Chapter 1 of 4

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二世の契

泉鏡花

真中に一棟、小さき屋根の、恰も朝凪の海に難破船の俤のやう、且つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此の広野を、久しい以前汽車が横切つた、其の時分の停車場の名残である。

路も纔に通ずるばかり、枯れても未だ葎の結ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨を透かして、遠く其の寂しい状を視めながら、

「もし、お媼さん、彼処までは何のくらゐあります。」

と尋ねたのは効々しい猟装束。顔容勝れて清らかな少年で、土間へ草鞋穿の脚を投げて、英国政府が王冠章の刻印打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔は星の如きを、斜に古畳の上に差置いたが、恁う聞く中に、其の鳥打帽を掻取ると、雫するほど額髪の黒く軟かに濡れたのを、幾度も払ひつゝ、太く野路の雨に悩んだ風情。

縁側もない破屋の、横に長いのを二室にした、古び曲んだ柱の根に、齢七十路に余る一人の媼、糸を繰つて車をぶう/\、静にぶう/\。

「然うぢやの、もの十七八町もござらうぞ、さし渡しにしては沢山もござるまいが、人の歩行く路は廻り廻り蜒つて居るで、半里の余もござりましよ。」と首を引込め、又揺出すやうにして、旧停車場の方を見ながら言つた、媼がしよぼ/\した目は、恁うやつて遠方のものに摺りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。

それから顔を上げ下しをする度に、恒は何処にか蔵して置くらしい、がツくり窪んだ胸を、伸し且つ竦めるのであつた。

素直に伸びたのを其のまゝ撫でつけた白髪の其よりも、尚多いのは膚の皺で、就中最も深く刻まれたのが、脊を低く、丁ど糸車を前に、枯野の末に、埴生の小屋など引くるめた置物同然に媼を畳み込んで置くのらしい。一度胸を伸して後へ反るやうにした今の様子で見れば、瘠せさらぼうた脊丈、此の齢にしては些と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本細いのがある背戸の榛の樹立の他に、珍しい枯木に見えよう。肉は干び、皮萎びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗さ、渋色に亀裂が入つて下塗の漆で固めたやう、未だ/\目立つのは鼻筋の判然と通つて居る顔備と。

黒ずんだが鬱金の裏の附いた、はぎ/\の、之はまた美しい、褪せては居るが色々、浅葱の麻の葉、鹿子の緋、国の習で百軒から切一ツづゝ集めて継ぎ合す処がある、其のちやん/\を着て、前帯で坐つた形で。

彼の古戦場を過つて、矢叫の音を風に聞き、浅茅が原の月影に、古の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼が六十年の昔を推して、世にも希なる、容色よき上としても差支はないと思ふ、何となく犯し難き品位があつた。其の尖つた顋のあたりを、すら/\と靡いて通る、綿の筋の幽に白きさへ、やがて霜になりさうな冷い雨。

少年は炉の上へ両手を真直に翳し、斜に媼の胸のあたりを窺うて、

「はあ其では、何か、他に通るものがあるんですか。」

媼は見返りもしないで、真向正面に渺々たる荒野を控へ、

「他に通るかとは、何がでござるの。」

「否、今謂つたぢやないか、人の通る路は廻り/\蜒つて居るつて。だから聞くんですが、他に何か歩行きますか。」

「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐も犬も通りませいで。霧がかゝりや、歩かうず、雲が下りや、走らうず、蜈蚣も潜れば蝗も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、顧みて打微笑む。

此の口からなら、譬ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処もなし、又然う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂木氏、東京なる某学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂鬱な病にかゝり、日を経るに従うて、色も、心も死灰の如く、やがて石碑の下に形なき祭を享けるばかりになつたが、其の病の原因はと、渠を能く知る友だちが密に言ふ、仔細あつて世を早うした恋なりし人の、其の姉君なる貴夫人より、一挺最新式の猟銃を賜はつた。が、爰に差置いた即是。

武器を参らす、郊外に猟などして、自ら励まし給へ、聞くが如き其の容体は、薬も看護も効あらずと医師のいへば。但御身に恙なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠めた手紙を添へて、両三日以前に御使者到来。

凭りかゝつた胸の離れなかつた、机の傍にこれを受取ると、額に手を加ふること頃刻にして、桂木は猛然として立つたのである。

扨今朝、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停車場で唯一人下り立つて、朝霧の濃やかな野中を歩して、雨になつた午の時過ぎ、媼の住居に駈け込んだまで、未だ嘗て一度も煙を銃身に絡めなかつた。

桂木は其の病まざる前の性質に復したれば、貴夫人が情ある贈物に酬いるため――函嶺を越ゆる時汽車の中で逢つた同窓の学友に、何処へ、と問はれて、修善寺の方へ蜜月の旅と答へた――最愛なる新婚の婦、ポネヒル姫の第一発は、仇に田鴫山鳩如きを打たず、願はくは目覚しき獲物を提げて、土産にしようと思つたので。

時ならぬ洪水、不思議の風雨に、隙なく線路を損はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場を更へた位、殊に桂木の一家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々易からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野を跋渉して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃で射て取らうと言ふのであるから。

霧も雲も歩行くと語つた、仔細ありげな媼の言を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋の紐を解きかける。

油断はしないが俯向いたまゝ、

「私は又不思議な物でも通るかと思つて悚然とした、お媼さん、此様な処に一人で居て、昼間だつて怖しくはないのですか。」

桂木は疾く媼の口の、炎でも吐けよかしと、然り気なく誘ひかける。

媼は額の上に綿を引いて、

「何が恐しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼より雨漏が恐しいと言ふわいの。」

と又背を屈め、胸を張り、手でこするが如くにし、外の方を覗いたが、

「むかうへむく/\と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方の方から雲が出て、そろ/\両方から歩行びよつて、一所になる時が此の雨ぢや。びしよ/\降ると寒うござるで、老寄には何より恐しうござるわいの。」

「あゝ、私も雨には弱りました、じと/\其処等中へ染込んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼さん。」

「はい、御難儀でござつたろ。」

「お邪魔ですが此処を借ります。」

桂木は足袋を脱ぎ、足の爪尖を取つて見たが、泥にも塗れず、綺麗だから、其のまゝ筵の上へ、ずいと腰を。

たとひ洗足を求めた処で、媼は水を汲んで呉れたか何うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹を風が渡るかと……音につれて積る白糸。

桂木は濡れた上衣を脱ぎ棄てた、カラアも外したが、炉のふちに尚油断なく、

「あゝ、腹が空いた。最う/\降るのと溜つたので濡れ徹つて、帽子から雫が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵が一枚ありや極楽、其処で寝たいと思つたけれど、恁うしてお世話になつて雨露が凌げると、今度は虫が合点しない、何ぞ食べるものはありませんか。」

「然ればなう、恐し気な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分には、客も少々はござつたで、瓜なと剥いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私が食る分ばかり、其も黍を焚いたのぢやほどに、迚もお口には合ふまいぞ。」

「否、飯は持つてます、何うせ、人里のないを承知だつたから、竹包にして兵糧は持参ですが、お菜にするものがないんです、何か些と分けて貰ひたいと思ふんだがね。」

媼は胸を折つてゆるやかに打頷き、

「それならば待たしやませ、塩ツぱいが味噌漬の香の物がござるわいなう。」

「待ちたまへ、味噌漬なら敢てお手数に及ぶまいと思ひます。」

と手早く笹の葉を解くと、硬いのがしやつちこばる、包の端を圧へて、草臥れた両手をつき、畏つて熟と見て、

「それ、言はないこツちやない、果して此の菜も味噌漬だ。お媼さん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、然うなのかね、」と顔を上げて又瞻つたが、恁る相好の媼を見たのは、場末の寄席の寂として客が唯二三の時、片隅に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、薪を背負つて歩行いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。

媼は皺だらけの面の皺も動かさず、

「何うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」

「然う、」とばかり見詰めて居た。

此時気だるさうにはじめて振向き、

「あのまた霧の毒といふものは恐しいものでなう、お前様、今日は彼が雨になつたればこそ可うござつた、ものの半日も冥土のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命を取られいでから三月四月煩うげな、此処の霧は又格別ぢやと言ふわいなう。」

「あの、霧が、」

「お客様、お前さま、はじめて此処を歩行かつしやるや?」

桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込み、

「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」

「然うぢやろ、然うぢやろ。」と媼はまた頷いたが、単然うであらうではなく、正に然うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。

「而して何かの、お前様其の鉄砲を打つて歩行かしやるでござるかの。」と糸を繰る手を両方に開いてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は箸を置き、心で身構をして、

「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小雨の色、孤家の裡も、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、凡て枯野に描かれた、幻の如き間に、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く閃くまで磨ける鏡かと壁を射て、弾込したのがづツしり手応。

我ながら頼母しく、

「何、まあね、何うぞこれを打つことのないやうにと、内々祈つて居るんだよ。」

「其はまた何といふわけでござらうの。」と澄して、例の糸を繰る、五体は悉皆、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少頃も手を休めず。

驚破といふ時、綿の条を射切つたら、胸に不及、咽喉に不及、玉の緒は絶えて媼は唯一個、朽木の像にならうも知れぬ。

と桂木は心の裡。

構はず兵糧を使ひつゝ、

「だつてお媼さん、此の野原は滅多に人の通らない処だつて聞いたからさ。」

「そりや最う眺望というても池一つあるぢやござらぬ、纔ばかりの違でなう、三島はお富士山の名所ぢやに、此処は恁う一目千里の原なれど、何が邪魔をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」

「否さ、景色がよくないから遊山に来ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」

「それはお客様、此処といふ限はござるまいがなう、躓けば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我もせうず、打処が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、然う又人のいふ処へ、お前様は何をしに来さつしやつた。」

じろりと流盻に見ていつた。

桂木はぎよつとしたが、

「理窟を聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に逢つて、何か変つた話をして貰はう、見られるものなら見ようと思つて、遙々出向いて来たんだもの。人間の他に歩行くものがあるといふから、扨こそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて了ふし、活かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪我過失は所を定めないといふし、それぢや些とも張合がありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」

膝を進めて、瞳を据ゑ、

「私はね、お媼さん、風説を知りつゝ恁うやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた処、君は何だ、様子が宛然野の主とでもいふべきぢやないか、何の馬鹿々々しいと思ふだらうが、好事です、何うぞ一番構はず云つて聞かしてくれ給へな。

恁ういふと何かお妖の催促をするやうでをかしいけれど、焦れツたくツて堪らない。

素より其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函嶺を追はれた狼だらう、今時詰らない妖者が居てなりますか、それとも野伏り山賊の類ででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪我過失だつたり、心の迷ぐらゐなことは実は此方から言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此方はお媼さん、お前さんの姿を見てから、却つて些と自分の意見が違つて来て、成程これぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。

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