Chapter 1 of 4

1

西湖の屍人

海野十三

銀座裏の酒場、サロン船を出たときには、二人とも、ひどく酩酊していた。

私は私で、黄色い疎らな街燈に照らしだされた馴染の裏街が、まるで水の中に漬っているような気がしたし、帆村のやつは帆村のやつで、黒いソフトを名猿シドニーのように横ちょに被り、洋杖がタンゴを踊りながら彼の長い二本の脛をひきずってゆくといった恰好だった。

私はそれでも、ロマンチストだから構わないようなものの、かれ帆村なるものは、商売が私立探偵ではないか。帽子の天頂から靴の裏底まで、およそリアリズムであるべきだった。しかるに今夜、彼はそれ等の特徴を見事ふりおとして、身体中が隙だらけであるかのように見えた。もし彼に怨恨のある前科者どもが、短刀逆手に現われたとしたらどうするだろうと、私は気になって仕方がなかった。

すると、背後から大声でもって、警告してやりたい程、矢鱈無性に不安に襲われた。この嘔気のようにつきあげてくる不安は、あながち酩酊のせいばかりでは無いことはよく判っていた。近代の都市生活者の九十九パーセントまでが知らず識らずの間に罹っているといわれる強迫観念症の仕業にちがいないのだ。

帆村が蹣跚めくのを追って、私が右にヨタヨタと寄ると、帆村は意地わるくそれと逆の左の方にヨロヨロと傾いてゆくのだった。銀座裏は時刻だから、いたずらに広々としたアスファルトの路面がのび、両側の家はヒッソリと寝しずまり、さまざまの形をした外燈が、半分夢を見ながら足許を照らしていた。

酔っ払いにとって、四ツ角は至極懐しいものである。三間先のコンクリート壁体を舐めるようにして歩いていた帆村は、四ツ角を見付けると嬉しそうに両手をあげ、まるでゴールのテープを截るような恰好をして、蹣跚けていった。そのとき私は後からそれを眺めていて、急にハッとしたのだった。

――その四ツ角へ、別の横丁から、おかしな奴がノコノコやってくる!

その姿は、本当には薩張り見えないのだ。それにも拘らず、見えない横丁に歩いている人間の姿が見えたような気がした。いや、矢張りハッキリと見えたのだ。それは不思議なようで、別に不思議はないことだ。私達のように永年都会に棲んで、極度に神経を敏感以上、病的に削られている者は、別に特殊な修練を経ないでも、いつの間にか、ちょっとした透視ぐらいは出来るようになっているのだった。これはいつも、そういう話の出たときに、私の言う話であるが、試みに諸君は身体の調子のよいときに、ポケットの懐中時計をソッと掌のうちに握って、

(はて、いま何時何分かなァ――)

と考えてみたまえ、すると目の前に、白い時計の文字盤が朦朧とあらわれ、短い針と長い針の傾きがアリアリと判るのだ。そうして置いて、掌を開き、本当の文字盤を見る。果然! 一分と違わず二つは一致している――これでも諸君は信じないというか?

四ツ角では、帆村ともう一人の黒い影とが、縺れあっているのだった。

私は、応援してやりたい気持一杯で、ペイブメントを蹴って駈けだしたのであるが、駈けるというよりは、泳ぐというに近かった。

「ぼぼぼ僕は、いいい生きているでしょうか」

と帆村の前に立つ怪しの男が、熱心に尋ねている。

帆村は、その男に胸倉をとられたまま、

「ウウ、ううウ」

と低く呻っているばかりだった。

「ちょいと、僕の身体を触ってみてください。この辺を触ってみて下さい」

泣かんばかりに彼の男は喚くのであった。そして帆村を離すと、ベリベリと音をさせて、われとわがワイシャツを裂きその間から屍のように青白い胸部を露出させた。私は、初めてその男の姿をマジマジと観察したのだったが、思ったよりは遙かに、若い男だった。年齢のころは二十四五でもあろうか。だが非常に憔悴していた。皮膚には一滴の血の気もなく下瞼がブクリと膨れて垂れ下り、大きな眼は乾魚のように光を失っていた。

「きみは、おおお面白いことを云う」帆村が口のあたりについている涎らしいものを手の甲で拭い乍ら云うのであった。

「生きているかァ? ウンここにあるのは、きみィの胸ではないか、だッ」

帆村は腰をかがめ、指先を自分の眼の前にチラチラふるわせて云った。

「では、僕の手を握ってください」

「よオし、握った」

帆村はよろけながら、怪青年の手を執った。

「その手は、僕の身体に繋っているでしょうか」

「ばば馬鹿なことを云いたまえ。ついていなくて、どうするものかッ」

「僕が喋るときには、この唇が動いているでしょうか」

「なに、唇が……。パクン、パクンあいたり、しまったりしてるじゃねえか、こいつひとを舐めやがって」

帆村は、気合をかけると、

「ええいッ」

と青年の頭をガーンと、どやしつけた。

青年は痛そうな顔一つしない。

が、彼はたちまち恐怖の色を浮べて喚きだした。

「おお憎むべき幻影よ。わが前より消えてなくなれ。消えてなくなれ!」

彼は両眼をカッと見開き、この一見意味のない台辞を嘔きちらしていたが軈てブルブルと身震いをすると、パッと身を飜して駈け出した。

「それッ、逃がすな!」

と叫んだ帆村の声は、いつの間にか普段の、あの胸のすくような名調子に変っていた。

「よオし、掴えてやる!」

と私は呶鳴った。

(これは冗談ごとではなくて、なにか事件かもしれない)私の酔いは、やっと醒めかかった。

私は兵士のように身を挺して、怪青年の背後に追いすがった。右の肘をウンと伸すと、運よく彼の肩口に手が触れた。勇躍。

「ヤッ!」

と飛びかかった。

「無念!」

ひっぱずされて(酒精の祟りもあって)身体が宙にクルリと一回転した揚句、イヤというほど腰骨をうちつけた。じっと地面にのびているより外に仕方がなかった。帆村が勇敢にも私の身体を飛び越えて、追駈けていったのがぼんやりわかった。だが、こっちは全身がきかないのだ。どこに自分の腕があり、どこに自分の足があるのだか、皆目見当がつかなかった。気がついたのは――此際呑気な話であるが――なにかしら、馥郁たる匂とでもいいたい香が其の辺にすることだった。

(麝香というのは、こんな匂いじゃないかしら)

そんな風なことを思いながら、夢をみているような気持だった。

突然、意識が鮮明になった。朝霧が風に吹きとばされて、あたりが急に明るく晴れてゆくように……。

(こんなものを、頭から被ってたじゃないか)

私は、真黒い布を、顔からとりのけて、上半身を起した。真黒い布と思ったのは、洋服の上衣だった。

(そうだ。怪しい男を掴えたっけが、彼奴の上衣なのだ!)

怪しい香も、その上衣から発散することが判ってきた。それにしても、いい匂いだが、なんという異国情調的な香なんだろう。私の手は無意識に伸びて、その上衣のポケットを、まさぐっていた。

(おお、なんだか、入っているぞ!)

掌に握れるほどの大きさのものだった。出してみた。透かしてみた。そして撫でまわしてみた。何だか壜のようだ。

突如! 近くで私の名を呼ぶ声がする。私はムックリ起上った。

横丁をすりぬけて、飛鳥のように駈出してゆく人影! やッ、彼奴だ! 彼奴が引返してきたのだ!

そのあとからバラバラと追ってきたのは、帆村だった。

「元気をだせ! 走れ、早く!」

と帆村は私の方に投げつけるように叫んで、怪人物の跡を追った。そのあとから、真夜中ながら弥次馬のおしよせてくる気配がした。私は弥次馬に追越されたくなかったので、驀地に駈けだした。今度は大丈夫走れるぞと思った。

その鼠のような怪青年は、目にとまらぬ速さで逃げまわった。街燈が黄色い光を斜になげかけている町角をヒョイと曲るたびに、

「ソレあすこだ!」

と、怪青年の黒影が、ぱッと目に入るだけだった。私達と弥次馬とは、ずっと間隔ができてしまった。そして、いつの間にか、丸の内寄りの、濠ちかくまで来ているのに気がついた。

「あッ、しめた。袋小路へ入ったぞ。彼奴が、ひっかえしてくるところを抑えるんだッ」

帆村の声に、私は最後の五分間的な力走をつづけた。果然その袋小路の入口へきた。

「待て!」

帆村は、その入口に忍びよると、倒れるように地に匍ってそッと下の方から、袋小路をのぞきこんだ。

三十秒、四十秒、五十秒、帆村は動かない。

三分も経ってから、帆村は塵を払って立ちあがった。彼は私の耳許で囁いた。

コートの襟を立て、巻煙草を口にくわえた酔漢が二人、腕を組みあって、ノッシ、ノッシと、袋小路に紛れこんだ――勿論、帆村と私とだった。

その袋小路は、ものの五十メートルとなかった。両側に三軒ずつの家があった。右側は、みな仕舞屋ばかりで、すでに戸を締めている。左側は表通りと連続して、古い煉瓦建の三階建があって、カフェをやっているらしく、ほの暗い入口が見える。その奥は、がっちりした和風建築の二階家で、これも戸が閉まっている。この袋小路のつきあたりは、お濠だった。

そんなわけで、起きているのはカフェばかりだった。

私達は、カフェ・ドラゴンとネオンサインで書かれてある入口を覗いてみた。

「まア、いい御気嫌ね、ホホッ」

誰も居ないと思った入口の、造花の蔭に女がいた。僕は帆村の腕をキュッと握りしめて緊張した。

「君、君ンとこは、まだ飲ませるだろうな」

「モチよ、よってらっしゃい」

「おいきた。友達甲斐に、もう一軒だけ、つきあってくんろ、いいかッ」

帆村が、私の顔の前で、酔払いらしくグニャリとした手首をふった。私にはその意味がすぐわかったのだった。

入口へ入ろうとすると、

「おッとっとッ」

急に帆村は、私の腕をもいで、つかつかとお濠端まででると、前をまくって、シャーシャー音をたてて小便をした。帆村のやつ、小便にかこつけて、お濠の形勢を窺っていることは、私にはよく判った。

入ってみると、そこは何の変哲もないカフェだった。広いと思ったのは、表だけで、莫迦に奥行のない家だった。帆村は先登に立って、ノコノコ三階まで上った。各階に客は四五人ずついたが、私達の探している相手らしいものの姿は、どこにも見当らなかった。

「なに召上って?」

入口にいた女給が、三階までついてきた。

「ビールだ。で、君の名前は?」

「マリ子って、いうわ、どうぞよろしく」

イートン・クロップのお河童頭がよく似合う子だった。前髪が、切長の涼しい眼とスレスレのところまで垂れていた。なによりも可愛いのは、その、発育しきらないような頤だった。

「おいマリちゃん」すかさず帆村が、彼女の名を呼んだ。「ここ、特別室があるんだろう。地下室か、なんかに、そこへ案内しろよ」

「地下室なんて、ないわよ。この三階がスペシャルなんじゃないの、ホホッ」

と、やりかえして、マリ子は下へ降りていった。

煙草の箱を探そうと思ってポケットへつきこんだ指先に、カチリと硬い物が当ったので、私は思いだした。

「おい、戦利品だ」私は、帆村の脇腹をつついて置いてから例の男の上衣から失敬したものを、卓子の下にソッと取り出した。

「なんだか、薬壜のようだネ」万事を了解したらしい様子の帆村が、低声で云った。

「レッテルが貼ってある。ボラギノール」と私は辛うじて、薬の名を読んだ。

「ボラギノールって、痔の薬じゃないか」

帆村は、謎々の新題にぶつかったような顔付をして、一寸首を曲げた。

そこへマリ子がバタバタ階段をあがってくる気配がしたので、私は帆村に、あとを聞いてみる余裕もなく、その薬壜をまた元のポケットに収いこんだ。

小石川の音羽に近く、鼠坂という有名な坂があった。その坂は、音羽の方から、小日向台町の方へ向って、登り坂となっているのであるが、道幅が二メートルほどの至って狭い坂だった。登り口のところではそうでもないが、三丁ほど登ったところで、誰もがこの坂にかかったことを後悔するであろう。それというのが、この名うての坂は、そのあたりから急に傾斜がひどくなって、足が自然に動かなくなる。そのうえに、路がだんだん泥濘ってきて、一歩力を入れてのぼると、二歩ズルズルと滑りおちるという風だった。それを傍の棒杭に掴ってやっと身体を支え、ハアハア息を切るのだった。気がついてあたりを見廻わすと、こわそも如何に、高野山に紛れこんだのではないかと駭くほど、杉や欅の老樹が太い幹を重ねあって亭々と聳え、首をあげて天のある方角を仰いでも僅か一メートル四方の空も見えないのだった。そして急に冷え冷えとした山気のようなものが、ゾッと脊筋に感じる。そのとき人は、その急坂に鼠の姿を見るだろう。その鼠は、あの敏捷さをもってしても、このぬらぬらした急坂を駈けのぼることができないで、徒にあえいでいる――これが鼠坂という名のついたいわれであった。

Chapter 1 of 4