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有島武郎
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 3 of 24

3

いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。

客間をも居間をも兼ねた八畳は楕円形の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが鉛墨でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が赤心の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にあるたものちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。

けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から堪えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な嬌羞というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる術をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。

けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。

「学校の方で星野さんにお遇いになりまして」

簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。

「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」

「まあ……」

おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。

「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」

そういいながら園は内衣嚢から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の温みがそれに沁みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを躊躇した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。

何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。

おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪(ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった)の根にさした銀の平打の簪を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。

おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。

藍がかってさえ見える黒い瞳は素ばしこく上下に動いて行から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。

「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」

「そういっていました」

園もまともにおぬいさんを見やりながら。

「だいじょうぶでしょうか」

「僕も心配に思っています」

この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう映ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。

おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が斑らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて醜くそして淫らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような初々しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。

読み終ると、おぬいさんは折れていたところで手紙を前どおりに二つに折って、それを掌の間に挾んでしばらくの間膝の上に乗せて伏眼になっていたが、やがて封筒に添えてそれを机の上に戻した。そして両手で火照った顔をしっかりと押えた。互に寄せ合った肘がその人の肩をこの上なく優しい向い合せの曲線にした。

園はおぬいさんのいうままに星野の手紙を読まねばならなかった。

「前略この手紙を園君に託してお届けいたし候連日の乾燥のあまりにや健康思わしからず一昨日は続けて喀血いたし候ようの始末につき今日は英語の稽古休みにいたしたくあしからず御容赦くださるべく候なお明日は健康のいかんを問わず発足して帰省いたすべき用事これあり滞在日数のほども不定に候えば今後の稽古もいつにあいなるべきやこれまた不定と思召さるべく候ついては後々の事園君に依頼しおき候えば同君につきせいぜい御勉強しかるべくと存じ候同君は御承知のとおり小生会心の一友年来起居をともにしその性格学殖は貴女においても御知悉のはず小生ごときひねくれ者の企図して及びえざるいくたの長所あれば貴女にとりても好箇の畏友たるべく候(この辺まで進んだ時、おぬいさんが眼を挙げて自分を見たのだと思いながらなお読みつづけた)とかくは時勢転換の時節到来と存じ候男女を問わず青年輩の惰眠を貪り雌伏しおるべき時には候わず明治維新の気魄は元老とともに老い候えば新進気鋭の徒を待って今後のことは甫めてなすべきものと信じ候小生ごときはすでに起たざるべからざるの齢に達しながら碌々として何事をもなしえざること痛悔の至りに候ことに生来病弱事志と違い候は天の無為を罰してしかるものとみずから憫むのほかこれなく候貴女はなお弱年ことに我国女子の境遇不幸を極めおり候えば因習上小生の所存御理解なりがたき節もやと存じむしろ御同情を禁じがたく候えどもけっして女子の現状に屏息せず艱難して一路の光明を求め出でられ候よう祈りあげ候時下晩秋黄落しきりに候御自護あいなるべく御母堂にもくれぐれもよろしく御伝えくださるべく候

一八九九年十月四日夜

星野生三隅ぬい様 どんな境遇をも凌ぎ凌いで進んでいこうとするような気禀、いくらか東洋風な志士らしい面影、おぬいさんをはるかの下に見おろして、しかも偽らない親切心で物をいう先生らしい態度が、蒼古とでも評したいほど枯れた文字の背ろに燃えていると園は思った。

同時に園の心はまた思いも寄らぬ方に動いていた。それはある発見らしくみえた。星野とおぬいさんとの間柄は園が考えていたようではないらしい。おぬいさんは平気で園の前でこの手紙を開封した。そしてその内容は今彼がみずから読んだとおりだ。もし以前におぬいさんに送った星野の手紙がもっと違った内容を持っていたとすれば、おぬいさんがこの手紙を開封する時、ああまで園の存在に無頓着でいられるだろうか。

園はまたくだらぬことにこだわっていると思ったが、心の奥で、自分すら気づかぬような心の奥で、ある喜びがかすかに動くのをどうすることもできなかった。それは何んという暖かい喜びだったろう。その喜びに対する微笑ましい気持が顔へまで波及するかと思われた。園は愚かなはにかみを覚えた。

園は自分の前にしとやかに坐っているおぬいさんに視線を移すのにまごついた。彼は自分がかつて持たなかった不思議な経験のために、今まで女性に対して示していた態度の劇変しようとしているのを感ぜずにはいられなかった。少なくともおぬいさんという女性に対しては。

星野のおぬいさんに対する態度はお前が考えたようであるかもしれない。しかしながらおぬいさんの心が星野の方にどう動いているかをたしかに見窮めて知っているか……

園ははっと思った。そしてふと動きかけた心の奥の喜びを心の奥に葬ってしまった。それはもとより淋しいことだった。しかしむずかしいことではないように園には思えた。それらのことは瞬きするほどの短かい間に、園の心の奥底に俄然として起り俄然として消えた電光のようなものだったから。そしておぬいさんがそれを気取ろうはずはもとよりなかった。

けれどもそれまで何んのこだわりもなく続いてきた二人の会話は、妙にぽつんと切れてしまった。園は部屋の中がきゅうに明るくなったように思った、おぬいさんが遠い所に坐っているように思った。

その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが冴え冴えと聞こえてきた。

おぬいさんの家の界隈は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。

それは胸の底に沁み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって報いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように畏敬する星野からの依頼だとはいえ、格別の因縁もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……柄にもない啓蒙的な仕事に時間を潰そうとしていること。それらは呪うべき心のゆるみの仕事ではなかったか。……園は自分自身が苦々しく省みられた。

やがて園は懺悔するような心持で、努めて心を押し鎮めて、いつもどおりの静かな言葉に還りながら言いだした。

「話が途切れましたが、……僕は今学校の鐘の音に聞きとれていたもんですから……あれを聞くと僕は自分の家のことを思いだします。僕の家は浄土宗の寺です。だから小さい時から釣鐘の音やあの宗旨で使う念仏の鉦の音は聞き慣れていたんです。それは今でも耳についていて忘れません。そのためか鐘の音を聞くと僕は妙に考えさせられます。特別、学校のあの鐘には僕はある忘れられない経験を持っています。……そうですね、その話はやめておきましょう……とにかく僕はあの鐘を聞くと、父と兄とにむりに頼んで、こんな所に修業に出てきたのを思いだすんです。……」

ここまで重いながら言葉を運んでくると、園はまた言わないでもいいことを言い続けているような気尤めがした。園は今日は自分ながらどうかしていると思った。それでこれまでの無駄事の取りかえしをするようにと、

「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか悪しからず」

Chapter 3 of 24
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