(七) 三者の愛論
今、スヰデンボルグ、エメルソン並にメーテルリンクの愛に對する論を比較して見ると、三者の特色もよく分るし、また後に云ふ僕の所論が渠等とどんなに異同があるかも明かになるだらう。
ナポレオンが法律を制定した時、これで以つて人間界の事件はすべて網羅し得たと思つたところが、あとからどし/\その規定外の事が出て來た。カントが十二個の範疇を設けて、悟性上のいろんな概念を統一しようとしたが、渠の思つた通り、それで完全不易な組織が立つわけではなかつた。然し、哲學に系統が立たないからと云つて、僕から云へば、耻づべきことではない。それだから、プラトーンにいくら不明なところ、缺陷の點があるにしろ、最古の大哲人でもあり、また諸問題の提出者、解釋者として、詩に於けるホメーロスと同樣、誰れにでも讀まれて居るではないか。殊に愛の問題などになると、乾燥な頭腦で論じたものは、理窟がどんなに附いて居ても、大理石の婦人像と同じで、味ひがないのである。順序として、先づプラトーンの論を簡單に云つて置くが、渠のイデヤ想起説に據ると、僕等は本性からイデヤを知らないのではない、たゞ忘れて居るのであるから、機に應じて之を想ひ起す、その最も切實なのがエロース(ερωσ)、乃ち愛である。それには階段があつて、形體の美にあこがれるのは普通の戀、然し最高のは眞善美その物を慕ふ知力的究理心である。所謂プラトーンの愛。渠の知力なるものは、輪廻的修養の土臺となつて居るだけ、道徳的に見られるから、そういふ説も立つのであらう。
スヰデンボルグはこの説を自分の天才に消化して、『コンジユガルラブ』(夫婦の愛)を書いた。プラトーンの『宴會篇』に當るものだ。心靈は向上的であるから、その發表する愛情又は友情は自然と刹那的のものである。――この刹那的といふことは僕の説にも大切なものだが――愛するといふは同一の眞理を見て居るといふことで、兩者の一方が一段うへの眞理に目を轉ずると、そのまた一方との關係は絶えてしまうことになる。それで、前者は自分の新たに見る眞理と同一のを見て居るものと一つになるのだが、それも亦向ふの方が一段高くなると、棄てられてしまうのである。人の性根は一定不動のものではない、心の状態に從つて、男ともなるし、また女ともなる――慕はれたのが男、慕ふのが女で、僕等は慕ひ、慕はれながら、乃ち、かたみに男女と變性しながら、向上するのである。その果(はて)は心靈の極度なる神に達して、神は花聟であるし、僕等は花嫁であるのだ。天は對を許さないから、僕等の状態は小い心靈全體の交通となるわけである。聖書の『天使は嫁がず、娶らず』を説明したのであらう。
次に、メーテルリンクはどうかと云ふに、その『婦人論』を見れば分る。心靈は、何萬年も先きから、愛せらるゝのを待つて居るので、愛の油さへそゝげば、その靈は無言の暗處から跳び出て來るのである。油を注ぐものも、注がるゝものも、はじめから豫定されて居るのだ。それは、必らずどこかで一度相見たことがある靈と靈とであるからである。たとへば、深みの奧に隱れて居る遠島から、手紙が來たとする――それが實際生きて居る人だか、居ない人だか分らないながら、その來た手紙の書き手を、まんざら自分の知らない人だとは斷念の出來ないものである。これは自分の知らないうちに、一種の神秘的交通があつたに相違ないからだ。それが段々近づくことになつて、見もし、笑ひもし、接吻もすることになると、その最初の接吻が、一緒に住んで居る愛人の胸中に、いつも最も云ひ難い、最も愉快な記憶を浮べたり、また沈めたりする――この刹那が最も興味の盛んな時である。婦人は男子よりも運命に司配されることが多い,然し、素直で、眞率であるので、男子の境遇よりも婦人の方が神に近づいて居る。今、女を抱いて居るとして、その女の忠實か不忠實か、浮氣か眞面目か、天女か鬼女かを問ふ必要はない――よしんば、下等な淫賣婦であつたにしろ、一たび『一つの心靈が一つの心靈を接吻する』と思ひ得られる時なら、その刹那は不思議であつて、驚嘆すべきものである。――久遠の愛を掴んで居る時――最も原始的本能を以つて、靈的交通をして居る時。
婦人には一種の靈光があつて、男子は知の世界に下つて之を忘れて居るが、再び之に接合しようとすると、神秘の門をくゞらなければならない,婦人は卑怯であるから、一歩も之を出て來ることが出來ないのである。男子が知の形式を破つて、その門を敲けば、婦人は直ぐ、自分に送られた靈だと知つて、開けて呉れるのである。婦人を惡口する男子は、それに接吻するに最も善い高地を知らないのだ。婦人は、父を恐れない小兒と同樣、神の前では無邪氣に笑つて居る。渠等の不斷の樣子を見れば、縫ひ物や編み物をしたり、髮を解いたり、結つたりして居るので、それに智識上の事を話しても分らない。婦人を見舞ひに行くのは、美しい花を見に行くのと同じである。然し、愛には理解は入らない、婦人は無意識で、運命のあてがふ結婚を待つて居るのだ。最も善く神秘の面影を今日まで傳へて居るのは、婦人の外にないといふ論である。
僕はスヰデンボルグが瓢箪の上部で、メーテルリンクがその下部だと云つた。以上の愛論でも分る通り、前者は神秘のもとで、後者はその膨張である。もとが偉大に解釋が出來れば、末も亦偉大になるわけであるが、それにはエメルソンといふくゝりもあるので、僕に取つては、まだ/\それ位の説では滿足が出來ないのである。然し、先づ、エメルソンの愛論をも方づけてしまはう。
エメルソンには『愛論』がある。スヰデンボルグの愛論が、プラトーンの婦人共有論と同樣、實世間に行はれないからと云つて、一種穩健な説を建てゝ居る。プラトーンの愛、スヰデンボルグの所謂夫婦の愛は、一つの方便を云つて居るに過ぎない。人が相見、相慕ひ、相婚することになれば、肉情は完全に統一をして、靈はそのうちに一つとなり、肉體はまた之によつて靈化される。神聖な愛を見とめるに從つて、男女は物質的分子を離れて向上する。僕等は愛を以て訓練されるので、愛すなはち人格の神化は、日々非人格になつて行く,相近づいたのは、愛すべき徳の表號であつて、その表號は段々蝕沒して行くが、その間にも度々隱現して、兩者を絶えずつなぐ引力を持つて居るのである。然し、その表號はしまひには實體に歸してしまうのであるから、兩者の胸中に燃えて居た敬意は段々薄らいで行くに定まつて居るが、互ひに之を辛抱して、善い事をして居ると思つて滿足しなければならない。眞の結婚とは知力と心情との年々清淨になつて行くことであるから、男女、人格、偏癖等を忘れてしまつて、徳と智慧とに進入するが善い。人には、愛情が主權を握つて、幸福は人間に由らなければ受けられない刹那もあるが,健全な時は、人の心には、燦然たる星の夜空も、雲の樣に湧き出る愛や恐怖も、その有限的性質を失つてしまつて、僕等は完全圓美な靈界に這入(はい)つて居るのである。
以上三者のいづれにも神秘の面影は存じて居るが、エメルソンは無理にも、神秘の眞中を沈着な哲理觀を以つて引き締めて居るのだ。三者とも、各々その天才の向ふところに從つて、神秘的趣味を與へるのは事實であらう。スヰデンボルグは宗教家である、エメルソンは哲學者である、メーテルリンクは詩人である。從つて、同じ理法を論じても、甲は靈的理法、乙は知的理法、丙は未知の理法と云つて居るし,愛論に於ても、甲は敬愛を、乙は親愛を、丙は戀愛を説いて居る。
これからいよ/\自説に移らう。