Chapter 1 of 7

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崩れる鬼影

海野十三

月光下の箱根山

それは大変月のいい夜のことでした。

七月の声は聞いても、此所は山深い箱根のことです。夜に入ると鎗の穂先のように冷い風が、どこからともなく流れてきます。

「兄さん。今夜のようだと、夏みたいな気がしないですネ」

「ウン」兄は真黒い山の上に昇った月から眼を離そうともせず返事をしました。

兄はなにか考えごとを始めているように見えました。兄の癖です。兄は理学士なのですが、学校の先生にも成らず、毎日洋書を読んだり、切抜きをしたり、さもないときは、籐椅子に凭れ頭の後に腕を組んでは、ぼんやり考えごとをしていました。なんでも末は地球上に一度も現れたことの無い名探偵になるのだということです。探偵名を帆村荘六といいます。

「民ちゃん、御覧よ」と兄が突然口を切りました。空を指しています。「あの綺麗な月はどうだい」

「いいお月様ですね」

「東京では、こんな綺麗な月は見られないよ。箱根の高い山の上は、空気が濁っていないから、こんなに鮮かに見えるのだよ」

「今夜は満月でしょう」

「そうだ、満月だ。月が一番美しく輝く夜だ。まるで手を伸ばすと届くような気がする。昔嫦娥という中国人は不死の薬を盗んで月に奔ったというが、恐らくこのような明るい晩だったろうネ」

私は嫦娥などという中国人のことなどはよく知らないのですが、しかしお月様の中に棲んでいるという白兎が、ピョンと一跳ねして、私の足許へ飛んできそうな気がしました。

「だが向うの森を御覧」と兄は又別のことを云いだしました。「あの森蔭の暗いことはどうだ。あまり月が明るいので、却ってあんなに暗いのだ」

「なんだか化物がゾロゾロ匍いまわっているようですね」

そうは云ってしまったものの、私は失敗ったと思いました。何という気味のわるいことを口にしたのでしょう。俄かに襟元がゾクゾクしてきました。

「ほんとに神秘な夜だ。東京にいては、こんなに月の光や、星のことなどを気にすることはないだろう。こんな高い山の頂きにいると空の化物に攫われてしまいそうな気がしてくる」

私は先程の元気も嬉しさもが、いつの間にか凋んでしまったのに気がつきました。ザワザワと高く聳えている杉の梢が風をうけて鳴ります。天狗颪のようです。なんだか急に、目に見えぬ長い触手がヒシヒシと身体の周りに伸びてくるような気がしてきました。私はいつの間にか、兄の袂をしっかり握っていました。

丁度そのときです。

微かながら、絹を裂くような悲鳴が――多分悲鳴だと思ったのですが――遠く風に送られ何処からか響いたように感じました。

「呀ッ!」

と私は口の中で呟きました。たしかに耳に聞えました。気のせいにしては、あまりに鮮かすぎます。

誰か来て下さい――といっているようにも思われる救いを求める声が、間もなく続いて聞えて来ます。魂ぎるような悲鳴です。月明の谿々に、響きわたるさまは、何というか、いと物すさまじい其の場の光景でした。私の足は、もう云うことをきかなくなって、棒のように地上に突き立ったまま、一歩も進みません。細かい震えが全身を襲って、止めようとしても止りません。

「誰か呼んでいるぜ」兄は立ち止ると、両掌を耳のうしろに帆のようにかって、首をグルグル聴音機のように廻しています。

「兄さん、兄さん」

「おおッ、こっちだ」兄はハッと形を改めて私の手を握りました。「たしかにあの家らしい。民ちゃん、さあ行ってみよう」

そういうなり兄の荘六は、私の手をひいたままひた走りに走り出しました。私も仕方なしに走りました。白い山道に、もつれ合った怪しい影が踊ります。二人の影です。

満月の夜だったことをハッキリと後悔しました。せめて月が無ければ、こんなにまで荒涼たる風光に戦慄することはなかったでしょう。

一体なにごとが起ったのでしょう?

飛びゆく怪博士

悲鳴のする家は、漸くに判りました。それは、向うに見えている大きい洋館でありました。二階の窓が開いて、何だか白い着物を着た女の人らしいものが、両手を拡げて救いを求めているようです。

「どこからあの家へ行けるんだろう」と兄が疳高い声で叫びました。

「ほら、あすこに門のようなものが見えていますよ」と私は道をすこし上った坂の途中に鉄の格子の見えるのを指しました。

「うん。あれが門だな。よォし、駈け足だッ」

私達二人は夢中で草深い坂道を駈けあがりました。

「門は締っているぞ」

「どうしましょう」押しても鉄の門はビクとも動きません。

「錠がかかっている。面倒だが乗り越えようよ。それッ」

二人はお互に助けあって、鉄柵を飛び越えました。下は湿っぽい土が砂利を噛んでいました。私はツルリと滑って尻餅をつきましたが、直ぐにまた起上りました。

「オヤッ」

先頭に立っていた兄が、何か恐いものに怯えたらしく、サッと身を引くと私を庇いました。兄は天の一角をグッと睨んでいます。私は何事だろうと思って、兄の視線を追いました。

「おお、あれは何だろう?」

私は思わず早口に独言を云いました。ああそれは何という思いがけない光景を見たものでしょうか。何という奇怪さでしょう。向うから白い服を着た男が、フワフワと空中を飛んでくるのです。それは全く飛ぶという言葉のあてはまったような恰好でした。私は何か見違いをしたのだろうと思いかえして、両眼をこすってみましたが、確かにその人間はフワリフワリと空中を飛んでいるのです。だんだんと其の怪しい人間は近づいて来ます。私は兄の腰にシッカリ縋りついていましたが、恐いもの見たさで、眼だけはその人間から一刻も離しませんでした。

「民ちゃん、恐くはないから、我慢をしているのだよ」と兄は私の肩を抱きしめて云いました。「じッと動かないで見ているのだ。じッとしてさえ居れば、あいつは気がつかないで、僕たちの頭上を飛びこして行っちまうだろう」

「うん。うん」

私はやっと腹の底からその短い言葉を吐きだしました。そのときです。怪しい人間が頭上五メートルばかりのところを、フワフワと飛び越しました。人間が飛ぶなんて、出来ることでしょうか。飛び越されるときに、なおもハッキリ下から見上げましたが、その怪しい人間は、寝台の上に乗ったように身体が横になっていました。手足はじっとしています。別に動かしもしないのに、宙を飛んでいるのです。どんな顔をしているかと見ましたが、生憎顔が上を向いているので、下からはよく見えません。しかし白い服と思ったのは、お医者さまがよく着ている手術着のようなものでした。

兄と私は、こんどは後から伸びあがって、飛んでゆく人の姿を見つめていました。白衣の人は、尚もフワフワと飛びつづけてゆきます。そしてだんだん高く昇ってゆきます。深い谿が下にあるのも気がつかぬかのようにそこを越えて、やがて向うの杉の森の上あたりで姿は見えなくなってしまいました。私達は悪夢から覚めたように、呆然と立ちつくしていました。

「不思議だ、不思議だ」

兄は低く呟いています。

そこへバタバタと跫音がして、年とった婦人が駈けてきました。さっき窓から半身を乗りだして救いを呼んでいたのは、この婦人でしょう。家の中からとびだして来たものです。

「ああ、貴方がた、主人はどこへ行ってしまったでしょう」

老婦人は紙のように蒼白な顔色をしていました。両手をワナワナと慄わせながら、兄の胸にとびついて来ました。

「奥さん、しっかりなさい」と兄は老婦人の背をやさしく撫でて言いました。

「あれは御主人だったのですか。向うの方へゆかれましたが、追駈けてももう駄目です」

「駄目でしょうか」婦人は力を落して、ヘナヘナと地上に膝をつきました。兄は直ぐに気がついて助け起しました。

「さあ奥さん。こうなれば私達は落付きをとりかえさなければなりません。詳しいお話をうかがうことによって、一番いい方法が見つかることでしょう。しっかり気をとりなおして、一伍一什を話して下さい」

「ああ、恐ろしい――」老婦人は顔に両手を当てると、何を思い出したのか、ワッと泣き出しました。

「奥さん、お家の中へお送りしましょう」

「ああ、家の中ですか。いえいえそれはいけません。家の中には、まだ恐ろしい魔物が居るにきまっています。貴方がたもきっと喰われてしまいますよ。ああ、恐ろしい……」

「魔物ですって?」兄はキッとなって老婦人の顔を見つめました。「魔物って、どんな魔物なんです」

「そいつは鬼です。あの窓のところに、その魔の影が映りました。あれは人間でも猿でもありません。しかし何だか判らないうちにその鬼の形がズルズルと崩れてしまったのです。崩れる鬼の影――ああ、あんな恐ろしいものは、まだ見たことが無い」

崩れる鬼影!

老婦人は一体どんなものを見たのでしょう。空を飛んでいった手術着の人は、どこへ行ってしまったのでしょう。

怪事件の顛末

家の中に三人が入ってみますと、別に何の物音もしません。まるで地底の部屋のように静かです。

老婦人はベッドの上に、暫く寝かして置きました。私は兄に命ぜられて、老婦人のそばについていました。兄さんはソッと部屋を出てゆきました。きっと二階の方に、事件のあとを探しに行ったのに違いありません。

老婦人はベッドの上に、静かに目を閉じて睡っています。呼吸も大変穏かになって来ました。やっと気が落付いてきたものと見えます。二階では、コツコツと跫音がしています。兄が廊下を歩いているのでしょう。

「ああ――」

老婦人は、一つ寝返りをうちました。そのときに両眼を天井の方に大きく開きました。

「ああ、うちの人は帰って来たのかしら」

「いいえ、あれは私の兄ですよ」

老婦人は急に恐ろしい顔になって、私の方を向きました。

「兄さんですって――」

「二階へ調べに行っています」

「二階へ? そりゃいけません。恐ろしい魔物にまた攫われますよ。危い、危い。さ、早くわたしを二階へ連れていって下さい」

そのときでした。俄かに二階で、瀬戸物をひっくりかえしたようなガチャンガチャンという物音が聞えてきました。つづいてドーンと床を転がるような音がします。

「民夫! 民夫! 早く来てくれッ」

兄の声です。兄が呶鳴っています。とても悲痛な叫び声です。今までにあんな声を兄が出したことを知りません。恐ろしい一大事が勃発したに違いありません。

私は老婦人の傍から立ち上ると、室の扉を蹴って飛び出しました。入口を出ると、そこには二階へ通ずる幅の広い階段があります。何か組打をしているらしい騒々しい物音が、その上でします。私は階段を嘗めるようにして駈けのぼりました。

「兄さーん」

二階の廊下を走りながら叫びました。

「兄さんッ」

ところが俄かにハタと物音がしなくなりました。さあ心配が倍になりました。いままで物音のしていたと思われる室の扉をグッと押しましたが開きません。

「うーッ」

変な呻り声が、内部から聞えます。正しくこの部屋です。

私は身体をドンドン扉にぶつけました。ぶつけて見て判ったことです。扉には鍵がかかっているのだろうと思ったのに、そうではないらしいです。何か向うに机のようなものが転がっていて、それが扉の内部から押しているらしいです。それならば、力さえ籠めれば開くだろうという見込がつきました。

ドーン。

ガラガラと扉が開きました。

部屋の中へ飛びこんでみますと、そこは図書室のようでもあり、何か実験をしている室でもあるらしく、複雑な器械のようなものが、本棚の反対の側に置いてあり、天体望遠鏡のようなものも見えます。しかし肝心の兄の姿が見えません。

(攫われたのかナ)

私はハッと胸をつかれたように感じました。

「兄さーん!」

うーッ、うーッというような呻り声が突然聞えました。呻り声のするのは、意外にも私の頭の上の方です。私は駭いて背後にふりかえると、天井を見上げました。

「ややッ――」

私はその場に仆れんばかりに吃驚しました。兄が居ました。たしかに兄が居ました。しかし何という不思議なことでしょう。兄は天井に足をついて蝙蝠のように逆さまにぶら下っているのです。頭は一番下に垂れ下っていますが、私の背よりもずっと高くて手がとどきません。兄の顔は、熟柿のように真赤です。両手は自分の顔の前で、蟹の足のように、開いたまま曲っています。何物かを一生懸命に掴んでいるようですが、別に掴んでいる物も見えません。口をモグモグやっていますが、言葉は聞えません。何者かに締めつけられているような恰好です。どうしたらいいだろう。

Chapter 1 of 7