一
私が永井荷風君を知つたのは卅七八年も以前のこと、私が廿二歳、永井君は十九歳の美青年であつた。永井君の家は麹町の一番町で以前は文部省の書記官だつた父君は當時、郵船會社の横濱支店長をして居て宏壯なものだつた。永井君は中二階のやうになつた離れの八疊を書齋に當てゝ、座る机もあつたが、卓机もあつて籐椅子が二脚、縁側の欄干に沿うて置かれてあつた。その籐椅子を私はどんなに懷かしがつたものか。訪問れて往くと先づ籐椅子に腰を降して、對向つた永井と語るのは、世間へ出ようとお互に焦慮つて居る文學青年の文學談であつた。
その頃荷風君は能く尺八を吹いた。時折それを聞かして貰つた。荷風君の幼年時からの友人である井上唖々君が高等學校の帽子を冠つて同じやうに絶えず訪問れて來た。それから早死した清國公使館の參讃官の息子の羅蘇山人も時々やつて來た。私等は話に倦むと連立つて招魂社の境内を散歩した。私がトオスト麺麭の味を知つたのは荷風君のその中二階で、私が行く頃やつと眼覺めた荷風君へ、女中が運んで來る朝飯のトオストを、私が横合から手を出して無作法にムシヤ/\やるのも常例であつた。
談文學になると仲々雄辯になる永井君であつたが、現在の永井君のやうに私生活に就ては何にも私達に洩らさなかつた。井上唖々君が代辯していろ/\と私達に話した。附屬の中學に往つて居たが、體操を嫌ひその時間を拔けるので、教師に怒られ、同級生の腕節の強いのから酷められたりして、その爲に上の學校へ上るのを放棄したと云ふやうなことであつた。成程體操嫌ひらしい永井君は腺病質で、色の青白い、長身の弱々しい體格であつた。唖々君が猶も洩らしたのは此の上の學校へ上らぬのと、文學を志して居るのが、父君の氣に入らず、母君の心配の種になつて居ると云つて居た。
貧乏人の私などは遊廓の味をまだ知らなかつたが、永井君は既に知つて居るやうだつた。永井君自身も私に自分は早熟だとは語つて居た。麹町の英國公使館裏に快樂亭と云ふ瀟洒な西洋料理店があつて、其處にお富と云ふ美しい可憐な娘があつた。當時四谷見附け外にあつた學習院の若い公達が非常に快樂亭を贔負にして、晝も夜も食事に來て居た。料理も相應なものであつたが、それよりもお富ちやんのサアビイスを悦んだのである。永井君も此快樂亭へは能く出懸けて往つた。此のお富ちやんは私の知人の畫家の妻となり、今も健在だが、永井君へ烈しい思慕の情を寄せるやうになつた。今一人永井君へ想ひを寄せる女があつた。招魂社横の通りに江戸前の散髮屋があつて、兄息子の散髮師が上海歸りで外人の刈り方の通を云ふところから仲々繁昌し、私達仲間も行きつけであつたが、其處の看板娘が荷風君を戀ひ慕つたのである。近所が富士見町の藝者屋町なので、その娘にしても華美な花柳界の態に染まり、いつも髮を島田髷に結ひ、黒繻子の衿の懸つた黄八丈の着物を着て、白粉も濃く塗つて居た。私達金がないので風采も揚らない止むを得ざる謹直組は、荷風君のかうした艷聞をどんなに羨ましく思つたことか。此の看板娘は今も日比谷公園近くに盛大に或種の店舖を構へ、いつも店頭にすつかり皺くちや婆になつた顏で坐つて居るので、私が時折今の荷風君に、
『君を戀した女、君も嫌ひでなく芝居へ連れていつてやつたりした女を見に往かうぢやないか。』
銀座の茶房で逢つたりする折に云ふと、流石に嫌がつて言葉を外らして了ふのである。
荷風君や私達は巖谷小波先生の宅で開かれる木曜會へ毎木曜日に出席して、各自に創作したものを朗讀して、お互に讀んで批評して研鑚し合つて居た。木曜會は小波先生を中心にして久留島武彦君、今の名古屋新聞副社長になつて居る森一眞君、木戸孝允公と深い縁故のある前滿鐵鑛山課長の木戸忠太郎君。夫に黒田湖山君、西村渚山君、井上唖々君やゝ遲れて押川春浪君も加はつて來て總人數は廿人餘り集つて居た。荷風君は前に廣津柳浪子の許へ教へを乞ひに往つて居たのが、木曜會の方へ移つて來たのである。時代は硯友社全盛で、尾崎紅葉先生がまだ金色夜叉を書かず、多情多恨で滿都の人氣を集めて居た。荷風君は文章體でなく、書く小説は柳浪張りの會話を主體としたものであつた。その木曜會員は紅葉先生が中心になつて出來て居た俳句會の紫吟社へ出席し得られたので、荷風君にしても其處で私同樣硯友社の多くの先輩を知り、鏡花、風葉、秋聲、春葉氏等と、知り合ふやうになつたのである。
私は京都から東京へ出て來た當時、小波先生の家でお厄介になつて居たのを、小石川原町の一行院と云ふ寺に寄宿するやうになつたが、麹町戀しく、殆ど隔日位ゐに麹町へ出て行き、出て行く度毎に一番町の荷風氏を訪れ、能く夕飯のお馳走に預かつた。然うして時折母堂の居室へ往つて話を伺ひ、現在は農學博士となつて居る末弟の伊三郎君、母方の鷲尾家へ養子に行つて早世した次の弟の人も知合つた。小波先生の引きで博文館の少年世界や其他の雜文で漸く衣食の資を得て居た私から見ると、生活の苦勞が少しもなくて悠々小説に精進して居られる荷風君は羨望に堪えない地位で、私がいつもそれを口にすると、
『それは淺見だよ、之で僕には僕丈けの悲みや苦勞があるんだよ。』
之は文學者となるのを好まぬ父君との間の隔離を仄めかしたものである。それでも私は羨ましかつた。其中に私は衣食の爲に神戸新聞へ務めるやうになり、荷風君初め木曜會員に送られて往つたが、社會部長の江見水蔭氏と仲合が善くなく僅に一ヶ月にして歸京して來て、又一行院へ這入つたが、直に麹町の五番町の下宿屋へ移轉した。其處は荷風君の家と相距る四丁程であつた。それから三番町の一心館と云ふのに轉宿したが、其處はより多く永井君の家と近かつた。此の下宿で私は新小説に文壇の初陣した團扇太鼓を書いたのであるが、永井君は既にその前年に、中村春雨、田村松魚君と一緒に、新小説の懸賞小説に當選して掲載され、文壇人として認められて居た。
文壇の天下は紅葉先生が金色夜叉を書出して一世を風靡して居たが同時に鏡花、風葉、秋聲、春葉、宙外、天外、花袋と新進作家が轡を並べて居て華やかなものであつた。私は依然一心館に居て大學館と云ふ書肆から發行する活文壇と云ふ文學雜誌を、井上唖々君の助力で編輯して居たが、荷風君は私に取つて善い編輯の助言者であつた。小栗風葉君が時々此一心館へ、私を訪れて來た。併しそれは風葉君が態々私を訪問してくれたのでなく、富士見町に狎妓があつて、待合で遊び疲勞れた姿を見せるのであつた。その待合は一心館の直ぐ横町なので、時には私を呼出すのである。或日私を呼出し、同時に謹直な蒲原有明君と永井荷風君を呼んだ。文壇花形の風葉君からの使なので、兩君もやつて來たが、惡戯好きの風葉君は兩君へ女を取持たうとした。然う云ふ場面に馴れない蒲原君は愕いて、自分が酒を飮んだ丈けの金を拂ふと云つて持合せの金を差出して這々の體で遁げたが、荷風君は悠々と落附き、女が來たにかゝはらず厠へ行くやうな顏をして、するりと歸つて了つた。風葉君の口惜しがるまいことか。その夜を泊つた風葉君は翌日又も私等三人を呼び、眞晝間大勢の藝者を連れて、天河天神の向側のいろは牛肉店へ歩いて飯を食ひに行くのに同行を強ひられ、蒲原君も私も知人の多い麹町なので遲れて歩き、流石の風葉君も通行人に見らるゝにてれて私達の側へ來たのに、荷風君一人平然として藝者に取捲れ、談笑して歩く大膽さに一同は舌を捲いて了つた。
側から見て此頃が荷風君の經歴で暗黒時代でないかしらと思はるゝのは、當時の文士の登龍門である文藝倶樂部や新小説へ時々作品を發表して居るにかゝはらず、他の方向へ身を轉換しようとしたのである。文壇に思ふやうに作品を公にせられないのに焦慮した失望か、それとも家庭が面白くないのでそんな決心をしたのか、福地櫻痴居士を訪問れて、歌舞伎座の作者部屋へ這入つて黒衣を着て見たり、かと思ふと落語家の大家を訪問して門下生にならうとしたり、私は後で唖々君から聞いたのであるが、何うやら家を出て生活しようとしたのである。或る事件――それは戀愛問題であつたかもしれない、父君と衝突して家に居るのが面白くなかつたらしい。併し此の兩方の務口も永井君の豫想と反して居たので中止して、やはり家へ落着くやうになつた。家に落附くと小説道へ一層精進の心を燃し、ゾラのルウゴン・マツカアル叢書を英文で讀み出したのである。
私はツルゲネフを崇拜して、手當り次第にツルゲネフの飜譯を集めて熟讀した。永井君もツルゲネフは嗜好であつた。蒲原君もツルゲネフやドウデ黨であつた。私達は顏を合すとツルゲネフの作品を論じ合つたが、或日私と荷風君と黒田湖山、西村渚山、紅葉門下の藤井紫溟それから平尾不孤その他二人程で芝公園へ遊びに出懸け、其處の山上で文壇を論じ、硯友社の傾向を罵倒し、假令現在は容られずとも歐洲大家の作品に倣つて勉強し未來の文壇に覇を稱へようと熟議したのであつたが、その望みを達したのは永井君一人であるのを思ふと、私は忸怩とせざるを得ない。此の芝公園の議論は誰かゞ雜誌で素破拔いたので、硯友社の先輩から睨まれて、當座擽つたい思ひをしたものであつた。
木曜會の黒田湖山君は何うしたものか、硯友社の先輩に作品價を認められず、紅葉門下の勢力圈の新小説へ作品を送つても掲載されないのに業を煮やし、川上眉山氏の許に居て時折木曜會へ顏出して居た赤木巴山君を説附け、赤木君の資本で美育社と名づける出版社を設け、先づ自身の作品から初めて、知人の作品を單行本として出版してくれた。第二に選ばれたのは永井君の地獄の花であつた。永井君が暫時友人とも離れてゾラを讀んだ後の創作である。それを讀んだ時私は全く驚かされたし、恐れもした。それ迄永井君の作品は云つては惡いが内容も外形も柳浪式であつて私はそんなに重きを置いて居なかつたが、地獄の花は文章にしても、内容にしても、今迄永井君が書いたものと、全然異なつて居て、戀愛物語の小説から一歩も二歩も踏出したものであつた。批評家は擧て賞讃したし、從來の朋友は違つた眼で荷風君を見るやうになつた。ゾラを讀んだ影響が永井君の心境を一變さしたのである。永井君がモウパツサンを推賞するやうになつたのは、此の時期である。不思議な因縁は此の美育社の資本主の赤木巴山君は、永井君に戀した散髮屋の看板娘を當時愛人として居たことである。