Chapter 1 of 1

Chapter 1

健康と仕事

上村松園

昨年の五月のこと所用のため上京して私は帝国ホテルにしばらく滞在した。上京する日まで私は不眠不休で仕事に没頭していたので、ホテルに落着いてからでも絵のことが頭の中に残っていて、自分では気づかなかったが、その時はかなりの疲労を来たしていたらしいのであった。らしい……と他人の体みたいに言うほど、元来私は自分のからだについては無関心で今まで来たのである。病気を病気と思わざれば即ち病気にあらず……とでも言いますか、とにかく私は仕事のためには病気にかまってはいられなかったのである。病気のお相手をするにはあまりに忙しすぎたのであった。

そのような訳で自分の体でありながら極度の疲労を来たしている自分の体を劬ってやる暇もなく私は上京するとホテルに一夜をあかした。

朝、眠りから醒めて床を出て洗面器のねじを開こうとしたがその日はどういう加減かねじがひどく硬かった。

はてすこし硬いなと思いながら手先に力をいれてそれをひねろうとした拍子に、頭の中をつめたい風がすう……と吹きすぎた。はっと思った瞬間に背中の筋がギクッと鳴った。

「失敗った」

と私は思わず口の中で呟いたが、体はそのままふんわりと浮き上り体中から冷たい汗が滲み出るのを感じ……それっきり私の体はその場へ倒れてしまったらしいのである。

用事もそこそこにホテルを引き揚げて私は京都の家へ帰って来たが、それ以来腰が痛くてどうにもたまらなかった。朝夕薬のシップやら種々手をつくし六十日ほどしてやっと直ったが、もともと仕事に無理をして来て自分の体を劬ってやらなかった報いだと諦めたが、それからというものは体の調子がちょっとでもいけなかったり疲れたりすると、腰や背のいたみが出て来て画室の掃除や書籍の持ち運びにも大へん苦しみを感じるようになってしまった。

三月頃から展覧会の出品画制作などで無理をつづけて来て体が疲労していたことはたしかであったが、ちょっとしたはずみから体の張りがゆるみ出すということは、よほど気をつけなくてはいけないと自戒すると同時に、これしきの頑張りでこのようになるのは、やはり年のせいとでもいうのであろうかと、そのときは少々淋しい気がしないでもなかった。

親しい医者に戻るなり看て貰うと、医者はそれごらんなさいといった顔をして、

「あなたほどの年配になると、そう若い人と同じように無理は通りませんよ。三十歳には三十歳に応じた無理でなければ通りません。六十歳の人が二十代の人の無理をしようとしてもそれは無理というものですよ」

と戒められた。私はそれ以来夜分はいっさい筆を執らないことにしている。

ふりかえってみれば、私という人間はずいぶんと若い頃から体に無理をしつづけて来たものである。よくこの年まで体が保ったものだと自分で自分の体に感心することがある。

若いころ春季の出品に明皇花を賞す図で、玄宗と楊貴妃が宮苑で牡丹を見る図を描いたときは、四日三晩のあいだ全くの一睡もしなかった。若い盛りのことでもあり、絵の方にも油がのりかかっていたころであったが、今考えれば驚くほどの無茶をしたものである。

展覧会の搬入締切日がだんだん近づいて来るし、決定的な構図が頭に浮かんで来ない。あせればあせるほど、いい考案も出て来ないという有様で、あれこれと迷っているうちにあと一週間という時になって始めて不動の構図に想い到った。

それからは不眠不休すべてをこの絵に注ぎこんでそれと格闘したのであった。別に眠るまいと決心して頑張った次第ではないが、締切日が迫って来たのと、描き出すとこちらが筆をやめようとしても手はいつの間にか絵筆をにぎって画布のところへ行っているという、いわば絵霊にとり憑かれた形で、とうとう四日三晩ぶっ通しに描きつづけてしまったのである。

「唐美人」で憶い出すのは梅花粧の故事漢の武帝の女寿陽公主の髪の形である。あれにはずいぶん思案をしたものである。

支那の当時の風俗画を調べるやら博物館や図書館などへ行って参考をもとめたが寿陽公主にぴったりした髪が見つからなかった。

髪の形で公主という品位を生かしもし殺しもするのでずいぶんと思い悩んだが、構図がすっかり纒まってから三日目にやっとそれを掴むことができたのである。博物館や図書館へ運んだ疲れた体で、画室をかき廻して参考書を調べ、それらの中にも見つからずうとうとと眠り、さて目ざめてから用を達しに後架へ行って手水鉢の水を一すくいし、それを庭のたたきへ何気なくぱっと撒いた瞬間、たたきの上に飛び散った水の形が髪になっていた。

「ほんにあれは面白い形やな」

私はそう呟いたがその時はからずあの公主の髪の形を見出したのであった。それにヒントを得て一気呵成にあの梅花粧の故事が出来上った訳であるが、これも美の神のご示現であろうと今でもそう思っている。

夜、家の者が寝静まってしまうと私も疲れを覚えて来て体をちょっと横たえようとし、そのあたりに散乱している絵具皿を片つけにかかる。ふと絵具皿の色に眼がつく。それが疲れ切った眼に不思議なくらい鮮明に映る。めずらしい色などその中にあると、

「おや、いつの間にこのような色を……ちょっと面白い色合いやなア」

と思わず眺め入ってしまう。それをここへ塗ったらとり合わせがいいなあ――とつい思ったりすると、いつの間にか右手は筆をもっている。識らず識らずのうちに仕事のつづきが続いている。

同じように、寝ようとしてふと眺め直した絵の線に一本でも気になるのがあると、

「すこしぐあいが悪いな……この線は」

とそれを見入っているうちに修正の手がのびているのである。そして識らず識らず夢中になって仕事をつづけている。興がのり出す。とうとう夜を徹してしまう。知らぬ間に朝が障子の外へ来ているということは、しばしばというよりは毎日のようなこともあった。

「はて、いつ一番鶏二番鶏が啼いたのであろう」

私は画室の障子がだんだん白みを加えてゆくのを眺めながら昨夜の夢中な仕事を振り返るのであった。

気性だけで生き抜いて来たとも思い、絵を描くためにだけ生きつづけて来たようにも思える。

それがまた自分にとってこの上もない満足感をあたえてくれるのである。

昭和十六年の秋に展覧会出品の仕事を前に控え、胃をこわして一週間ばかり寝込んでしまった。これも無理がたたったのであろう。

胃のぐあいが少しよくなった頃には、締切日があと十余日くらいになってしまった。

「夕暮」の絵の下図も出来ていたことだし自分としても気分のいい構図だったので何とかして招待日までに間に合わせたかったので、無理だと思ったが一年一度の制作を年のせいで間に合わせなかったなどと思われるのが残念さから、負けん気を起こして、これもまる一週間徹夜をつづけた。恐らくこれが私の強引制作の最後のものであろうと思う。

一週間徹夜――と言っても、少々は寝るのであるからこの時はさほどに疲労は来なかった。

夜中二時頃お薄を一服のむと精神が鎮まって目がさえる。それから明日の夕飯時ごろまで徹夜の延長をし、夕方お風呂を浴びてぐっすり寝る。すると十二時前に決まって目がさめる。それから絵筆をとって翌日の午後五、六時ごろまで書きつづけるのである。

一週間頑張って招待日にはどうにか運送のほうが間にあったので嬉しかった。

「夕暮」という作品が夜通しの一週間のほとんど夜分に出来上ったということも何かの暗示のように思えるのである。

医者が来てこんどは怒ったような顔をして言った。

「あなたは倒れるぎりぎりまで、やるさかいに失敗するのです。今にひどい目にあいますよ」

無理のむくいを恐れながらも私はいまだに興がのり出すと夜中にまで仕事が延長しそうになるのである。

警戒々々……そんな時には医者の言葉を守ってすぐに筆を擱く。そのかわりあくる朝は誰よりも早く起きて仕事にかかるのである。

一般には画は夜描きにくいものであると言われているが、しかし画を夜分描くことは少しも不思議ではない。

世間の寝静まったころ、芸術三昧の境にひたっている幸福は何ものにも代えられない尊いものである。

ときどき思うことがある。

これだけの無理、これだけの意気地が私をここまで引っ張って来てくれたのであろう……と。

私は無理をゆるされて来たことについて、誰にともなくそのことを感謝することがある。

私の母も人一倍丈夫な体をもっていた。病気というものを知らなかったようである。

若くから働く必要のあった母は、私同様に病気にかまってはいられなかったのであろう。

働く必要が母に健康をあたえてくれたとでも言うのであろう。

母は八十歳の高齢ではじめて床に就き医者をよんだのであるが、その時、脈らしい脈をとって貰ったのはこれが始めてだ、と私にもらしていた。

母は八十六歳でこの世に訣れを告げたのだが、私もまだまだ仕事が沢山あるので寿命がなんぼあっても足らない思いがする。私は今考えている数十点の絵は全部纒めねばならぬからである。

私はあまり年齢のことは考えぬ、これからまだまだ多方面にわたって研究せねばならぬことがかずかずある。

生命は惜しくはないが描かねばならぬ数十点の大作を完成させる必要上、私はどうしても長寿をかさねてこの棲霞軒に籠城する覚悟でいる。生きかわり死にかわり何代も何代も芸術家に生まれ来て今生で研究の出来なかったものをうんと研究する、こんな夢さえもっているのである。

ねがわくば美の神の私に余齢を長くまもらせ給わらんことを――

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