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泡鳴五部作 05 憑き物
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泡鳴五部作 05 憑き物
岩野泡鳴
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Chapter 9 of 19

九

晩餐をやつて行けと、氷峰やお鈴が勸めるのを辭して、義雄はお鳥をつれてそこを出た。もう、日は暮れてゐた。

默つて、新川水道に添うて來ると、お鳥は突然、

「うそつき! 畜生!」かう云つて、義雄を亂暴にも突き飛ばした。不意を喰らつてこちらは路傍の雪の上へ倒れかけた。それを踏みこたへた時の驚愕と忿怒とがこちらをまた無言にしてしまつた。

お鳥も、こちらにそのざまを見ろと云はないばかりの冷淡な風を見せて、ずん/\さきへ進んで行く。一つには、例の痛みに耐へられなくなつた樣子である。

二人は別々になつて、義雄の下宿へ着いた。夕飯の膳が一つ出てゐたので、渠は今一つを拵らへて貰つたが、矢ツ張り、例の無關係の樣にして食事を濟ませた。

膳が引けてからも、亦無關係で、お鳥はそのまま横になつて手まくらしてゐると、義雄は机に兩肱をのせたまま、そばのランプがじい/\と燃えるのを見てゐる。

じい/\云ふ音に、ランプの石油はつづけざまに吸ひあげられるのである。丁度、それと同樣、渠は自分のいのちが自分の一と息毎に吸ひ取られて行くのだと觀じてゐた。

「自分はいつのまにこんな無考へになつたのだらう? お鳥にすんでのことで突き倒されるところであつたし、またあの若輩の鶴次郎には」と、今しがた氷峰が語つたことを思ひ出す。鶴次郎は、何か事業上の頼みを受けて、きのふの午前、室蘭方面へ出かけた。そして、廿日ばかりは歸つて來ないと云ふのである。

して見ると、翌日返すからと云つてこちらの時計を持つて行つたのは、返すつもりがなくツて持つて行つたのに相違ない。きのふも、けさも、實は心待ちに待つてゐたのに――

「實に怪しからん奴だ」と、その出發したことを聽いたその場でも思つたが、その姉なるお鈴の手前もあることだから、何も云はないで歸つて來た。都合によれば、あの銀時計をも――近眼鏡までは外せないが――どうかしなければならないかも知れないのに、それをあんな無責任な者に渡したのは、今更らおろかであつた。

さうかと云つて、鶴次郎の留守にその親や兄等を煩はすのは、年甲斐もなく、ただ自分の愚を發表するに過ぎないと考へると、寧ろそのままにして置くよりほかはないとあきらめられる。自分の爲めに、醵金をしてゐると鶴次郎が告げたのも、さう安心させて置いて、時計を借り出すつもりであつたかも知れない。無論、どうでもかまはないが、けふ、氷峰の言葉に由つて見ても、それがさう進んでゐるわけではない。

「ああ、自分は馬鹿であつた! 豐太閤や伊藤公の透き、乃ち、拔けてゐた缺點をいつも指摘しながら、自分も亦いつのまにかその缺陷があつたのだ。」かう考へると、自分の肉と靈、言葉と行爲、主義と實生活とが分離して、不一致の度がいよ/\増して行くのを感ずる。そしてこれは、刹那充實主義の自分に取つては、散漫無氣力な死の影がおほうて來たのだと思ふ。

お鳥を見ると、矢ツ張り、向ふを向いて、手まくらをしてゐる。

「風を引くから、起きたらどうだ? そして、ここへとまるつもりなら、褥を取つたらいいでないか?」かう義雄が云つても、かの女は返事もせず、動きもしない、「ふて腐れめ! 飽くまで強情な女だ」とは私かに思つたが、どうせ感じの強い病人だからと、叱りつけることはしないで、その枕もとに行き、實は近々歸京のつもりで、準備してゐないでもないと云ふことをうち明ける。

お鳥はこれを聽いて、つぶつてゐた目を見開らき、義雄をじつと瞰んだまま、顫へる下口びるを噛みしめ、おほ粒の涙をはら/\とこぼしてゐる――渠がかの女に隱して、さういふ計畫をしてゐたのが殘念で、殘念で溜らないと云ふやうに。

かの女の心は大抵分つてゐるから、義雄も強ひて物を云はせる必要がない。ただ、風を引くのを心配して、

「病院へ歸るなら、早く歸れ。」

「歸つてる留守に、今夜、逃げてしまふんだらう?」お鳥はその聲までが顫へてゐる。

「そんな皮肉は云ふなよ。」渠は笑つて何氣なく見せかけた。自分の逃げるのが――今夜でないとしても――多少事實に近いといふ顏つきをかの女の鋭い目から隱すやうにした。

お鳥は一層しぶとく横たはつてゐる。

義雄は毎晩の通り身づから寢褥を敷いてから、無言でお鳥を抱き起してやると、かの女は半ば自分の力ですツとつツ立つた。無論、ふくれツ面をして、これも無言だ。

「おほきなからくり人形だ」と云つて見たが、かの女は目を横に向けたまま、なほ口を固く結んでゐる。義雄はそれを自分のかすりの單衣に着かへさせ、重い雛人形の樣に横抱きにして褥に入れる。

渠も亦、どうせ仕事は出來ないと思つたから、一緒に這入る。自分ひとりでは感じないあまいやうな、臭いやうな人間の肌のにほひがぷんとしたが、僅かの間に自分の鼻に慣れてしまつた。

渠は、東京にゐた時から、勞れるまでは、曉がたの三時までも、四時までも、褥に這入らないのが習慣であつた。それが、巡歴旅行から歸つてからは、普通の常識家、健全家の通り、可なり規則正しく寢起きをすることが段々多くなつて來た。そして何時にでも枕にあたまが當れば、間もなく眠つてしまへる樣になつて來た。もとは、どんなことにも、努力が出來るだけして、その上に疲れ切らないでは、どうしても眠られなかつたのと比べると、非常な違ひだ。無論、それは所謂健全家の貪る安眠ではない、然しまたデカダン特色の努力から來る元氣ある疲勞でもない。もう、根柢から、ただ疲勞と衰弱とばかりだと思つた。

デカダンの生粹を以つて標榜してゐた自分だが、今では、その元氣ある道程を終つて、ただその最後の遺物をばかり握つてゐるらしくも自分自身で見える。

「遺物――形骸!」かう考へながらも、渠はうと/\して、八時の時計の鳴るのを聽いた。そして、お鳥のからだがびく/\動くのが傳はつて、度々目をさました。

けふ、雪の中を歩いたせゐで、お鳥の痛みは非常な痙攣を伴つて來たのであらう。獨りでじれツたさうに苦しんでる樣子だ。そしてその苦しみがこちらにも傳はる度毎に、渠も亦――經驗ある思ひやりから――同じ苦しみをしてゐた。

「あ、あツ」と最後に叫んで、かの女はつツ立ちあがつた。

「どうした?」義雄もはね起きる。

「死の! 一緒に死の!」

全く血の氣がなくなつて、消し忘れたうす暗いランプの光りにかの女の額の眞ツ青な色が見える。こちらには、それが、實際、死の命令者たる權威でもあるやうだ。

お鳥が着物を着かへるので、義雄も手早く洋服をつけた。そして、下宿屋を一緒に出た。

空には、なほ雪を含んでゐるらしい。どす黒い雲の層が、地下に於ける石炭層の如く、幾重にもかさなり合つて、おもくこの大地に迫り、その間々から射照らす舊暦八日の月は、宿とさし向つてる病院のペンキ塗りの高樓にその光りを鋭くぶちつけて、寒い風も透かして見える樣だ。

お鳥はからだを縮めて、人通りのない積雪の中で立ちどまり、自分の兩手を、胸のところで、衣物のうちに握り合はせてゐるやうだ。

「一緒に死なう」と云つてから初めての聲を出して、

「どこにしよう?」

「豐平川の鐵橋がよからう。」義雄は斯う咄嗟の間に答へたが、自分の足は既にその方へ向いてゐた。そこは神居古潭の釣り橋のうへででも思ひ出したところだし、また最近には、自分が雪の屋のゐる中學校へ演説しに行つた時、そのそばを通つてゐるところだ。

「‥‥‥‥」お鳥は素直について來る。

「鐵橋」と出た強い發音が渠に、今一度、人生の充實した響きを聽かせて呉れた。

渠は、今や、突然招集の命令を受けて、死の寢床から起き出でた青鬼の樣に身づから思へた。生きてゐて面倒な女が渠から無關係に遠ざかつて行くのを、これ幸ひと、その死に場所まで案内するつもりである。途々考へて見ると、自分がかの女を棄てて逃げようとしたのも、自分の思想的生活に無關係になつて來たからである。それがおのれから逃げて呉れるのだ。これほど都合のいいことはない。それだけにまたこちらの顏も、雲間を漏れる月の光に照らされると、眞ツ青になつてるのだらうと思はれる。

月がかげつたり、照らしたりする雪道を進み、大通りを横切つて南一條、二條を出た。まだ大きな店々の電燈が街を照らしてゐて、人通りはあるが、知り人のない二人が誰れにも認められないのは、渠が思ふに、丁度、もう形のない死神と亡靈との並んで通つてゐるのが人間界のものに見えないやうなものだ。

渠は女と互ひに少しも口を利かない。

この無言の影二つは狸小路を掘り割水道に出て、それに添うて少し南へ行き、それを渡つてまた東へと歩いて行つた。

つき當つたところが豐平川で、それを札幌から豐平町へ渡す鐵橋は、昨年のおほ水――札幌も半ば浸水し、石狩川の沿岸はすべて大害を被つた――の時、大破損をした。まだそのままになつてゐるので、別に木製の假り橋がかけてある。義雄の目あては假り橋の方ではなかつた。

渠はこの時、過去の忙しかつたあらゆる直接經驗を旅行として思ひ出した。天龍川の鐵橋――大井川、富士川の鐵橋――利根川、阿武隈川、北上川の鐵橋。十勝川、十勝石狩國境の山中、空知川、石狩川等の鐵橋――記憶の耳には、がうがう云つて、列車が通り過ぎて行く。そして列車の通りすぎた跡は、すべてまた義雄の通り過ぎた跡だ。殆ど日本中の、汽車の窓からのぞかれる風景が、最後の幻影であるかのやうに、すべて一度期に映つて來る。

まるで、あツと云つて自分が高いところから落ちて行くその瞬間に、ぱツと火ばなと咲く一生の思ひ出のやうだ。

「これでは自分が死ぬのだ!」斯う思ふと、然し渠は自分の死を案内してゐるのではなかつた。丁度幸ひに死なうと云ふ者を案内して、それにおつき合ひをしなければならぬなら、その時自分も死なうと云ふ覺悟なのである。矢ツ張り、さう云ふ風にして來たる死は決してゐたのだが――。

この鐵橋は、無論、鐵道の鐵橋ではない。末は石狩川にそそぐ豐平川を、札幌區から豐平町に渡す人道である。然しその構造は汽車ががう/\云つて通るのと同じ構造だ。つまり、義雄に東京の吾妻橋を思ひ起させるのである。

すると、ふと、渠は肝心のお鳥をさし置いて、曾て本當の吾妻橋の上で、――自分の敬意を戀愛に轉じて思つてたをんなと別れたことがあるのを思ひ出す。それが友人の細君になつて、今仙臺に家を持つてゐる。渠はこちらへ來る途中で、その家へ立ち寄つた。そして、歸りにも、寄つて見る氣でゐたのである。その女とその友人とがいよ/\結婚するといふ日の前夜、渠は二人と共に吾妻橋の上で別れの言葉を述べ合つた。それも、お互ひに變な感じに打たれた。半時間ほど皆がただ無言でつツ立つてゐたあげく、おの/\一言づつしか口に出し得なかつた。

「もう、別れようか?」

「ぢやァ、歸らう。」

「どうぞ、ねえ、あんまり大きな聲で笑はない樣に――。」

女はこちらの特別な高笑ひが餘ほど氣になつてゐたのであつた。然し渠は、それ以前から、いろいろな失戀の結果、それを身づからまぎらせようとして、わざと高く笑つてゐたのが、しまひには自分の習慣になつてしまつてたのだ。

「あれは、秋であつた――千住の方から、圓い澄んだ月が登つたツけが――」然し、それはもう前世のことのやうで――今は、早や他界のこなたに來てゐる樣な冷たい感じで、渠は佇ずんでゐる。

どす黒い層雲は、動かない樣でも動いてゐるので、冷やかに笑ふ月の西に傾くその一端を見せたり、隱したりする。その度毎に、二人に殘る天地が消えたり、現はれたりする。

義雄には、その大體の形勢はよく分つてゐる。第七師團第二十五聯隊の兵營所在地なる月寒は、この橋を渡つて、約一里のところにある。それは區の東南に當つて見えないが、中島遊園の樹木の黒い影を左りにして、西方に向ふと、限界は遠く藻巖、圓山、天狗、手稻の諸山まで開らけ、豐平川は、その南から東北に向つて、幾多の川洲を現じてゐる。

そして、六七十間の鐵橋は三ヶ所の土臺――煉瓦を以つて巖丈に築きあげたの――にささへられてゐたのが、中央の土臺が昨年の洪水によつて掘り起され、川下に向つて傾いた爲め、鐵橋はそこから中斷し、上したに二三間の喰ひ違ひを生じた。こちらからの端づれが高いままで、あちらからは、もし渡つて來ると低くなつてゐるので、土臺石につき當つてゐるのだ。これは、こなひだも、演説に行つた時、車の上からよく見て置いた。

義雄は、この中斷した橋の喰ひ違ひに於いて、その土臺石を圍んで、深い水が渦卷いてゐるのをさき頃見たと想像してゐる。そして、そこへお鳥がほうり込まれれば、大丈夫溺れて死ぬと考へてゐる。

雪の降つた跡でもあり、夜は段々更けて來たので、向ふの假り橋を提灯の火が一つ渡つた切りで、幸ひに人通りは絶えた。

聽えるものは、鐵橋の上構造に當る強い風の響きばかりで――天候は、宿を出た時よりも險惡になつてゐた。周圍に近い人家もなく、また防風林もないので、橋のうへはそらに向き出した。

月はくろ雲に隱れてしまつた。そして、その雲からいよ/\雪がちら/\やつて來た。

義雄の遲い歩みが橋の上に進むと、お鳥は一間ばかり離れてついて來る。

いづれも無言だ。そして、その無言の影二つは、歩一歩、川なかのうへへ近づくのである。

雲の切れ目から、月がちよツと横ざまに照らした。その照らしにはツきりと映つたのは、數丈高い空間に鐵材の構造が壟斷された鼻である。

その上に義雄は達してゐて初めて自分の心のおそろしさが分つた。同時に、下を見て目がくらつくと同時に、吹き飛ばされさうな風に自分の足をしツかり踏みこたへた。そして、再び下をのぞいて見ると、水があると思つたのは大したことでもなく、別に深くもなかつたかして、その上を平均してゐる雪の色が見える。

「ここぢやア、とても死ねまい。」獨り言のやうに云つて、渠はかの女があとから進んで來るのを返り見た。

「‥‥‥‥」お鳥にはそれが聽えなかつたらしい。而もをかしなことには、水に濡れることをでもよけてゐるかのやうに、兩手で以つて衣物の裾の兩端をはしよつてゐる。

「‥‥‥‥」義雄もただじツとのぞき込むやうにしてかの女を避けて通した。

かの女は壟斷された薄暗の鼻へおづ/\と進んで、「待つて下さい」と云ふ風で、あぶなツかしさうに少し腰をかがめて、向ふの下の方を見て、その鼻の幅だけを、右へ行つたり左りへ行つたりしてゐる。

「おれはこツちにゐるぢやアないか」と、義雄は云はうとした。が、ふと、氣が附いたその一瞬間に自分の胸が煮えくり返つた。かの女は和歌山縣の小學校で同僚としてくツ附き合つたが、どすかおん坊の血統だと云ふ評判を聞いたので、兄の不承知をしほにその男を――最後の夜を夜ツぴて泣き別れたと、かの女はこちらに白状したことがあるが――棄てて來た。その男を、矢ツ張り、何かに附けて一番思ひ出してゐたのをこちらは知つてゐるが、こんなところでまたかの女は思ひ出したのだらう。洪水があつた時など、新らしく持つた家が水につかつたので、二人して夜、あぶない橋の上を手を取り合ふことも出來ず、――別々に這ふやうにして渡つたと云ふ。かの女が東京で一度女優になる氣でゐた時、こちらの前でその場合の樣子を獨りで試みに演じて見せた時にも、同じやうに裾をはしよつた。かの女は、今また、それをこれまでにも云ひ爭ひなどの時に起つた精神錯亂のうちに演じてゐるらしい。これは渠が時々――時によると、二晩もつづけて――見せられたかの女の精神錯亂の最後だらうと思はれた。

「要吉さん、渡して」とお鳥はさながらもとの男に實際にからだを托すやうにして、とツ鼻から手とからだとを延ばす。

「あぶない!」かう叫んで、義雄はかの女に抱き附いた時は、然し、もう、どうせ死ぬんだと覺悟してゐた。

二人は、抱き合つて薄やみの中を落ちた。

義雄はこの場に、自分の一生涯にあつたことをすべて今一度、一度期に、一閃光と輝やかせて見た。然しそれは下に落ちるまでの間のことで、――落ちて見ると、溺れる水もなかつた。怪我する岩石もなかつた。この冬中の寢雪として川床に積み重なつた雪のうへだ。

二人は抱き合つた手を放した。そして、別々に起きあがつた。

お鳥が自分の肩から下の雪を兩手でふり拂つてゐると、義雄はまた鳥打ち帽をかぶり直し、自分の洋服のをふり拂つてゐる。然し、月はもうその光りを見せる隈がないほど、そらは一面にかき曇つて、風がおほひらの雪をぽたり/\と二人の顏に投げ打つのである。

川床を札幌の方へ出るにはどうしても一つの細い流れを渡らなければならない。お鳥を脊中に負ぶつて、義雄は編みあげ靴のままその流れをざぶ/\渡つた。

川を出てからも、矢ツ張り、無言で、歸途を急いだが、お鳥は、ふと、降る雪の中に立ちどまつて、手を前髮の上へやつて見た。そして、動かない。

「どうした?」義雄が先づ聲をかける。

「櫛がないぢやないか?」かの女は泣き聲だ。きのふ、東京から屆いた蒔繪の櫛を云ふのだ。

「身代りになつたのだらう、さ――また買へばいい。」

「金がないのに、買へやせんぢやないか?」

「そんなこともないだらう。」

「買へやせん! 買へやせん!」からだをゆすぶりながら、「探して來い!」

「馬鹿を云ふな!」かう、義雄は叱りつけた。そして、さくり/\と積つた雪の中をさきに立つて急ぐ。

餘りひどく降つて來たので、渠はインバネスを脱いで、かの女にかけてやつた。

下宿に歸つた時は、かれこれ二時頃であつた。たて寄せてあるがらす戸を明けて這入つたが、家のものは皆寢てゐたので、渠等に何ごとをも感づかれずに濟んだ。

室に這入ると、そのままにして置いた寢床のそばに、お鳥の櫛が仰向けにころがつてゐる。

「あ、ここにあつた」と、かの女は嬉しさうに驅け寄つて、それを拾ひあげる。

「その櫛に妄念が殘つて、浮べなかつたのだらうよ。」

お鳥はまたすねてしまひ、無言でずん/\寢床へ這入つてしまつた。歩いたり、冷えたりした爲め、痛みが一層烈しくなつたのをおぼえるらしい。

然し義雄は氣が立つてゐて、なか/\床に這入りたくもない。机の前に坐わり、机の上の論文原稿に手を當てると、

「少くとも、この論文を書きあげる間は、死ぬべきものではない」といふ考へが浮ぶ、悲痛の哲理は乃ち生の哲學である。生の哲學を體現するものは、飽くまで、死を排斥する意志と努力とを持つてゐなければならない。渠はかう考へて、再び自分といふものを引き立てることが出來た。

「この半月ばかりは」と、渠は心に語つた、「實に、自我を最も多く逸してゐた。實質上の自殺をしてゐた。自分自身も亦あの樣な斷橋であつた。」

Chapter 9 of 19
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