐっすり眠りこんでしまった。
眼をさましてみると、彼は緑の丘のうえにいるのだった。谷間にはじめて、あの老人を見たところである。彼は眼をこすった。うららかな太陽の照り輝く朝だった。小鳥は茂みのなかで跳びながらさえずっていた。鷲が一羽空高く輪をえがいて、けがれのない山のそよ風を胸にうけて舞っていた。「まさか」とリップは思った。「おれは一晩じゅうこんなところで寝たんじゃあるまいな」彼は寝こむまえのいろいろなできごとを思いかえしてみた。酒樽をかついだ奇妙な男、山の峡谷、岩のなかの荒れはてた隠れ場所、ナインピンズをしている陰気な連中、酒壜。「ああ、あの酒壜。あいつが怪しからんのだ」とリップは思った。「女房にどう言いわけをしたらよいだろう」
彼はあたりを見まわして銃をさがしたが、磨いて油をひいてある鳥打ち銃のかわりに、古い火縄銃がかたわらにころがっているのを見つけた。銃身は錆だらけで、銃機はおちかかり、台尻は虫にくわれている。そこで彼は、あのしかつめらしい顔をした山の威張り屋どもが自分をだまし、酒を盛って酔いつぶし、銃をうばいとったのだろうと思った。ウルフも姿を見せなかったが、栗鼠かしゃこを追って、おそらくどこかへ迷いこんでしまったのだろう。彼は口笛を吹き、その名を呼んでみたが、なんの甲斐もなかった。山びこが彼の口笛と呼び声とを繰りかえすだけで、犬の姿はまるで見当らなかった。
彼は昨夜の遊戯場にもう一度行ってみて、もしあの連中のうちのだれかに出あったら、犬と銃とを返してもらおうと決心した。彼は立ちあがって歩こうとしたが、からだの節々がこわばって、いつものようにはきびきびと動けないのに気がついた。「こういう山の寝床はおれには向かんわい」とリップは考えた。「もしこんな浮かれさわぎのおかげで、リュウマチの発作でもおこして寝こもうもんなら、女房のやつにさぞありがたい目にあわされるだろうな」どうにかこうにか、彼は谷間へおりていった。彼は、ゆうべ自分が連れといっしょに登った峡谷を見つけはしたが、おどろいたことに、今は渓流が泡を立てて流れおち、岩から岩へ飛びちって、せせらぎが谷間いっぱいにあふれていた。しかし、彼はどうにかその縁をよじのぼり、白樺や樟やまんさくの林のなかを、やっとのことで通りぬけ、ときには野生の葡萄づるにつまずいたりからまったりした。葡萄づるは木から木へ蔓や巻ひげをまきつけ、彼の行くみちに網をひろげていたのである。
とうとう彼は、峡谷が断崖のあいだをぬけて、円形劇場へと通じていた場所にたどりついた。しかしあの通路は跡形もなかった。岩は通りぬけられないほどの高い壁をつくっていて、その上からは、激流が羽毛のような水しぶきをあげて流れおち、周囲の森のかげで暗くなった広くて深い滝つぼに落ちこんでいた。あわれなリップはここで行きづまってしまった。彼はふたたび犬の名を呼び、口笛を吹いた。それに答えたのは、一群の怠け烏のかあかあ鳴く声だけだった。その烏どもは、陽あたりのよい断崖の上に差しでた枯木のあたりの空に、高々と舞ってあそんでいたが、高いところにいるのをいいことにして、途方にくれた憐れな男を見おろし嘲笑しているように見えた。どうしたらよいだろう。朝も過ぎようとしていた。リップは朝飯を食べていないので、ひどく空腹を感じていた。彼は犬と銃とをあきらめるのが悲しかったし、女房にあうのは恐ろしかった。かといって、山のなかで餓死したところで何になろう。彼は首をふると、錆びついた火縄銃を肩にして、当惑と心配とで胸をつまらせながら、家の方に足を向けた。