十
「そう、貴方よくいらっしゃいましたね、勝山さん、あのお夏さん、お変りはないの、ああ、ついこないだおいでなすったのね。」ともっての外御懇のお言葉。
「人形町からでは随分ある。」と鴨川は打頷く。
「貴方もあの辺なんですか。」
青年はやっと口が利けた。
「へい、近所でございまして、」
「遠いんですね、腕車でも随分暑かったでしょう、宅に居りましても今日あたりはまた格別なんです、」といいながら純白な麻を細く襲ねた、浴衣でも上品な襟を扱いて背後を振向き、
「定や、団扇を持っておいで。」
小造な若い令夫人は声を懸けて向直ったが返事をしなかったので、
「貴方憚り様ですが呼鈴を、」とお睦まじい。
すなわち傍なる一閑張の机、ここで書見をするとも見えず、帙入の歌の集、蒔絵の巻莨入、銀の吸殻落などを並べてある中の呼鈴をとんと強く、あと二ツを軽く、三ツ押すと、チン、リンリンリン――と鳴る、ばたばたと急いで来て、
「はい、」といって顔を出した以前の小間使、先刻意を了したと見えて二本ばかり団扇をそれへ差出す折から、縁側に跫音して、奥の方から近いたが、やがてこの座敷の前の縁、庭樹を籠めて何となく、隣家のでもあるか蚊遣の煙の薄りと夏の夕を染めたる中へ、紗であろう、被布を召した白髪を切下げの媼、見るから気高い御老体。
それともつかぬ状で座敷を見入ったが、
「御客様かい、貴方御免なさいよ。」といって座に着いた。
「灯をね、」と顔をさし寄せて、令夫人は低声でいう。
夕暮の徒然、老母も期せずしてこの処に会したので、あえて音楽に関して弟子に対する他は、面会日が水曜と触の出た令夫人が、次の室に居合せたり、奥深く世を避けておわす老母が縁側に来合せたりするのが、謝礼金五千疋を持参の者に対する鴨川家の家風ではない。青年は蓋し期せずして拝顔を得たのであった。
「お初に。どちらの、」とこれも鴨川をちょいと御覧ずる。
「勝山さんのお使ですって、」と令夫人傍から引取って引合せる。
「おお、あの何か江戸ッ子の、いつも前垂掛けでおいでなさる、活溌な、ふァふァふァ、」と笑って、鯉が麩を呑んだような口附をする。
ト一人でさえ太刀打のむずかしい段違の対手が、ここに鼎と座を組んで、三面六臂となったので、青年は身の置場に窮した形で、汗を拭き、押拭い、
「へい飛んだ御厄介様で、からもうお転婆でございまして、」
「可いさ。だがの、内なぞは傍のおつきあいがおつきあいじゃで、そこはまたな、御婦人じゃから直接にいっては赤い顔でもなさると悪いで申さんじゃったが、前掛は止して袴になさるなぞは、まず第一のお心懸じゃよ。いや、しかし貴方の前じゃけれどお夏さんは珍しい御容色よし、ほんのこと内なぞはおつきあいがおつきあいじゃから、御華族様から大商人方の弟子も沢山見えるけれど、品といい様子といいあのお娘が一番じゃ。よくしたもので、上つ方はまあ少々はおでこでもそこは事が済みますが、下々の娘が出世をしようというには、さらりと打明けた処で容色じゃ。面じゃの、ふァふァふァ、お夏さんなぞは心懸次第またどんな出世でも出来るのじゃ、こっちへ出入ってござればおつきあいがおつきあいじゃから、ふァふァふァ。」と鯉呑麩の口、蕪村がいわゆる巨口玉を吐く鱸と相似て非なるものなり。