Chapter 1 of 4

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アンネ・リスベットは、まるで、ミルクと血のようです。若くて、元気で、美しい娘です。歯はまっ白に、ピカピカ光り、目はすみきっています。足は、ダンスをしているように、軽々としています。気持は、それよりももっと軽くて、陽気です。

で、このアンネ・リスベットは、どうなったでしょうか。赤ん坊の、おかあさんになりました。「みにくい赤ん坊」のおかあさんに。――そうです。赤ん坊は、きれいな子ではありませんでした。その子は、生れるとすぐ、みぞほり人夫の、おかみさんのところに、あずけられてしまいました。

おかあさんのアンネ・リスベットは、伯爵さまのお屋敷に、働きに行きました。アンネ・リスベットは、絹とビロードの着物を着て、りっぱな部屋の中に、すわっていました。アンネ・リスベットのところには、すきま風一つ、吹きこんではきませんでした。だれも、アンネ・リスベットに、らんぼうな言葉をかけてはなりませんでした。そんなことをすれば、アンネ・リスベットのからだに、さわるかもしれませんから。なにしろ、アンネ・リスベットは、伯爵さまの、赤ちゃんの、うばなのですから。

赤ちゃんは、王子のようにじょうひんで、天使のようにきれいでした。アンネ・リスベットは、この赤ちゃんを、心から、かわいがりました。ところが、自分の赤ん坊は、みぞほり人夫の家にいました。この家では、おなべがにたって、ふきこぼれるようなことは、ありませんでした。けれども、赤ん坊の口だけは、しょっちゅうあわをふきこぼしていました。

この家には、たいていのとき、だれもいませんでした。赤ん坊が泣きわめいても、それを聞きつけて、あやしてやろうとする者がいないのです。赤ん坊のほうは、泣いているうちに、いつのまにか、寝いってしまいます。眠ってさえいれば、そのあいだは、おなかがへっていることも、のどがかわいていることも、感じないものです。ほんとうに、眠りというものは、すばらしい発明ですよ。

それから、何年もたちました。時がたてば、草ものびる、と、よく言われますが、アンネ・リスベットの子供も、そのとおり、すくすくと大きくなりました。もっとも、あの子は、どうも、発育がよくない、と、人々は言いましたが。

さて、その子は、おかあさんがお金をやってあずけた、みぞほり人夫の家の人間に、すっかりなりきっていました。おかあさんのほうは、子供とは、まったく、えんがなくなってしまいました。町の奥さんになって、気持のよい、楽しい暮しをしていたのです。よそへ出かけるときには、ちゃんと、帽子をかぶって行ったものです。しかし、みぞほり人夫の家には、一度も行ったことがありませんでした。なぜって、その家は、町からたいへん離れていたからです。それに、用事もありませんからね。

男の子は、みぞほり人夫の家の、家族のひとりになっていました。うちの人たちは、

「この子は、がつがつ食うなあ」と、言っていました。

そこで、食べるものぐらい、自分で働いて、かせがなければなりません。こうして、男の子は、マッス・イェンセンさんの、赤いウシのせわをすることになりました。じっさい、もうこんなふうに、家畜のせわをして、手伝いをすることができるほどになっていたのです。

伯爵のお屋敷の布さらし場では、くさりにつながれたイヌが、イヌ小屋の上に、えらそうにすわりこんで、お日さまの光をあびています。だれかが、そばを通りかかると、きまって、ワンワンほえたてます。雨の日には、このイヌは、自分の小屋の中にもぐりこんで、一しずくの雨にもぬれずに、暖かにしています。

いっぽう、アンネ・リスベットの子供も、お日さまの光をあびながら、みぞのふちにすわって、くいをけずっています。春のころ、花の咲いている野イチゴのかぶを、三つばかり見つけました。そのときは、きっと今に実がなるぞ、と思って、楽しみにしたものです。ところが、実は一つもなりませんでした。霧雨がふってきました。雨の中にすわっていると、びしょぬれになってしまいました。けれども、まもなく、強い風が吹いてきました。ぬれて、からだにくっついている着物を、かわかしてくれました。

男の子は、お屋敷へ行くと、みんなに、つつかれたり、ぶたれたりしました。

「なんてきたない子だ。いやらしい子だ」と、下女も、下男も、言うのです。

でも、この子は、そういうことには、なれっこになっていました。かわいそうに、だれにも、かわいがられたことはないのです。

さて、それから、アンネ・リスベットの男の子は、どうなったでしょうか。ほかに、どうなるはずもありません。「だれにも、かわいがられたことはない」これが、この子の運命だったのです。

この子は、陸から船に乗りうつって、海に出ました。といっても、ちっぽけな船です。男の子は、船頭がお酒を飲んでいるあいだ、かじのところにすわっていました。いつも、きたならしい、よごれたかっこうをしていました。それに、寒そうに、ぶるぶるふるえていて、がつがつしていました。そのようすを見れば、だれでも、この子は、腹いっぱい、食べたことがないんだろう、と、思いそうです。いや、ほんとうに、そのとおりだったのです。

秋のおわりのことでした。風が吹きだして、雨もまじりはじめました。荒れもようの天気になってきました。

つめたい風が、あつい着物をとおして、はだまでしみ入りました。ことに、海の上ではそうです。いま、その海の上を、小さな帆かけ船が一そう、走っていました。船には、ふたりの人間しか、乗っていません。いや、もっと正しく言えば、ひとりと、はんぶんです。というのは、乗っていたのは、船頭と、小僧でしたから。

この日は一日じゅう、うす暗い天気でした。それが今は、ますます暗くなって、寒さも身を切るようでした。

船頭は、からだの底から、暖まろうと思って、ブランデーを飲みました。ブランデーのびんは、古いものでした。コップも、古いものでした。コップは、上のほうはなんでもありませんでしたが、足が折れていました。それで、木をけずって、青くぬったのを、足のかわりにしていました。一ぱいのブランデーでも、よくきくんだから、二はい飲めば、もっと、よくきくだろう、と、船頭は思いました。

小僧は、かじのところにすわっていました。タールでよごれた、かじかんだ手で、かじにしがみついていました。それにしても、みにくい小僧です。かみの毛はぼうぼう、からだは、ずんぐりむっくりです。この小僧は、いうまでもなく、みぞほり人夫の子供でした。教会の名簿では、アンネ・リスベットの子供となっていましたが。

風は、ヒューヒュー吹きまくり、小船は、波にもまれました。帆は、風を受けてふくれました。船は、飛ぶように走っていきました。――まわりは、はげしい雨と風です。けれども、それだけではすみませんでした。――ストップ。――なんでしょう? なにが、ぶつかったんでしょう? なにが、くだけちったんでしょう? なにが、船の中に、なだれこんできたんでしょう?

船は、くるくると、まわっています。大雨が、ザアッと降ってきたんでしょうか? それとも、大波が、もりあがってきたんでしょうか?

少年は、かじのところで、大声にさけびました。

「イエスさま!」

船は、海の底にある大きな岩に、ぶつかったのです。そして、村の沼にしずんでいる、古靴みたいに、海の底にしずんでしまいました。世間でよく言うように、人間はもちろん、ネズミ一ぴき、生きのこりませんでした。船には、たくさんのネズミのほかに、人間もひとり半、つまり、船頭と、みぞほり人夫の子供がいたのですが。

船のしずんでいくありさまを見ていたのは、ただ、鳴きさけぶカモメと、水の中の、さかなたちだけでした。けれども、そのカモメやさかなたちも、ほんとうは、よくは見ていなかったのです。なぜって、みんなは、水がどっと、船の中に流れこんで、船がしずんだとき、びっくりして、わきへ逃げてしまったのですから。

船は、水面からたった二メートルぐらいのところに、しずみました。ふたりは、海の底にほうむられました。ほうむられて、忘れられました。ただ、コップだけは、しずみませんでした。青くぬった、木の足のおかげで、ぷかり、ぷかりと、波のまにまに、浮んでいたのです。やがて、波にはこばれて、海岸に打ちあげられると、くだけてしまいました。

いったい、どこにでしょう? そして、いつのことでしょう?

いや、いや、その話は、もう、やめにしましょう。そのコップは、コップとしての、役目もりっぱにはたし、人にかわいがられてもきたのですから。

しかし、アンネ・リスベットの子供は、そういうわけにはいきませんでした。けれども、天国では、どんな魂も、「だれにも、かわいがられることはない」などとは、言われないでしょう。

アンネ・リスベットは、それからも、町に住んでいました。もう、なん年も住んでいます。人からは、奥さんと、呼ばれていました。奥さんは、むかし、伯爵の家で、働いていたころのことを思い出しては、よく、人に話しました。そういうときには、とくべつに、ぐっと、胸をはったものでした。よそへ馬車で出かけたり、伯爵の奥さまや、男爵の奥さまがたと、話をしたことを、うれしそうに話しました。

あの、かわいらしい、伯爵のぼっちゃまは、それはそれは愛らしくて、神さまの天使のようでした。この上もなく心のやさしい子供でした。ぼっちゃまは、アンネ・リスベットに、とてもなついていました。アンネ・リスベットも、ぼっちゃまが大好きでした。ふたりは、キスをしたり、ふざけあったりしました。ぼっちゃまは、アンネ・リスベットにとっては、大きなよろこびでした。自分の命のつぎに、だいじなものでした。

そのぼっちゃまも、今は大きくなって、十四歳になっています。勉強もよくできる、美しい少年です。

アンネ・リスベットは、赤ちゃんのときに、だいてあげてから、ぼっちゃまには、一度も、会ったことがありませんでした。それもそのはず、伯爵のお屋敷へは、もう何年も、行ったことがなかったのです。お屋敷へ行くのには、かなりの旅行をしなければならなかったのです。

「一度、思いきって行ってこよう」と、アンネ・リスベットは、言いました。「すてきな、わたしのかわいい、ぼっちゃまのところへ、すぐ行ってこよう。きっと、ぼっちゃまも、わたしのことをこいしがって、心にかけていてくださるにちがいないわ。むかしは、天使のような、小さな腕を、わたしの首にまきつけて、『アン・リス』とおっしゃったものだわ。そうそう、あのころは、バイオリンのような、声をしていらっしゃったわ。そうだわ、思いきって、お目にかかりに行ってこよう」

アンネ・リスベットは、しばらく、ウシ車に乗せていってもらいました。それからは、自分の足で歩いて、伯爵のお屋敷にきました。大きなお屋敷は、むかしのままで、光りかがやいています。おもてのお庭も、むかしのとおりです。

けれども、家の中にいる人たちは、アンネ・リスベットの見たこともない人ばかりです。むこうでも、だれひとり、アンネ・リスベットを知っている者はありません。もちろん、アンネ・リスベットが、むかし、うばとして、このお屋敷でたいせつな人だった、ということなどは、夢にも知りません。

「いいわ。もうすぐ奥さまが、わたしのことを、みんなに話してくださるわ。ぼっちゃまだって、きっと。ああ、早く、ぼっちゃまにお目にかかりたい」と、アンネ・リスベットは思いました。

とうとう、アンネ・リスベットは、このお屋敷にきたのです。でも、長いこと、待たなければなりませんでした。その、待っているあいだが、どんなに長く感じられたことでしょう。

うちのかたたちが、食卓につく前に、アンネ・リスベットは、奥さまのところに呼ばれました。奥さまは、やさしい言葉をかけてくださいました。かわいいぼっちゃまには、食事のあとで、お目にかかることになりました。しばらくしてから、また、呼ばれました。

ああ、ぼっちゃまは、すっかり大きくなって、ひょろ長くなっています。でも、美しい目と、天使のような口もとだけは、むかしのままです。ぼっちゃまは、アンネ・リスベットを見ました。けれども、ひとことも、言いませんでした。はっきりとは、おぼえがなかったのです。ぼっちゃまは、すぐに、くるりとふりむいて、むこうへ行こうとしました。アンネ・リスベットは、その手をとって、口にあてました。

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