1
星女郎
泉鏡花
一
倶利伽羅峠には、新道と故道とある。いわゆる一騎落から礪波山へ続く古戦場は、その故道で。これは大分以前から特別好物な旅客か、山伏、行者の類のほか、余り通らなかった。――ところで、今度境三造の過ったのは、新道……天田越と言う。絶頂だけ徒歩すれば、俥で越された、それも一昔。汽車が通じてからざっと十年になるから、この天田越が、今は既に随分、好事。
さて目的は別になかった。
暑中休暇に、どこかその辺を歩行いて見よう。以前幾たびか上下したが、その後は多年麓も見舞わぬ、倶利伽羅峠を、というに過ぎぬ。
けれども徒労でないのは、境の家は、今こそ東京にあるが、もと富山県に、父が、某の職を奉じた頃、金沢の高等学校に寄宿していた。従って暑さ寒さのよりよりごとに、度々倶利伽羅を越えたので、この時志したのは、謂わば第二の故郷に帰省する意味にもなる。
汽車は津幡で下りた。市との間に、もう一つ、森下と云う町があって、そこへも停車場が出来るそうな、が、まだその運びに到らぬから、津幡は金沢から富山の方へ最初の駅。
間四里、聞えた加賀の松並木の、西東あっちこち、津幡まではほとんど家続きで、蓮根が名産の、蓮田が稲田より風薫る。で、さまで旅らしい趣はないが、この駅を越すと竹の橋――源平盛衰記に==源氏の一手は樋口兼光大将にて、笠野富田を打廻り、竹の橋の搦手にこそ向いけれ==とある、ちょうど峠の真下の里で。倶利伽羅を仰ぐと早や、名だたる古戦場の面影が眉に迫って、驚破、松風も鯨波の声、山の緑も草摺を揺り揃えたる数万の軍兵。伏屋が門の卯の花も、幽霊の鎧らしく、背戸の井戸の山吹も、美女の名の可懐い。
これは旧とても異りはなかった。しかしその頃は、走らす車、運ぶ草鞋、いざ峠にかかる一息つくため、ここに麓路を挟んで、竹の橋の出外れに、四五軒の茶店があって、どこも異らぬ茶染、藍染、講中手拭の軒にひらひらとある蔭から、東海道の宿々のように、きちんと呼吸は合わぬながら、田舎は田舎だけに声繕いして、
「お掛けやす。」
「お休みやーす。」
それ、馬のすずに調子を合わせる。中には若い媚めかしい声が交って、化粧した婦も居た。
境も、往き還り奥の見晴しに通って、縁から峠に手を翳す、馴染の茶店があったのであるが、この度見ると、可なり広いその家構の跡は、草茫々、山を見通しの、ずッと裏の小高い丘には、松が一本、野を守る姿に立って、小さな墓の累ったのが望まれる。
由緒ある塚か、知らず、そこを旅人の目から包んでいた一叢の樹立も、大方切払われたのであろう、どこか、あからさまに里が浅くなって、われ一人、草ばかり茂った上に、影の濃いのも物寂しい。
それに、藁屋や垣根の多くが取払われたせいか、峠の裾が、ずらりと引いて、風にひだ打つ道の高低、畝々と畝った処が、心覚えより早や目前に近い。
が、そこまでは並木の下を、例に因って、畷の松が高く、蔭が出来て涼いから、洋傘を畳んで支いて、立場の方を振返ると、農家は、さすがに有りのままで、遠い青田に、俯向いた菅笠もちらほらあるが、藁葺の色とともに、笠も日向に乾びている。
境は急に心細いようになった。前にも後にも、往来の人はなかったのである。
偶と思出したことがあって、三造は並木の梢――松の裏を高く仰いで見た。鵲の尾の、しだり尾の靡きはせずや。……
二
往年、雨上りの朝、ちょうどこの辺を通掛った時、松の雫に濡色見せた、紺青の尾を豊に、樹の間の蒼空を潜り潜り、鵲が急ぎもせず、翼で真白な雲を泳いで、すいと伸し、すいと伸して、並木の梢を道づれになった。可懐いその姿を見るのも、またこの旅の一興に算えたのであったから――それを思出して窺ったが……今日は見えぬ。
なお前途の空を視め視め、かかる日の高い松の上に、蝉の声の喧しい中にも、塒してその鵲が居はせぬかと、仰いで幹をたたきなどして、右瞻左瞻ながら、うかうかと並木を辿る――大な蜻蛉の、跟をつけて行くのも知らずに。
やがて樹立が疎らになって、右左両方へ梢が展くと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
処へ、横雲の漾う状で、一叢の森の、低く目前に顕われたのは、三四軒の埴生の小屋で。路傍に沿うて、枝の間に梟の巣のごとく並んだが、どこに礎を据えたとしもなく、元村から溢れて出たか、崖から墜ちて来たか、未来も、過去も、世はただ仮の宿と断念めたらしい百姓家――その昔、大名の行列は拝んだかわりに、汽車の煙には吃驚しそうな人々が住んでいよう。
朝夕の糧を兼ねた生垣の、人丈に近い茗荷の葉に、野茨が白くちらちら交って、犬が前脚で届きそうな屋根の下には、羽目へ掛けて小枝も払わぬ青葉枯葉、松薪をひしと積んだは、今から冬の用意をした、雪の山家と頷かれて、見るからに佗しい戸の、その蜘蛛の巣は、山姥の髪のみだれなり。
一軒二軒……三軒目の、同じような茗荷の垣の前を通ると、小家は引込んで、前が背戸の、早や爪尖あがりになる山路との劃目に、桃の樹が一株あり、葉蔭に真黒なものが、牛の背中。
この畜生、仔細は無いが、思いがけない、物珍らしさ。そのずんど切な、たらたらと濡れた鼻頭に、まざまざと目を留めると、あの、前世を語りそうな、意味ありげな目で、熟と見据えて、むぐむぐと口を動かしざまに、ぺろりと横なめをした舌が円い。
その舌の尖を摺って、野茨の花がこぼれたように、真白な蝶が飜然と飛んだ。が、角にも留まらず、直ぐに消えると、ぱっと地の底へ潜った状に、大牛がフイと失せた。……
失せた……と思う暇もなしに、忽然として消えたのである。
「や!」
声を出して、三造はきょとんとして、何かに取掴まったらしく、堅くなってそこらを捻向く……と、峠とも山とも知れず、ただ樹の上に樹が累なり、中空を蔽うて四方から押被さって聳え立つ――その向って行くべき、きざきざの緑の端に、のこのこと天窓を出した雲の峯の尖端が、あたかも空へ飛んで、幻にぽちぽち残った。牛頭に肖たとは愚か。
三造は悚然とした。
が、遁げ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
一体、樹の間から湧いて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、瞻り瞻り、つい一足歩行いた、……その機会に、件の桃の木に隠れたので、今でも真正面へちょっと戻れば、立処にまた消え失せよう。
蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
「はは、はは。」
独りで笑出した。
「まず昼間で可かった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。」
三
これより前、境はふと、ものの頭を葉越に見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗殻とは方角の反対な、加賀と越前の国境に、同じ名の牛首がある――その山も二三度越えたが、土地に古代の俤あり。麓の里に、錣頭巾を取って被き、薙刀小脇に掻込んだ、面には丹を塗り、眼は黄金、髯白銀の、六尺有余の大彫像、熊坂長範を安置して、観音扉を八文字に、格子も嵌めぬ祠がある。ために字を熊坂とて、俗に長範の産地と称える、巨盗の出処は面白い。祠は立場に遠いから、路端の清水の奥に、蒼く蔭り、朱に輝く、活けるがごとき大盗賊の風采を、車の上からがたがたと、横に視めて通った事こそ。われ御曹子ならねども、この夏休みには牛首を徒歩して、菅笠を敷いて対面しょう、とも考えたが、ああ、しばらく、この栗殻の峠には、謂われぬ可懐い思出があったので、越中境へ足を向けた。――
処を、牛の首に出会ったために、むしろその方が興味があったかも知れないと、そぞろに心の迷った端を、隠身寂滅、地獄が消えた牛妖に、少なからず驚かされた。
正体が知れてからも、出遊の地に二心を持って、山霊を蔑にした罪を、慇懃にこの神聖なる古戦場に対って、人知れず慚謝したのであるる。
立向う山の茂から、額を出して、ト差覗く状なる雲の峰の、いかにその裾の広く且つ大なるべきかを想うにつけて、全体を鵜呑にしている谷の深さ、山の高さが推量られる。
辿るほどに、洋傘さした蟻のよう――蝉の声が四辺に途絶えて、何の鳥かカラカラと啼くのを聞くと、ちょっとその嘴にも、人間は胴中を横啣えにされそうであった。
谷が分れて、森が涼しい。
右手の谷の片隅に、前に見た牛の小家が、小さくなって、樹立ありとも言わず、真白に日が当る。
やがて、二分が処上った。
坂路に……草刈か、鎌は持たず。自然薯穿か、鍬も提げず。地柄縞柄は分らぬが、いずれも手織らしい単放を裙短に、草履穿で、日に背いたのは緩かに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対向って二人――年紀も同じ程な六十左右の婆々が、暢気らしく、我が背戸に出たような顔色して立っていた。
山逕の磽、以前こそあれ、人通りのない坂は寸裂、裂目に草生い、割目に薄の丈伸びたれば、蛇の衣を避けて行く足許は狭まって、その二人の傍を通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
ト境の方に立ったのが、心持身体を開いて、頬の皺を引伸すような声を出した。
「この人はや。」
「おいの。」
と皺枯れた返事を一人が、その耳の辺の白髪が動く。
「どこの人ずら。」
「さればいの。」
と聞いた時、境は早や二三間、前途へ出ていた。
で、別に振り返ろうともしなかった――気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、咎めるともなく、声高に饒舌ったろう、――それにつけても、余り往来のないのは知れた。
けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦朧と立ったり、間近な崖へ影が射したり、背後からざわざわと芒を掻分ける音がしたり、どうやら、件の二人の媼が、附絡っているような思がした。ざっと半日の余、他に人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。
四
蜩が谷になって、境は杉の梢を踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴を顕わして、灰色に大なる薄墨の斑を交え、動かぬ稲妻を畝らした状は凄じい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪廓は、霄との劃を蒼く、どこともなく嵐気が迫って、幽な谷川の流の響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙に描かれた遠里の果なる海の上に、落ち行く日の紅のかがみに映って、そこに蟠った雲の峰は、海月が白く浮べる風情。蟻を列べた並木の筋に……蛙のごとき青田の上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城の櫓、遠きは狼煙の余波に似て、ここにある身は紙鳶に乗って、雲の桟渡る心地す。
これから前は、坂が急に嶮くなる。……以前車の通った時も、空でないと曳上げられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬研形に崩込んで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真直に杖ついた洋傘と、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦蔓も葉の裏を見上げるように這懸る。
それは可い。
かほどの処を攀上るのに、あえて躊躇するのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰止められた仔細がある。
山の中の、かかる処に、流灌頂ではよもあるまい。路の左右と真中へ、草の中に、三本の竹、荒縄を結渡したのが、目の前を遮った、――麓のものの、何かの禁厭かとも思ったが、紅紙をさした箸も無ければ、強飯を備えた盆も見えぬ。
「可訝いな。」
考えるまでもない、手取り早く有体に見れば、正にこれ、往来止。
して見ると、先刻、路を塞いで彳んだ、媼の素振も、通りがかりに小耳に挟んだ言の端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
もっとも時経ったか、竹も古びて、縄も中弛みがして、草に引摺る。跨いで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
前後をしながら、密とその縄を取って曳くと、等閑に土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手繰られた。慌てて放して、後へ退った。――一対の媼が、背後で見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。