一
朝霧がうすらいでくる。庭の槐からかすかに日光がもれる。主人は巻きたばこをくゆらしながら、障子をあけ放して庭をながめている。槐の下の大きな水鉢には、すいれんが水面にすきまもないくらい、丸い葉を浮けて花が一輪咲いてる。うす紅というよりは、そのうす紅色が、いっそう細かに溶解して、ただうすら赤いにおいといったような淡あわしい花である。主人は、花に見とれてうつつなくながめいっている。
庭の木戸をおして細君が顔をだした。細君は年三十五、六、色の浅黒い、顔がまえのしっかりとした、気むつかしそうな人である。
「ねいあなた、大島の若衆が乳しぼりをつれてきてくれましたがね」
こういって、細君は庭にはいってくる。主人はゆるやかに細君に目をくれたが、たちまちけわしい声でどなった。
「そんなひよりげたで庭へはいっちゃいかん、雨あがりの庭をふみくずしてしまうじゃないか。どうも無作法なやつじゃなあ、こら、いかんというに……」
主人のどなりと細君の足とはほとんど並行したので、主人は舌うちして細君をながめたが、細君は、主人の小言に顔の色も動かさず、あえてまたいいわけもいわない。ただにわかに足をうかすようなあるきかたをして縁先へきてしまった。
げたのあとは、ずいぶん目だって庭に傷つけたけれど、主人はふたたび小言はいわなかった。主人は、平生自分の神経過敏から、らちもないことに腹をたてることを、自分の損だと考えてる人である。いま細君にたいする小言のしりを結ばずにしまったことを、ふとおのれに勝ちえたように思いついて、すいれんのことも忘れ、庭を損じたことも忘れて、笑顔を細君にむけた。
細君は下女をよんで、自分のひよりげたを駒げたにとりかえさして、縁端へ腰をかけた。そうしてげたのあとを消してくれ、と下女に命じた。
細君は、主人からある場合になにほどどなられても、たいていのことでは腹をたてたり、反抗したりせぬ。それはあながち主人の小言になれたからというのでもなく、主人を恐れないからというのでもない。細君は主人の小言を根のある小言か根のない小言かを、よく直覚的に判断して、根のない小言と思ったときは、なんといわれたってけっして主人にさからうようなことはせぬ。
主人は細君をそれほど重んじてはいないが、ただ以上の点をおおいに敬している。
「おまえは、とくな性だ」
とほめてる。細君も笑って、
「とくな性ではありませんよ、はじめから損をあきらめてるから、とくのように見えるのでしょう」という。
世間には、ちょっとしたはずみで夫から打たれても、それをいっこう心にもとめず、打たれたあとからすぐ夫と仲よく話をする女がいくらもあるから、これは女性の特有性かもしれぬ。妻などはそれをすこしうまく発達したものであろうと、主人は考えている。
そう考えてみると、自分が妻にたいしてわずかのことに大声たててどなるのは、いささかきまりがわるくなる。それで近来主人は、ある場合にどなることはどなっても、きょうのようにしりを結ばぬことがおおいのだ。
乳しぼりというのは、五十ばかりの赤ら顔な、がんじょうな、人に会ってもただ頭をたてにすこし動かすだけで、めったに口をきかない。それでどうかすると大きな茶目を見はって人を見る。たいていの女であったら、気味わるがって顔をそむけそうな、すこぶる人好きのわるい男だ。
つれてきた若衆の話によると、乳しぼりは非常にじょうずで朝おきるにも、とけいさえまかしておけば、一年にも二年にも一朝時間をたがえるようなことはない。ただすこし頭の調子が人なみでないから、どうもこれまで一か所に長くいられなかったが、ご主人のほうで、すこしその気質をのみこんでいて使ってくだされば、それはそれはりっぱな乳しぼりだ、こちらのだんなならきっとうまく使ってくださるにちがいない、本人もそういってあがったというのであった。
細君は、こうひととおり話しおわってから、
「わたしはどうも、あまり好ましくないけれど、乳しぼりもなくてはじつにこまるから、おいてみましょうねえ」
とつけくわえた。主人も聞いてみると、すこしはうわさに聞いたことのある、花前という男だ。変人で手におえないとも、じつはかわいそうな人間だともいわれて、府下の牛乳屋をわたっていた乳しぼりである。主人はしばらく考えたのち、
「それはうわさに聞いたことのある変人の乳しぼりだ。朝おきるのがたしかで乳しぼりがじょうずなら、使ってみようじゃねいか。うまくいかぬことがあったら、それはそのときのこととして、とにかくおいてみるさ」
細君も不安なりに同意して、その乳しぼりをおいてやることになった。牛舎のほうでは親牛と子牛とを引き分けて運動場にだしたから、親牛も子牛もともによびあって鳴いてる。二、三日ぶり外へだされた乳牛は、よろこんでしきりに運動場をとびまわる。
洗濯物に気をとられてる細君の目には、雨あがりのうるおった庭のおもむきも、すいれんのうるわしい花もいっこう問題にはならない。
「それじゃそう」
との一言をのこして、また木戸から細君はでていった。