Chapter 1 of 3

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竜潭譚

泉鏡花

躑躅か丘

日は午なり。あらら木のたらたら坂に樹の蔭もなし。寺の門、植木屋の庭、花屋の店など、坂下を挟みて町の入口にはあたれど、のぼるに従ひて、ただ畑ばかりとなれり。番小屋めきたるもの小だかき処に見ゆ。谷には菜の花残りたり。路の右左、躑躅の花の紅なるが、見渡す方、見返る方、いまを盛なりき。ありくにつれて汗少しいでぬ。

空よく晴れて一点の雲もなく、風あたたかに野面を吹けり。

一人にては行くことなかれと、優しき姉上のいひたりしを、肯かで、しのびて来つ。おもしろきながめかな。山の上の方より一束の薪をかつぎたる漢おり来れり。眉太く、眼の細きが、向ざまに顱巻したる、額のあたり汗になりて、のしのしと近づきつつ、細き道をかたよけてわれを通せしが、ふりかへり、

「危ないぞ危ないぞ。」

といひずてに眦に皺を寄せてさつさつと行過ぎぬ。

見返ればハヤたらたらさがりに、その肩躑躅の花にかくれて、髪結ひたる天窓のみ、やがて山蔭に見えずなりぬ。草がくれの径遠く、小川流るる谷間の畦道を、菅笠冠りたる婦人の、跣足にて鋤をば肩にし、小さき女の児の手をひきて彼方にゆく背姿ありしが、それも杉の樹立に入りたり。

行く方も躑躅なり。来し方も躑躅なり。山土のいろもあかく見えたる。あまりうつくしさに恐しくなりて、家路に帰らむと思ふ時、わがゐたる一株の躑躅のなかより、羽音たかく、虫のつと立ちて頬を掠めしが、かなたに飛びて、およそ五、六尺隔てたる処に礫のありたるそのわきにとどまりぬ。羽をふるふさまも見えたり。手をあげて走りかかれば、ぱつとまた立ちあがりて、おなじ距離五、六尺ばかりのところにとまりたり。そのまま小石を拾ひあげて狙ひうちし、石はそれぬ。虫はくるりと一ツまはりて、また旧のやうにぞをる。追ひかくれば迅くもまた遁げぬ。遁ぐるが遠くには去らず、いつもおなじほどのあはひを置きてはキラキラとささやかなる羽ばたきして、鷹揚にその二すぢの細き髯を上下にわづくりておし動かすぞいと憎さげなりける。

われは足踏して心いらてり。そのゐたるあとを踏みにじりて、

「畜生、畜生。」

と呟きざま、躍りかかりてハタと打ちし、拳はいたづらに土によごれぬ。

渠は一足先なる方に悠々と羽づくろひす。憎しと思ふ心を籠めて瞻りたれば、虫は動かずなりたり。つくづく見れば羽蟻の形して、それよりもやや大なる、身はただ五彩の色を帯びて青みがちにかがやきたる、うつくしさいはむ方なし。

色彩あり光沢ある虫は毒なりと、姉上の教へたるをふと思ひ出でたれば、打置きてすごすごと引返せしが、足許にさきの石の二ツに砕けて落ちたるより俄に心動き、拾ひあげて取つて返し、きと毒虫をねらひたり。

このたびはあやまたず、したたかうつて殺しぬ。嬉しく走りつきて石をあはせ、ひたと打ひしぎて蹴飛ばしたる、石は躑躅のなかをくぐりて小砂利をさそひ、ばらばらと谷深くおちゆく音しき。

袂のちり打はらひて空を仰げば、日脚やや斜になりぬ。ほかほかとかほあつき日向に唇かわきて、眼のふちより頬のあたりむず痒きこと限りなかりき。

心着けば旧来し方にはあらじと思ふ坂道の異なる方にわれはいつかおりかけゐたり。丘ひとつ越えたりけむ、戻る路はまたさきとおなじのぼりになりぬ。見渡せば、見まはせば、赤土の道幅せまく、うねりうねり果しなきに、両側つづきの躑躅の花、遠き方は前後を塞ぎて、日かげあかく咲込めたる空のいろの真蒼き下に、彳むはわれのみなり。

鎮守の社

坂は急ならず長くもあらねど、一つ尽ればまたあらたに顕る。起伏あたかも大波の如く打続きて、いつ坦ならむとも見えざりき。

あまり倦みたれば、一ツおりてのぼる坂の窪に踞ひし、手のあきたるまま何ならむ指もて土にかきはじめぬ。さといふ字も出来たり。くといふ字も書きたり。曲りたるもの、直なるもの、心の趣くままに落書したり。しかなせるあひだにも、頬のあたり先刻に毒虫の触れたらむと覚ゆるが、しきりにかゆければ、袖もてひまなく擦りぬ。擦りてはまたもの書きなどせる、なかにむつかしき字のひとつ形よく出来たるを、姉に見せばやと思ふに、俄にその顔の見たうぞなりたる。

立あがりてゆくてを見れば、左右より小枝を組みてあはひも透かで躑躅咲きたり。日影ひとしほ赤うなりまさりたるに、手を見たれば掌に照りそひぬ。

一文字にかけのぼりて、唯見ればおなじ躑躅のだらだらおりなり。走りおりて走りのぼりつ。いつまでかかくてあらむ、こたびこそと思ふに違ひて、道はまた蜿れる坂なり。踏心地柔かく小石ひとつあらずなりぬ。

いまだ家には遠しとみゆるに、忍びがたくも姉の顔なつかしく、しばらくも得堪へずなりたり。

再びかけのぼり、またかけりおりたる時、われしらず泣きてゐつ。泣きながらひたばしりに走りたれど、なほ家ある処に至らず、坂も躑躅も少しもさきに異らずして、日の傾くぞ心細き。肩、背のあたり寒うなりぬ。ゆふ日あざやかにぱつと茜さして、眼もあやに躑躅の花、ただ紅の雪の降積めるかと疑はる。

われは涙の声たかく、あるほど声を絞りて姉をもとめぬ。一たび二たび三たびして、こたへやすると耳を澄せば、遥に滝の音聞えたり。どうどうと響くなかに、いと高く冴えたる声の幽に、

「もういいよ、もういいよ。」

と呼びたる聞えき。こはいとけなき我がなかまの隠れ遊びといふものするあひ図なることを認め得たる、一声くりかへすと、ハヤきこえずなりしが、やうやう心たしかにその声したる方にたどりて、また坂ひとつおりて一つのぼり、こだかき所に立ちて瞰おろせば、あまり雑作なしや、堂の瓦屋根、杉の樹立のなかより見えぬ。かくてわれ踏迷ひたる紅の雪のなかをばのがれつ。背後には躑躅の花飛び飛びに咲きて、青き草まばらに、やがて堂のうらに達せし時は一株も花のあかきはなくて、たそがれの色、境内の手洗水のあたりを籠めたり。柵結ひたる井戸ひとつ、銀杏の古りたる樹あり、そがうしろに人の家の土塀あり。こなたは裏木戸のあき地にて、むかひに小さき稲荷の堂あり。石の鳥居あり。木の鳥居あり。この木の鳥居の左の柱には割れめありて太き鉄の輪を嵌めたるさへ、心たしかに覚えある、ここよりはハヤ家に近しと思ふに、さきの恐しさは全く忘れ果てつ。ただひとへにゆふ日照りそひたるつつじの花の、わが丈よりも高き処、前後左右を咲埋めたるあかき色のあかきがなかに、緑と、紅と、紫と、青白の光を羽色に帯びたる毒虫のキラキラと飛びたるさまの広き景色のみぞ、画の如く小さき胸にゑがかれける。

かくれあそび

さきにわれ泣きいだして救を姉にもとめしを、渠に認められしぞ幸なる。いふことを肯かで一人いで来しを、弱りて泣きたりと知られむには、さもこそとて笑はれなむ。優しき人のなつかしけれど、顔をあはせていひまけむは口惜しきに。

嬉しく喜ばしき思ひ胸にみちては、また急に家に帰らむとはおもはず。ひとり境内に彳みしに、わツといふ声、笑ふ声、木の蔭、井戸の裏、堂の奥、廻廊の下よりして、五ツより八ツまでなる児の五、六人前後に走り出でたり、こはかくれ遊びの一人が見いだされたるものぞとよ。二人三人走り来て、わが其処に立てるを見つ。皆瞳を集めしが、

「お遊びな、一所にお遊びな。」とせまりて勧めぬ。小家あちこち、このあたりに住むは、かたゐといふものなりとぞ。風俗少しく異なれり。児どもが親たちの家富みたるも好き衣着たるはあらず、大抵跣足なり。三味線弾きて折々わが門に来るもの、溝川に鰌を捕ふるもの、附木、草履など鬻ぎに来るものだちは、皆この児どもが母なり、父なり、祖母などなり。さるものとはともに遊ぶな、とわが友は常に戒めつ。さるに町方の者としいへば、かたゐなる児ども尊び敬ひて、頃刻もともに遊ばんことを希ふや、親しく、優しく勉めてすなれど、不断はこなたより遠ざかりしが、その時は先にあまり淋しくて、友欲しき念の堪へがたかりしその心のまだ失せざると、恐しかりしあとの楽しきとに、われは拒まずして頷きぬ。

児どもはさざめき喜びたりき。さてまたかくれあそびを繰返すとて、拳してさがすものを定めしに、われその任にあたりたり。面を蔽へといふままにしつ。ひツそとなりて、堂の裏崖をさかさに落つる滝の音どうどうと松杉の梢ゆふ風に鳴り渡る。かすかに、

「もう可いよ、もう可いよ。」

と呼ぶ声、谺に響けり。眼をあくればあたり静まり返りて、たそがれの色また一際襲ひ来れり。大なる樹のすくすくとならべるが朦朧としてうすぐらきなかに隠れむとす。

声したる方をと思ふ処には誰もをらず。ここかしこさがしたれど人らしきものあらざりき。

また旧の境内の中央に立ちて、もの淋しく瞶しぬ。山の奥にも響くべく凄じき音して堂の扉を鎖す音しつ、闃としてものも聞えずなりぬ。

親しき友にはあらず。常にうとましき児どもなれば、かかる機会を得てわれをば苦めむとや企みけむ。身を隠したるまま密に遁げ去りたらむには、探せばとて獲らるべき。益もなきことをとふと思ひうかぶに、うちすてて踵をかへしつ。さるにても万一わがみいだすを待ちてあらばいつまでも出でくることを得ざるべし、それもまたはかりがたしと、心迷ひて、とつ、おいつ、徒に立ちて困ずる折しも、何処より来りしとも見えず、暗うなりたる境内の、うつくしく掃いたる土のひろびろと灰色なせるに際立ちて、顔の色白く、うつくしき人、いつかわが傍にゐて、うつむきざまにわれをば見き。

極めて丈高き女なりし、その手を懐にして肩を垂れたり。優しきこゑにて、

「こちらへおいで。こちら。」

といひて前に立ちて導きたり。見知りたる女にあらねど、うつくしき顔の笑をば含みたる、よき人と思ひたれば、怪しまで、隠れたる児のありかを教ふるとさとりたれば、いそいそと従ひぬ。

あふ魔が時

わが思ふ処に違はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突あたりに小さき稲荷の社あり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の裾なる雑樹斜めに生ひて、社の上を蔽ひたる、その下のをぐらき処、孔の如き空地なるをソとめくばせしき。瞳は水のしたたるばかり斜にわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。

さればいささかもためらはで、つかつかと社の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉堆く水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢もせで、頸もとの冷かなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ彼の女はハヤ見えざりき。何方にか去りけむ、暗くなりたり。

身の毛よだちて、思はず呀と叫びぬ。

人顔のさだかならぬ時、暗き隅に行くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を惑はすと、姉上の教へしことあり。

われは茫然として眼をりぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き出づると思ふ黒闇々たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞ぎ、呼吸をころしてひそみたるに、四足のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。

われは人心地もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの女のうつくしかりし顔、優かりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児どものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに潜め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯の火影あかきが坂下より急ぎのぼりて彼方に走るを見つ。ほどなく引返してわがひそみたる社の前に近づきし時は、一人ならず二人三人連立ちて来りし感あり。

あたかもその立留りし折から、別なる跫音、また坂をのぼりてさきのものと落合ひたり。

「おいおい分らないか。」

「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」

とあとよりいひたるはわが家につかひたる下男の声に似たるに、あはや出でむとせしが、恐しきものの然はたばかりて、おびき出すにやあらむと恐しさは一しほ増しぬ。

「もう一度念のためだ、田圃の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」

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