四 俗曲趣味
二葉亭は江戸ッ子肌であった。あの厳しい顔に似合わず、(野暮を任じていたが、)粋とか渋いとかいう好みにも興味を持っていて相応に遊蕩もした。そういう方面の交際を全く嫌った私の生野暮を晒って、「遊蕩も少しはして見ないとホントウの人生が解らんものだ、一つ何処かイイ処へ案内しようじゃないか、」と能く云い云いした。
二葉亭のお父さんは尾州藩だったが、長い間の江戸詰で江戸の御家人化していた。お母さんも同じ藩の武家生れだったが、やはり江戸で育って江戸風に仕込まれた。両親共に三味線が好きで、殊にお母さんは常磐津が上手で、若い時には晩酌の微酔にお母さんの絃でお父さんが一とくさり語るというような家庭だったそうだ(二葉亭の直話)。江戸の御家人にはこういう芸欲や道楽があって、大抵な無器用なものでも清元や常磐津の一とくさり位は唄ったもんだ。二葉亭のお父さんも晩酌の膳に端唄の一つも唄うという嗜みがあったのだから、若い時分には相応にこの方面の苦労をしたろうと思う。この享楽気分の血は二葉亭にもまた流れていた。
その頃の書生は今の青年がオペラやキネマへ入浸ると同様に盛んに寄席へ通ったもので、寄席芸人の物真似は書生の課外レスンの一つであった。二葉亭もまた無二の寄席党で、語学校の寄宿舎にいた頃は神保町の川竹(その頃は川竹とはいわなかったが)の常連であった。新内の若辰が大の贔負で、若辰の出る席へは千里を遠しとせず通い、寄宿舎の淋しい徒然には錆のある声で若辰の節を転がして喝采を買ったもんだそうだ。二葉亭の若辰の身振声色と矢崎嵯峨の屋の談志の物真似テケレッツのパアは寄宿舎の評判であった。嵯峨の屋は今は六十何歳の老年でマダ健在であるが、あのムッツリした朴々たる君子がテケレッツのパアでステテコ気分を盛んに寄宿舎に溢らしたもんだ。語学校の教授時代、学生を引率して修学旅行をした旅店の或る一夜、監督の各教師が学生に強要されて隠し芸を迫られた時、二葉亭は手拭を姉さん被りにして箒を抱え、俯向き加減に白い眼を剥きつつ、「処、青山百人町の、鈴木主水というお侍いさんは……」と瞽女の坊の身振りをして、平生小六かしい顔をしている先生の意外な珍芸にアッと感服さしたというのはやはり昔し取った杵柄の若辰の物真似であったろう。「謹厳」が洋服を着たような満面苦渋の長谷川辰之助先生がこういう意表な隠し芸を持っていようとは学生の誰もが想像しなかったから呆気に取られたのも無理はない。が、「謹厳」のお化のような先生は尾州人という条、江戸の藩邸で江戸の御家人化した父の子と生れた江戸ッ子であったのだ。
東片町に住った頃、近所に常磐津を上手に語る家があった。二葉亭は毎晩その刻限を覘っては垣根越しに聞きに行った。艶ッぽい節廻しの身に沁み入るようなのに聞惚れて、為永の中本に出て来そうな仇な中年増を想像しては能く噂をしていたが、或る時尋ねると、「時にアノ常磐津の本尊をとうとう突留めたところが、アンマリ見当外れでビックリした。仇な年増どころか皺だらけのイイ婆アさんサ。あの乾枯びたシャモの頸のような咽喉からドウしてアンナ艶ッぽい声が出るか、声ばかり聞いてると身体が融けるようだが、顔を見るとウンザリする、」といった。が、顔を見るとウンザリしてもその声に陶酔した気持は忘れられないと見えて、その後も時々垣根の外へ聞きに行ったらしかった。『平凡』の一節に「新内でも清元でも上手の歌うのを聞いてると、何だかこう国民の精粋というようなものが髣髴としてイキな声や微妙の節廻しの上に現れて、わが心の底に潜む何かに触れて何かが想い出されて何ともいえぬ懐かしい心持になる。私はこれを日本国民が二千年来この生を味うて得た所のものが間接の思想の形式に由らず直ちに人の肉声に乗って無形のままで人心に来り迫るのだ」とあるは二葉亭のこの間の芸に魅入られた心境を説明しておる。だが、こういうと馬鹿に難かしく面倒臭くなるが、畢竟は二葉亭の頭の隅のドコかに江戸ッ子特有の廃頽気分が潜在して、同じデカダンの産物であるこういう俗曲に共鳴したのであろう。これを日本国民が二千年来この生を味うて得た所のものと国民性に結びつけて難かしく理窟をつける処に二葉亭の国士的形気が見える。
だが、同じ日本の俗曲でも、河東節の会へ一緒に聴きに行った事があるが、河東節には閉口したらしく、なるほど親類だけに二段聴きだ、アンナものは三味線の揺籃時代の産物だといって根っから感服しなかった。河東節の批評はほぼ同感であったが、私が日本の俗曲では何といっても長唄であると長唄礼讃を主張すると、長唄は奥さん向きの家庭音曲であると排斥して、何といっても隅田河原の霞を罩めた春の夕暮というような日本民族独特の淡い哀愁を誘って日本の民衆の腸に染込ませるものは常磐津か新内の外にはないと反対した。この俗曲論は日本の民族性の理解を基礎として立てた説であるが、一つは両親が常磐津が好きで、児供の時から聴き馴れていたのと、最一つは下層階級に味方する持前の平民的傾向から自然にこれらの平民的音曲に対する同感が深かったのであろう。
二葉亭は洋楽には一向趣味がなかった。折に触れて洋楽に対する私の興味を語ると、「洋楽はトッピキピのピだ」と一言に蔑しつけた。「洋楽にもかなりシンミリしたものがある、ヘイズンかシューベルトのセレナードでも聴いて見給え、かなりシンミリした情調が味える、かつシンミリしたものばかりが美くしい音楽ではないから……」と二、三度音楽会へ誘って見たが、「洋楽は真平御免だ!」といって応じなかった。桜井女学校の講師をしていた時分、卒業式に招かれて臨席したが、中途にピアノの弾奏が初まったので不快になって即時に退席したと日記に書いてある。晩年にはそれほど偏意地ではなかったが、左に右く洋楽は嫌いであった。この頃の洋楽流行時代に居合わして、いわゆる鋸の目を立てるようなヴァイオリンやシャモの絞殺されるようなコロラチゥラ・ソプラノでもそこらここらで聴かされ、加之にラジオで放送までされたら二葉亭はとても助かるまい。苦虫潰しても居堪まれないだろう。