1
葬列
石川啄木
久し振で帰つて見ると、嘗ては『眠れる都会』などと時々土地の新聞に罵られた盛岡も、五年以前とは余程その趣を変へて居る。先づ驚かれたのは、昔自分の寄寓して居た姉の家の、今裕福らしい魚屋の店と変つて、恰度自分の机を置いた辺と思はれるところへ、吊された大章魚の足の、極めてダラシなく垂れて居る事である。昨日二度、今朝一度、都合三度此家の前を通つた自分は、三度共此大章魚の首縊を見た。若しこれが昔であつたなら、恁う何日も売れないで居ると、屹度、自分が平家物語か何かを開いて、『うれしや水、鳴るは滝の水日は照るとも絶えず、………フム面白いな。』などと唸つてるところへ、腐れた汁がポタリ/\と、襟首に落ちやうと云ふもんだ。願くは、今自分の見て居る間に、早く何処かの内儀さんが来て、全体では余計だらうが、アノ一番長い足一本だけでも買つて行つて呉れれば可に、と思つた。此家の隣屋敷の、時は五月の初め、朝な/\学堂へ通ふ自分に、目も覚むる浅緑の此上なく嬉しかつた枳殻垣も、いづれ主人は風流を解せぬ醜男か、さらずば道行く人に見せられぬ何等かの秘密を此屋敷に蔵して置く底の男であらう、今は見上げる許り高い黒塗の板塀になつて居る。それから少許行くと、大沢河原から稲田を横ぎつて一文字に、幅広い新道が出来て居て、これに隣り合つた見すぼらしい小路、――自分の極く親しくした藻外といふ友の下宿の前へ出る道は、今廃道同様の運命になつて、花崗石の截石や材木が処狭きまで積まれて、その石や木間から、尺もある雑草が離々として生ひ乱れて居る。自分は之を見て唯無性に心悲しくなつた。暫らく其材木の端に腰掛けて、昔の事を懐ふて見やうかとも思つたが、イヤ待て恁な昼日中に、宛然人生の横町と謂つた様な此処を彷徨いて何か明処で考へられぬ事を考へて居るのではないかと、通りがかりの巡査に怪まれでもしては、一代の不覚と思ひ返して止めた。然し若し此時、かの藻外と二人であつたなら、屹度外見を憚らずに何か詩的な立廻を始めたに違ひない。兎角人間は孤独の時に心弱いものである。此三の変遷は、自分には毫も難有くない変遷である。恁な変様をする位なら、寧ろ依然『眠れる都会』であつて呉れた方が、自分並びに『美しい追憶の都』のために祝すべきであるのだ。以前平屋造で、一寸見には妾の八人も置く富豪の御本宅かと思はれた県庁は、東京の某省に似せて建てたとかで、今は大層立派な二階立の洋館になつて居るし、盛岡の銀座通と誰かの冷評した肴町呉服町には、一度神田の小川町で見た事のある様な本屋や文房具店も出来た。就中破天荒な変化と云ふべきは、電燈会社の建つた事、女学生の靴を穿く様になつた事、中津川に臨んで洋食店の出来た事、荒れ果てた不来方城が、幾百年来の蔦衣を脱ぎ捨てて、岩手公園とハイカラ化した事である。禿頭に産毛が生えた様な此旧城の変方などは、自分がモ少し文学的な男であると、『噫、汝不来方の城よ※ 汝は今これ、漸くに覚醒し来れる盛岡三万の市民を下瞰しつつ、……文明の儀表なり。昨の汝が松風明月の怨長なへに尽きず……なりしを知るものにして、今来つて此盛装せる汝に対するあらば、誰かまた我と共に跪づいて、汝を讚するの辞なきに苦しまざるものあらむ。疑ひもなく汝はこれ文明の仙境なり、新時代の楽園なり。……然れども思へ、――我と共に此一片の石に踞して深く/\思へ、昨日杖を此城頭に曳いて、鐘声を截せ来る千古一色の暮風に立ち、涙を萋々たる草裡に落したりし者、よくこの今日あるを予知せりしや否や。……然らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦蘿雑草の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫已んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭恁な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々開園式が済んだ許りの、文明的な、整然とした、別に俗気のない、そして依然昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児供の生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨な死様をしないとも限らないから、いつそ今斯うスヤ/\と眠つてる間に殺した方が可かも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不所存と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲は何も本気で云ふのでなくて、唯序に白状するのだから、別段差閊もあるまい。考といふは恁だ。此公園を公園でなくして、ツマリ自分のものにして、人の入られぬ様に厚い枳殻垣を繞らして、本丸の跡には、希臘か何処かの昔の城を真似た大理石の家を建てて、そして、自分は雪より白い髪をドツサリと肩に垂らして、露西亜の百姓の様な服を着て、唯一人其家に住む。終日読書をする。霽れた夜には大砲の様な望遠鏡で星の世界を研究する。曇天か或は雨の夜には、空中飛行船の発明に苦心する。空腹を感じた時は、電話で川岸の洋食店から上等の料理を取寄る。尤も此給仕人は普通の奴では面白くない。顔は奈何でも構はぬが、十八歳で姿の好い女、曙色か浅緑の簡単な洋服を着て、面紗をかけて、音のしない様に綿を厚く入れた足袋を穿いて、始終無言でなければならぬ。掃除をするのは面倒だから、可成散らかさない様に気を付ける。そして、一年に一度、昔羅馬皇帝が凱旋式に用ゐた輦――それに擬ねて『即興詩人』のアヌンチヤタが乗廻した輦、に擬ねた輦に乗つて、市中を隈なく廻る。若し途中で、或は蹇、或は盲目、或は癩を病む者、などに逢つたら、(その前に能く催眠術の奥義を究めて置いて、)其奴の頭に手が触つた丈で癒してやる。……考へた時は大変面白かつたが、恁書いて見ると、興味索然たりだ。饒舌は品格を傷ふ所以である。
立花浩一と呼ばるる自分は、今から二十幾年前に、此盛岡と十数哩を隔てた或る寒村に生れた。其処の村校の尋常科を最優等で卒業した十歳の春、感心にも唯一人笈をこの不来方城下に負ひ来つて、爾後八星霜といふもの、夏休暇毎の帰省を除いては、全く此土地で育つた。母がさる歴とした旧藩士の末娘であつたので、随つて此旧城下蒼古の市には、自分のために、伯父なる人、伯母なる人、また従兄弟なる人達が少なからずある。その上自分が十三四歳の時には、今は亡くなつた上の姉さへ此盛岡に縁付いたのであつた。自分は此等縁辺のものを代る/″\喰ひ廻つて、そして、高等小学から中学と、漸々文の林の奥へと進んだのであつた。されば、自分の今猶生々とした少年時代の追想――何の造作もなく心と心がピタリ握手して共に泣いたり笑つたり喧嘩して別れたりした沢山の友人の事や、或る上級の友に、立花の顔は何処かナポレオンの肖像に似て居るネ、と云はれてから、不図軍人志願の心を起して毎日体操を一番真面目にやつた時代の事や、ビスマークの伝を読んでは、直小比公気取の態度を取つて、級友の間に反目の種を蒔いた事や、生来虚弱で歴史が好きで、作文が得意であつた処から、小ギボンを以て自任して、他日是非印度衰亡史を著はし、それを印度語に訳して、かの哀れなる亡国の民に愛国心を起さしめ、独立軍を挙げさせる、イヤ其前に日本は奈何かしてシヤムを手に入れて置く必要がある。……其時は、自分はバイロンの轍を踏んで、筆を剣に代へるのだ、などと論じた事や、その後、或るうら若き美しい人の、潤める星の様な双眸の底に、初めて人生の曙の光が動いて居ると気が付いてから、遽かに夜も昼も香はしい夢を見る人となつて旦暮『若菜集』や『暮笛集』を懐にしては、程近い田畔の中にある小さい寺の、巨きい栗樹の下の墓地へ行つて、青草に埋れた石塔に腰打掛けて一人泣いたり、学校へ行つても、倫理の講堂で竊と『乱れ髪』を出して読んだりした時代の事や、――すべて慕かしい過去の追想の多くは、皆この中津河畔の美しい市を舞台に取つて居る。盛岡は実に自分の第二の故郷なんだ。『美しい追憶の都』なんだ。
十八歳の春、一先づこの第二の故郷を退いて、第一の故郷に帰つた。そして十幾ヶ月の間閑雲野鶴を友として暮したが、五年以前の秋、思立つて都門の客となり、さる高名な歴史家の書生となつた。翌年は文部省の検定試験を受けて、歴史科中等教員の免状を貰ふた。唯茲に一つ残念なのは、東洋のギボンを以て自ら任じて居た自分であるのに、試験の成績の、怪しい哉、左程上の部でなかつた事である。今は茨城県第○中学の助教諭、両親と小妹とをば、昨年の暮任地に呼び寄せて、余裕もない代り、別に窮迫もせぬ家庭を作つた。
今年の夏は、校長から常陸郷土史の材料蒐集を嘱託せられて、一箇月半の楽しい休暇を全く其為めに送つたので、今九月の下旬、特別を以て三週間の賜暇を許され、展墓と親戚の廻訪と、外に北上河畔に於ける厨川柵を中心とした安倍氏勃興の史料について、少しく実地踏査を要する事があつて、五年振に此盛岡には帰つて来たのである。新山堂と呼ばるる稲荷神社の直背後の、母とは二歳違ひの姉なる伯母の家に車の轅を下させて、出迎へた、五年前に比して別に老の見えぬ伯母に、『マア、浩さんの大きくなつた事!』と云はれて、新調の背広姿を見上げ見下しされたのは、実に一昨日の秋風すずろに蒼古の市に吹き渡る穏やかな黄昏時であつた。
遠く岩手、姫神、南昌、早池峰の四峯を繞らして、近くは、月に名のある鑢山、黄牛の背に似た岩山、杉の木立の色鮮かな愛宕山を控へ、河鹿鳴くなる中津川の浅瀬に跨り、水音緩き北上の流に臨み、貞任の昔忍ばるる夕顔瀬橋、青銅の擬宝珠の古色滴る許りなる上中の二橋、杉土堤の夕暮紅の如き明治橋の眺めもよく、若しそれ市の中央に巍然として立つ不来方城に登つて瞰下せば、高き低き茅葺柾葺の屋根々々が、茂れる樹々の葉蔭に立ち並んで見える此盛岡は、実に誰が見ても美しい日本の都会の一つには洩れぬ。誰やらが初めて此市に遊んで、『杜陵は東北の京都なり。』と云つた事があるさうな。『東北の京都』と近代的な言葉で云へば余り感心しないが、自分は『みちのくの平安城』と風雅な呼方をするのを好む。
この美しい盛岡の、最も自分の気に入つて見える時は、一日の中では夜、天候では雨、四季の中では秋である。この三を綜合すると、雨の降る秋の夜が一番好い事になるが、然しそれでは完全に過ぎて、余り淋し過ぎる。一体自分は歴史家であるから、開闢以来此世界に現れた、人、物、事、に就いては、少くも文字に残されて居る限りは大方知つて居るつもりであるが、未嘗て、『完全なる』といふ形容詞を真正面から冠せることの出来る奴には、一人も、一個も、一度も、出会した事がない。随つて自分は、『完全』といふ事には極めて同情が薄いのである。完全でなくても構はぬ、ただ抜群であれば可い。世界には随処に『不完全』が転がつて居る。其故に『希望』といふものが絶えないのだ。此『希望』こそ世界の生命である、歴史の生命である、人間の生命である。或る学者は、『歴史とは進化の義なり。』と説いて居るが、自分は『歴史とは希望の義なり。』と生徒に教へて置いた。世界の歴史には、随分間違つた希望のために時間と労力とを尽して、そして『進化』と正反対な或る結果を来した例が少なくない。此『間違つた希望』と『間違はない希望』とを鑑別するのが、正当なる歴史の意義ではあるまいかと自分は思ふ。自分一個の私見では、六千載の世界史の中、ペリクリース時代の雅典以後、今日に到る部分は、間違つた希望に依る進化、換言すれば、堕落せる希望に依る堕落、の最も大なる例である。斯う考へると、誠に此世が情なく心細くなるが、然し此点が却つて面白い、頗る面白い。自分は『完全』といふものは、人間の数へ得る年限内には決して此世界に来らぬものと仮定して居る。(何故なれば、自分は『完全になる』とは、水が氷になる如く、希望と活動との死滅する事であると解釈して居るからだ。)だから、我等の過去は僅々六千載に過ぎぬが、未来には幾百千億万年あるか知れない。この無限の歴史が、乃ち我等人間の歴史であると思ふと、急に胸が豁いた様な感じがする。無限無際の生命ある『人間』に、三千年位の堕落は何でもないではないか。加之、較々完全に近かつた雅典の人間より、遙かに完全に遠かつた今の我々の方が、却つて/\大なる希望を持ち得るではないか。……斯く、真理よりも真理を希求する心、完全よりも完全に対する希望を尊しとする自分が、夜の盛岡の静けさ、雨の盛岡の淋しさ、秋の盛岡の静けさ寂しさは愛するけれども、奈何して此三が一緒になつて三足揃つた完全な鍋、重くて黒くて冷たくて堅い雨ふる秋の夜といふ大きい鍋を頭から被る辛さ切なさを忍ぶことが出来やう。雨と夜と秋との盛岡が、何故殊更に自分の気に入るかは、自分の知つた限りでない。多分、最近三十幾年間の此市の運命が、乃ち雨と夜と秋との運命であつた為めでがなあらう。