Chapter 1 of 3

『猿沢佐介の背中には、きっと一つの痣がある。しかもそいつのまんなかに、縮れて黒い毛が三つ、生えているのに相違ない』

いつからか、蟹江四郎は、そう思うようになっていました。思うというより、信じるといった方がいいかも知れません。思ったり信じたりするだけではなく、時には口に出して言ってみたりさえするのです。もちろん人前でではなく、こっそりとです。七五調の新体詩みたいな調子のいい文句ですから、つい口の端に出て来やすいのでした。

ひとりで部屋でお茶を飲んでいる時とか、道を歩いている時などに、だから彼はふと呟いています。ちょいと呪文のような具合なのです。

『猿沢佐介の背中には、節穴みたいな痣がある。そしてそいつのまんなかに……』

それを呟くとき、蟹江四郎の顔はいつもやや歪み、表情もいくらか苦渋の色をたたえてくるようです。ふだんから突き出たような眼玉が、そんな時はなおのこと、ぎょろりと飛び出してくるように見えました。

しかしこの七五調仕立ての文句は、その発想において、間違っていました。それは蟹江自身もよく知っていました。本来ならば、これは次のように言うべきなのです。

『三本の黒い縮れ毛の生えた、直径一糎ほどの痣が、この世のどこかに存在する。誰かの背中にきっと貼りついているのだ。その誰かというのは、あの猿沢佐介に違いない』

つまり、猿沢の背中に痣があるかどうか、ということが問題ではなく、痣があるのは猿沢の背中かどうか、ということなのです。言葉にすれば似たようなものですが、意味から言えばすこし違っているでしょう。

蟹江四郎は、猿沢佐介の裸の背中を、まだ見たことがありません。いや、見たことはあるかも知れませんが、どうもその印象が憶い出せないのです。夏ともなれば、暑いのだから、猿沢佐介だって肌を脱ぐだろう。そうだ。衣服を脱いでパンツひとつになり、庭の草花に水をやったり、体操や縄飛びなどをしているところを、たしかに見たことがある。そう思って、その印象を憶い出そうとするのですが、瞼に浮んでくるのは、猿沢の胸に濃く密生した胸毛の色とか、双腕のぐりぐり筋肉の形とか、そんなものばかりで、背中のことは全然浮んでこないのです。それはそうでしょう。人間というものは、交際や交渉の関係上、お互いの前面をしか眺めないもので、背面をしみじみ眺め合い、それを記憶にとどめ合うなどとは、めったにないことです。あるとすれば、しごく特別の場合でしょう。

蟹江四郎が猿沢佐介と知合いになったのは、もうずいぶん以前です。かれこれ二年にもなるでしょうか。しかしそれは、知合いになるのが当然であって、しかも初めはなんとなく顔見知りになり、やがてある夜、あることを中心として突然近付きになったのです。この二人の男は、ごく近くに住み合っている、近隣同士の間柄なのでした。お互いの玄関まで、歩いて三分とかからない、まったく同じ恰好の、まったく同じ大きさの家に、この二人はそれぞれ居住していました。

それは戦争中、某軍需会社の社宅だったという話でした。一面の畠のまんなかに、四角に土地を地均しして、そこに二十軒ばかりの同じ形の家が、行儀よく並んで立っています。敗戦後しばらくしてその会社は潰れ、この社宅も売りに出されたという訳でした。だからここは今は、社宅時代とは全く異なり、素姓も違えば職業も違う、雑多な世帯や家族の群落なのです。同じ一郭に住んでいるというだけで、お互いに通い合うものもほとんどない人々が、なんとなく顔をつき合わせて暮している恰好でした。

なにしろ畠のまんなかにぽつんと孤立した部落で、肉屋に三町、風呂屋に五町という不便なところですが、そうかといってこの部落の人々は、別段お互いによりそったり、団結したりする気持はないらしい。いつまで経ってもばらばらで、にがりを入れ忘れた豆腐みたいに、いっこうに固まる気配はないようです。結局それがお互いに気楽なのでしょう。そのくせ、近隣の動静に、全然無関心というわけではありません。表面では何気ない表情でも、かげでは妙に気を廻したり、こまかく神経を働かせていたりするのです。たとえば、どの家では今日牛肉の上等を百目買ったとか、どこの家では昨晩夫婦喧嘩をやったとか、まあそんなことです。つまりこの部落の人々は、ことに女たちは、そのような毒にも薬にもならない噂話が、大好きなのでした。

そんな噂話のひとつに、猿沢佐介のことがあります。猿沢佐介という男は、戦争前、ある小さなサーカス団長をやっていた。そういう噂なのです。噂というよりは、今ではもう、伝説といった方がいいかも知れません。当人もそれを否定しませんし、それらしく振舞っている傾向さえあります。団長らしい派手なジャケツを着て、鞭のようなものを持ち、畠の中を悠々と散歩したりするのです。部落の共同井戸端から、洗濯中の女たちがその姿を眺めて、

「ほんとに団長そっくりね」

「まったくね。あのだんだら模様のジャケツの色なんかもね」

まさかその噂を助長させる目的で、そんな恰好をしているのでもないでしょうが、それでも時々、動物を調練する具合に鞭をヒュッと振ったり、口笛をピュウと鳴らしたりするのです。まったく板についた仕種でした。

「あの人の奥さんも、ひょっとすると、サーカス娘だったかも知れないわね」

「あ、そうだ。きっとそうよ。こないだあそこの独木橋を、調子をつけてひょいひょいと渡ったわよ」

「ふん。じゃ綱渡りの要領というわけね」

噂の発生とは簡単なもので、これで猿沢夫人の前身は、すっかり綱渡り娘ということになってしまうのです。

猿沢夫妻の間には、子供が一人あります。まだ赤ん坊です。その赤ん坊に、近頃猿沢佐介は『おあずけ』を仕込んでいるという話でした。赤ん坊の眼の前にお菓子をおいて、そして猿沢がするどい声で、

「おあずけ!」

と命令する。するとその赤ん坊は、出しかけた手を直ぐ引っこめて、おとなしくかしこまるということです。それを見た人がいるというのですから、本当なのかも知れません。この話に対して、部落の人々の間では、これは赤児の基本的人権の無視であるという非難と、さすがはサーカスの元団長だという賞讃と、二つの説に分れていました。賞讃説の方は、もっぱら女の方に多いようです。猿沢佐介は風采も一応は立派だし、口もなかなかうまいので、女群から一般に好意を持たれているようでした。その反面、男たちからは、あまりよく思われていなかったかも知れません。

猿沢佐介は、もう四十位になるでしょうか。しかしいつも派手な身なりをしているので、若々しく見えます。手足の皮膚もつやつやしていて、まるで青年みたいです。しかし顔だけは、つやつやと言うより、てらてらと赤く光っているのです。ことに鼻の頭などは、すっかりトマト色になっていました。これは言うまでもなく、酒焼けというやつです。猿沢佐介はおそらく部落きっての飲み手でした。毎晩酒の気を、切らしたことがないという噂でした。家でも飲むし、もちろん外でも飲む。駅近くの飲み屋や屋台で、とぐろを巻いている猿沢の姿を、蟹江はしばしば見かけることがありました。

蟹江四郎が猿沢佐介と口を利き合うようになったのも、駅近くのある飲み屋ででした。その飲み屋の名は『すみれ』というのです。その優雅な名前にも似ず、それは軒も傾いたような、ぼろぼろのきたない居酒屋でした。

蟹江も酒は大好きでした。しかし安月給の身なので、毎日毎晩飲むというわけには行かない。五日に一度とか、一週間に一度とか、せいぜいその程度にしか飲めません。どんなに彼は毎晩飲みたかったことでしょう。しかしそれは出来ないことでした。歯を食いしばるようにして『すみれ』の前を通り過ぎ、暗い畠中道を黙々と家に戻ってくる。駅から彼の家まで、五六町ほどもあるのです。この道のりが、別の事情もあって、素面のときには、仲々つらいのでした。

それは、蟹江が猿沢と知合いになった頃、つまり今から二年ほど前のことです。

その時分、そのような貧しい蟹江にとって、猿沢の存在がどう感じられていたか。もちろん近所同士ではあるし、目に立つような恰好をしているから、蟹江は猿沢の顔や名をよく知っていました。どんな職業に従事しているのか知らないが、いつも派手な身なりをして、そこらをぶらぶら散歩したり、しかも毎晩『すみれ』なんかで酒を飲んでいるようだ。得体の知れない、へんな男だな。その程度の感じだったとも言えましょう。しかし、あるいはその頃すでに、彼は猿沢に対して、もっと深い感じを持っていたのかも知れません。つまり、それは言い換えれば、漠然たるわだかまりといったようなものです。

俺が飲むや飲まずの生活をしているのに、あいつは派手に毎晩飲んでいる。わだかまりの感じのひとつは、そういうことでもありました。すなわち、猿沢という男に対する、ぼんやりした隣人的嫉妬。そういう風に表現してもいいでしょう。この世に贅沢している人は他にたくさんいるのに、隣人の猿沢にだけそんな感じを持つなんて、すこし可笑しな話ですが、もともと人間とはそういうものなのでしょう。大きな敵が前面に控えているのに、仲間同士で分裂していがみ合っている、そういう例はよく耳にするところです。人間の感覚というのは、身近なものに対してのみ、反応するものなのかも知れません。しかし無論蟹江のこの感じは、その頃はまだ茫漠としていて、自分でもはっきりととらえがたい程度だったわけです。

猿沢と初めて口を利いたのは、ある寒い冬の夜のことでした。その夜蟹江は『すみれ』の一隅に腰をおろして、ひとりちびちびと焼酎のコップを傾けていたのです。その蟹江の卓の向う側に、毛皮のジャンパーを着込んだ猿沢佐介が、やはり静かに徳利をかたむけていました。この二人はこの店で、それまで度々顔は合わせているのですが、まだ口をきき合ったことは一度もないのでした。

店の奥の椅子には、色の白い若い女がひとりひっそりと腰かけていました。これはこの店の給仕女で、久美子という女です。給仕女といっても、酒をあたためたり肴を運んだりする、ただそれだけの役目でした。

猿沢が飲んでいるのは、一級酒の銚子でした。しかも肴を三四品並べたりして、なかなか豪勢な恰好です。これに反して蟹江の方の肴はたった一皿で、それも一番安い鰈の煮付けなのでした。表側はすっかり食べ終って、丁度いま裏にひっくりかえしてみたところです。

猿沢はしずかに盃を唇に持ってゆきながら、さっきからちらちら眼を動かして、久美子の様子をぬすみ見たり、蟹江のコップの方を眺めたりしていましたが、ふとその皿に眼をおとして、突然独り言のようなことを言いました。

「裏白の魚なんて、おかしなもんだねえ」

蟹江の酔った耳は、ふいとその呟きを聞きとがめました。それにいい加減酔いが廻って、話し相手が欲しくもなっていたので、彼はうっかりと顔をあげて問い返しました。

「なんだって。裏白の魚だって?」

「そうさ」と猿沢は、初めて蟹江の存在に気付いたような顔をよそおって、しごく鷹揚にうなずきました。「それは鰈だろう。表が黒で裏が白。魚のくせに裏表があるなんて、奇怪な感じのものだねえ」

「そりゃ仕方がないさ。生れつきだもの」と蟹江は頬をふくらませて、鰈のために弁護しました。「僕なんかはこの魚が大好きだよ。味も良いし、やわらかだし、栄養も豊富だしさ」

「栄養たっぷりかも知れないが、顔が歪んでひねくれてるねえ」猿沢はライターを取出して、カチッと火をつけました。「うちでは、その魚は、もっぱら猫が食べる」

その時奥の椅子で久美子が、かすかに笑ったような声を立てたものですから、蟹江は急に面白くないような気分になって、箸を置こうとしました。すると莨の煙の向うから、猿沢はにやにやと笑って、あやまるように掌をふりました。

「いや、失礼、失礼。べつに君の肴に、ケチをつけるつもりじゃなかったんだ」

「僕だって、ケチをつけられたとは、思っていないよ、猿沢君」

ついうっかり相手の名を言ってしまって、蟹江は照れかくしにコップをぐいとあおりました。猿沢は笑いを浮べたまま、その動作をじっと見守っていましたが、やがて蟹江がコップを卓へ置くと、こんどは視線をそこに移して、コップの中で揺れる透明な焼酎の色を、もの珍らしそうに眺め始めました。その眼付や真赤になった鼻の色からしても、猿沢はもう相当に酔っているらしいのでした。

「ねえ」やがて猿沢は視線をそこに定めたまま、相談でももちかけるように、低い調子で口を開きました。「もしもだね、メチルで盲目になったと仮定する。もちろん仮定だよ。その時君は、アンマになろうと思うかね。それとも琴を勉強して、その方面の師匠になろうと思うかね?」

その時の猿沢の顔がへんにまじめな表情だったので、蟹江はふと返答にまごつきました。

「仮定の問題には、ちょっとお答え出来ないけれど――」なんだか圧迫されるような気分になりながら彼はどもりました。「な、なぜそんなことを聞くんだね?」

「いや、今ふっと思いついたのさ」と猿沢は視線をゆっくりともどしながら、妙な笑い方をしました。「二つのものから一つを選ぶということは、これはなかなか大変なことだからね。つまり、芸術家か、生活人か、という問題だ」

「じゃ君なら、どちらを選ぶ?」

俺のコップを眺めながらそんなことを思い付くなんて、まるでこの焼酎がメチルみたいじゃないかと、やっとその時そう気がついて、蟹江はすこし中っ腹な調子で反問しました。

「僕かい? 僕はね――」

猿沢はそこでふいに言葉を切り、自分の徳利をちょっと振ってみて、ずるそうににやりと笑いました。なにか魂胆ありげな表情なのです。そして奥へ顔をむけ、いやらしい猫撫で声を出して、久美子に呼びかけました。

「お久美ちゃん。お銚子をどうぞもう一本」

「はい」

返事をして調理場に入ってゆく久美子の後姿を、猿沢の眼がじっと追っていました。なんだか妙に粘っこい眼付だと、蟹江はすこし厭な気持になりました。厭な気持になる理由が少しはあったのです。そして思わず、ぐふんと鼻を鳴らしました。すると猿沢は急に顔をこちらにむけ、まるで怒ったみたいな表情になり、押しつけるような低声でささやきました。

「君はお久美が好きなんだろ。え、蟹江君」

ちゃんとこちらの名前も知っているのです。蟹江の肩はぴくりと動き、見る見る顔がまっかになりました。それはまったく図星だったからです。すると猿沢はにやりと顔をくずし、押っかぶせるように、わけの判らないことを言いました。

「それじゃ彼女も、二者択一というわけだ」

「それでさっきのメチルのことは――」

蟹江はすっかりどぎまぎして、こんなとんちんかんなことを言いました。そこへ久美子が徳利を持って出てきたものですから、猿沢もにわかに態度をつくろって、それに調子を合わせるような言葉つきになりました。

「僕はアンマだね。まあそういうことだ。ところで君は芸術派なんだろう?」

猿沢の盃にお酌する久美子の小麦色の横顔が、急にまぶしいような気がして、蟹江は黙って眼をぱちぱちさせました。すると猿沢は戸の軋るような声を立てて、意味もなく笑い出しました。その笑い声が、蟹江のかんにさわったのは、勿論のことです。その蟹江の前に、猿沢は右手をにゅっとつき出して、握手を求めるような恰好をしました。

「さあ。これを御縁に、君と友達になることにしよう。いいだろうね、蟹江君」

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