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日の果て
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日の果て
梅崎春生
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 7 of 8

7

宇治は黙って男の分厚な肩を眺めた。そして女を指さした。

「このひとは身寄りかね」

「うん」あいまいな口調であった。「身寄りと言う程でもない」

「知合いか」

「まあそんなもんだ」

「何故一緒に東海岸に行かなかったんだ」

宇治は何かいらだつ気持があって同じ質問を繰り返した。密林の中から風が立つらしく、さああと葉ずれの音が小屋の外にたかまって来た。土間に落ちる光斑がちらちらと赤く乱れた。風が行ってしまうのを黙って聞いていた。男は壁に背をもたせて低い声で言った。

「東海岸って、何処に逃げたって同じさ。おれはもう逃げ廻るのがいやになったんだ。何処に行ったって死ぬときは死ぬさ。おれは此の女と一生此処で暮すよ」

「食糧はどうするんだ」

「食糧などどうでもなるさ。花田さんみたいに逃げたって同じよ。女といちゃつくんなら此処だって出来る」

背筋に粟の立つような嫌悪感が宇治を襲った。それに堪えながら彼は後にさがり、入口の処まで出て来た。土間に垂らした脚を引き上げて、男はきらきら光る瞳をまっすぐに宇治にそそいだ。張った顎のあたりが何か酷薄な感じで宇治に迫って来た。

「あんたも何で花田中尉に用があるのか知らないが、もう追っかけるのは止しにしなさい。逃がしてやっても良いだろう」

「――用があるんだ」宇治は素気なく答えた。

「用はあるだろうさ」ふてぶてしく顎をしゃくった。「もうサンホセの日本軍も近いうちに追いまくられて、東海岸に逃げて行くようなことになるんだ。逃亡兵がぞろぞろ出ているじゃないか。今逃げたって後で逃げたって同じだよ。司令部がもう浮き足立っていると言うじゃないか」

宇治は顔を蒼くして、黙っていた。男の言い方が急に捨て身になって来た理由をはかり兼ねていた。舐めてかかって来たのかと思った。男は太い濁った声で笑い出した。

「あんたも逃げて来た口じゃないのか」

男の顔は笑っていたが眼は険しく笑っていなかったのだ。かっと頬が熱くなり思わず再び進み入ろうとしたとたん、扉口に影がさして高城が戻って来た。高城の掌には拳銃が握られていた。

「花田中尉殿は居られません。あの小屋には誰も居ません。荷物も何もありません」

拳銃が光を受けてきらりと光った。今まで寝ころんでいた狂女がその声に応ずるようにむっくり起き上った。眉をひそめて口汚く罵り始めた。

「助平。畜生。殺してやる。殺してやるから待ってろ」

その瞳はしかし宇治達を見ている訳ではなかった。虚ろに放たれた視線は更に遠くを捕えようとしているらしかった。胸の中に泡立ってたぎり立つものをいきなりねじ伏せると、ふいに宇治は背を向けて小屋の外に歩き出していた。高城は鋭く小屋の中を見廻すと、これも黙って宇治の後を追った。

また道に出た。暫く休んだのでかえって疲労が激しかった。足を引きずる度に骨がぎくぎくと鳴った。風が林を渡って行く。もう歩くのが厭になって、どこでも良いから横になりたかった。

「インタアルは此の方角だな」

インタアルまで出れば、東海岸まで一本道である。何も急ぐことはないにも拘らず、宇治は何故か追われるように歩を進めた。原隊では無論宇治が逃げつつあることをまだ知る訳がない。それなのに宇治の背中は追手をひしひしと感じて粟立ち始めて来たのだ。

既に其処から花田は逃亡していたと、帰って隊長に報告すれば、宇治は原隊に不自然でなく復帰出来るだろう。そして宇治の任務は解き放たれ、事は憲兵の手に移されるだろう。移されたとしても此の混乱では、憲兵の活動は無きに等しい。戦いはその中何らかの形で終結するに決っている。そして花田中尉は或いは生命を全う出来るかも知れない。

(その時この俺はどういうことになるのだ)

勲章を部屋にかざった愚直な隊長や、鐘乳窟の火薬の臭いや、石鹸水のような地酒の味が突然ありありと頭に浮んで来た。彼はその記憶を打消すように強く顔を振った。そこにかえることを想像すれば、そこにはあまりなまぐさい抵抗があり過ぎたのだ。

(あの男は俺を逃げて来た口だろうと言ったが、あれは単に悪まれ口か、それとも俺の態度から何かを嗅ぎ出したのか?)

宇治はよろめいて木の幹に身体をささえた。そしてそのままそこに崩れるようにしゃがんだ。

「高城伍長」彼は苦しそうに呼びかけた。「少し休んで行け」

肩から吊した水筒を外し、栓をとった。強いウィスキイの香が拡がった。口をつけて水筒を傾けた。舌を焼くような液体が咽喉へ落ちて行った。暫くして胃の部分が熱くなり、そしてその熱感はすぐ消え、やがて身体の内側から皮膚にほのぼのとある感覚が拡がって来た。かなり長い間眼を閉じ背を幹にもたせていたが、暫くして眼をぼんやり開いて彼は腕で口の周りを拭き、そして高城に水筒を渡した。

「お前も飲め」

風景が急に生き生きと見えて来た。喬木の梢を風が渡るのが見える。道はうねりながら林の奥に消えていた。此処からは樹群がまばらで木々の長い影が地に落ちていた。疲労が快よい倦怠感に変って行くのがはっきり感じられた。

(あの男は何者だろう?)

マニラから逃げて来たと言うからには、在留邦人の一人かも知れない。態度から見て善良な世渡りをしていたとも思えない。生活力の強そうな感じの男だったが、何故東海岸に逃げようとしないのか。それはまだ食糧をかくし持っているからに違いないのだ。あの否定ぶりが怪しかった。女房でも無い女と何をたのしみにしてあの小屋に留まろうとするのか。

あの狂女の白い肉体が急に激しく宇治の頭に拡がって来た。それと同時に男の卑しげな犬歯の印象がそれに重なった。その印象が意味するものが、今の俺と何の関係があるのか。宇治はそんな風に自分を一度は制しながらも、何か濁った亢奮がそれを超えて胸にひろがって行くのをじっと感じ始めていた。自分の顔が酔いを乗せたまま次第に歪んで行くのが判る。

「高城」

高城も赤く頬を染めていた。宇治は掌をひらひらと動かして、今来た方向を指しながら、はき出すように口を開いていた。

「戻って行って、射ち殺して来い」

どうしても許せない気がしたのだ。狂女の肉体を愉しむ為に東海岸に逃げることをせず、無人の部落に踏み止まっている。しかし俺はその醜悪さを、ほんとに心から憎むのか。はっきりとそう言い切れるのか。宇治は惑乱を感じながら、それを立てなおすように高城の顔に瞳を定めた。高城の表情に何か怪訝の色がふと走ったが、そのまま水筒を彼に返してゆるゆる立ち上った。そして、ためらう風に彼を見おろして立った。

「行って来い!」宇治は言葉を重ねて強めた。

意を決したように高城は背をひるがえして歩き出した。

高城が樹々のかげに見えなくなるまで、宇治はそのままの姿勢でじっと見送って居た。それから膝を両手で抱き、頭を伏せた。あと何分か経つとあの男は殺される。あの男はどこで死んでも運命は同じだというようなことを言ったが、それならば彼にとって宇治は運命であった。自分の恣意によってもう直ぐ一個の生命が絶たれることを思った時、宇治は戦慄に似た快感が胸にのぼって来るのを感じた。その快感も明かに一時的な酩酊にたすけられている。宇治ははっきり意識していた。

(あとで俺は後悔するかも知れない)

破滅するなら早く破滅した方がいい。気持が急速に荒廃に赴くのを感じながら、宇治は顔をぐりぐり膝頭に押しつけた。眼花が暗く入り乱れた。暫く経った。

林の奥から鈍い銃声が一発響いて来た。林に拡がる反響を全身で感じながら、顔を膝におしつけたまま、彼はその瞬間、鈍く湧き起ったある感じにじっと必死に堪えていた。――

それから一時間程経った。二人は黙って不機嫌な顔をして密林の中を歩いていた。酔いはまだ身体の節々に残っていたが、意識は冷たく覚めかかっていた。

道は矢張り僅かな下りである。身体は疲れている癖に何処かとがった処があって、歩いて行くのが大儀であったが、脚を交互に動かしているのが自分の力でないような気もした。黄昏の色が既に樹々の肌に渉み出ていた。今此処で野宿出来るとも思い、それでも歩いた。花田は何処まで行ったのか判らない。そこらの樹の影から現われて来るかも知れない。此の感じは厭であった。自ら鋭い眼付になる。盆地の彼方に今大きな日が没して行くらしく、梢の間に光が蒼然と衰えて行くようだった。道は落葉が層をなし、風の為に葉は次々に梢から散り降りた。前かがみに歩く宇治の後から、高城は声をかけた。

「花田中尉殿に今日中に追いつくのですか」

「それは判らん。追いつけたら追いつく」

暫く経って思い余ったような高城の声があった。

「宇治中尉殿」

宇治はふり返った。五六歩遅れていた高城が足早に追いすがった。

「花田中尉殿にお逢いになったら――」泣き出しそうな表情に見えた。「隊長の命令を、果たしていただけませんか?」

「殺すのか?」

「そうです」

「何故殺すんだ」

高城は唇を噛んだ。

「そうすれば、原隊に戻れます」

幼児のようなひとつの単純な表情がそこにあった。ふと胸打たれ、宇治は思わず涙が流れそうな気がした。宇治は顔を光から背け、黙って歩き出した。

逃亡のもつ切迫感が、宇治の背をするどく脅かしていたとは言え、直接肉体に来る感じとしては、ただ何となく目的もなく果て知らぬ密林に歩をすすめているに過ぎなかった。しかし此の事が自分を救うことであることだけは頭の中で彼は判っているつもりであった。だから自分の為に彼は歩いて来た。今更他の力や瞬間的な感傷のためにそれを曲げることは出来ない。彼は歩を移しながらも一度自分に言い聞かせた。

(今、高城のことで涙が流れそうな気がしても、それで思い止まる位なら、今朝隊長の薄い顱頂を見おろした時の感情で、俺は既に逃亡を思い止まった筈だ)

瞬間の感激のために人々が命を捨てるのを、彼は戦場で何度も眺めて来た。自分がそこに堕ちるのが恐かった。しかし此の度の逃亡もひょっとすると自分の束の間の感傷から出たのかも知れない。サンホセでの一箇月間毎夜逃亡を考えつづけていたような気がするのも、ただあの日々の重苦しさをそう考え違いしただけで、昨夜咄嗟に逃亡を思いついたのではないのか。彼は頭を振ってその思考から逃れようとした。

道は次第に林を離れた。向うに土手があるらしい。土手に向って歩きながら、宇治はふと或る危惧にとらえられた。

(花田と逢った時、高城が花田を射つかも知れない)

彼はふと険しい表情で高城の顔を振り返った。高城は怒ったような顔で見返した。射つなと言うと猶射つ気になるかも知れぬ。花田を殺せば万事解決出来ると高城は思うかも知れないのだ。宇治は咄嗟にそう思い、表情をやわらげて他の事を聞こうとした。

「先刻――一発で殺したのか」

「一発で殺しました」

「何とか言ったか」

「何も言いません」

頑な口調であった。一寸扱いかねる感じだったが、宇治は何か放っておけない気持でなお執拗に言葉をついだ。

「何処を射ったんだ」

「女の頭を、射ちました」

「女?」

宇治は愕然として立ちすくみ斜面へ二三歩よろめいた。道は土手の上まで来ていたのだ。白い薄光が彼の網膜にぼんやりひろがって来た。

河であった。

カガヤン渓谷に連なる一支流であるらしく、磧の中を白い水は泡立ちつつ流れ、果ては夕霧の中に消えていた。視野はことごとく黄昏のいろである。土手から磧にかけて、サンホセの部隊にも咲いていたあの黄色の花が点々と咲き乱れていた。バンカが幾つも岸につながれ、水牛が一頭磧の水溜りに半身を浸し、青く淀んだ水の匂いがふと鼻をうったが、風がごうごうと鳴りながら川瀬の音にまじった。宇治は土手の鼻に立ち、その景観を展望しながら、歯ぎしりしたくなるような焦燥感が胸一ぱいに拡がって来るのを意識した。

(何処かに計算間違いがある)

それは何処で間違っているのかは判らない。どこかで錯綜して居るのだが、その結び目が見つからないのだ。先刻も女を射てとは言わなかった。逃亡の最初から何かしら狂っているのではないか。ことごとく彼の思うようには動いていなかったのだ。彼は顔の皮膚を河風にさらしながら、段々混乱し始めて居た。も少しで判りそうな気持だが、それも一息で踏み込めないのだ。ただ兇い予感がしきりに彼を脅かしつづけた。

Chapter 7 of 8
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