Chapter 1 of 4

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爬虫館事件

海野十三

前夜の調べ物の疲れで、もう少し寝ていたいところを起された私立探偵局の帆村荘六だった。

「お越し下すったのは、どんな方かね」

「ご婦人です」助手の須永が朗らかさを強いて隠すような調子で答えた。「しかも年齢の頃は二十歳ぐらいの方です」

(なにが、しかもだ)と帆村はパジャマの釦を一つ一つ外しながら思った。この手でも確かに目は醍る。……

「十分間お待ちねがうように申上げて呉れ」

「はッ。畏まりました」

須永はチョコレートの兵隊のように、わざと四角ばって、帆村の寝室を出ていった。

隣りの浴室の扉をあけ、クルクルと身体につけたものを一枚残らず脱ぎすてると、冷水を張った浴槽へドブンと飛び込み、しぶきをあげて水中を潜りぬけたり、手足をウンと伸したり、なんのことはない膃肭獣のような真似をすること三分、ブルブルと飛び上って強い髭をすっかり剃り落すのに四分、一分で口と顔とを洗い、あとの二分で身体を拭い失礼ならざる程度の洋服を着て、さて応接室の内扉をノックした。

応接室の函のなかには、なるほど若い婦人が入っていた。

「お待たせしました。さあどうぞ」と椅子を進めてから、「早速ご用件を承りましょう」

「はァ有難とう存じます」婦人は帆村の切り出し方の余りに早いのにちょっと狼狽の色を見せたが、思いきったという風で、黒眼がちの大きい瞳を帆村の方に向け直した。その瞳の底には言いしれぬ憂いの色が沈んでいるようであった。「ではお話を申しあげますが、実は父が、突然行方不明になってしまったんでございます――。昨日の夕刊にも出たのでございますが、あたくしの父というのは、動物園の園長をして居ります河内武太夫でございます」

「ああ、貴女が河内園長のお嬢さんのトシ子さんでいらっしゃいますか」帆村は夕刊で、憂いに沈む園長の家族として令嬢トシ子(二〇)の写真を見た記憶があった。その記事は社会面に三段抜きで「河内園長の奇怪な失踪・動物園内に遺留された帽子と上衣」といったような標題がついていたように思う。

「はァ、トシ子でございます」と美しい眼をしばたたき、「ご存知でもございましょうが、私共の家は動物園の直ぐ隣りの杜の中にございまして、その失踪しました十月三十日の朝八時半に父はいつものように出て行ったのです。午前中は父の姿を見たという園の方も多いのでございますが、午後からは見たという方が殆んどありません。お午餐のお弁当を、あたくしが持って行きましたが、それはとうとう父の口に入らなかったのでした。正午にも事務所へ帰ってこないことを皆様不思議に思っていらっしゃいましたが、父は大分変り者の方でございまして、気が変るとよく一人でブラリと園を出まして、広小路の方まで行って寿司屋だのおでん屋などに飛び込み、一時半か二時にもなってヒョックリ帰園いたしますこともございますので、その日も多分いつもの伝だろうと、皆さん考えておいでになったのです。しかし閉園時間の午後五時になっても帰って参りません。たまにはずっと街へ出掛けて夜分まで帰らないこともありますが、その日は事務室に帽子もあり上衣も残って居ますので、いつもとは少し違うというので、西郷さん――この方は副園長をしていらっしゃる若い理学士です――その西郷さんがお帰りにうちへお寄り下すって、『園長の例の病気が始まった様ですよ』と注意をしていって下さいました。ところが其の夜は、とうとう帰って参りません。夜遅くなることはありましても、たとい一時になっても二時になっても帰ってくる父です。それが帰って来ないのですから、どうしたことだろうと母も私共も非常に心配しています。園内も調べていただきましたが判りません。警察の方へも捜索方をお願いいたしましたが、『別に死ぬ動機も無いようだから今夜あたり帰って来られますよ』と云って下さいました。しかし私共は、なんだか其の儘では、じっと待っていられないほど不安なのでございます。万一父が危害を加えられてでもいるようですと、一刻も早く見付けて助け出したいのでございます。それで母と相談をして、お力を拝借に上ったわけなのでございます。どう思召しましょうか、父の生死のほどは」

トシ子嬢は語り終ると、ほんのり紅潮した顔をあげて、帆村の判定を待った。

「さあ――」と帆村は癖で右手で長くもない顎の先をつまんだ。「どうもそれだけでは、河内園長の生死について判断はいたしかねますが、お望みとあらば、もう少し貴女様からも伺い、その上で他の方面も調べて見たいと思います」

「お引受け下すって、どうも有難とう存じます」トシ子嬢はホッと溜息をついた。「何なりとお尋ねくださいまし」

「動物園では大いに騒いで探したようですか」

「それはもう丁寧に探して下すったそうでございます。今朝、園にゆきまして、副園長の西郷さんにお目に懸りましたときのお話でも、念のためと云うので行方不明になった三十日の閉門後、手分けして園内を一通り調べて下すったそうです。今朝も、また更に繰返して探して下さるそうです」

「なるほど」帆村は頷いた。「西郷さんは驚いていましたか」

「はァ、今朝なんかは、非常に心配して居て下さいました」

「西郷さんのお家とご家族は?」

「浅草の今戸です。まだお独身で、下宿していらっしゃいます。しかし西郷さんは、立派な方でございますよ。仮りにも疑うようなことを云って戴きますと、あたくしお恨み申上げますわ」

「いえ、そんなことを唯今考えているわけではありません」

帆村は今時珍らしい、日本趣味の女性に敬意と当惑とを捧げた。

「それから、園長はときどき夜中の一時や二時にお帰宅のことがあるそうですが、それまでどこで過していらっしゃるのですか」

「さァそれは私もよく存じませんが、母の話によりますと、古いお友達を訪ねて一緒にお酒を呑んで廻るのだそうです。それが父の唯一の道楽でもあり楽しみなんですが、それというのもそのお友達は、日露戦役に生き残った戦友で、逢えばその当時のことが思い出されて、ちょっとやそっとでは別れられなくなるんだということです」

「すると園長は日露戦役に出征されたのですね」

「は、沙河の大会戦で身に数弾をうけ、それから内地へ送還されましたが、それまでは勇敢に闘いましたそうです」

「では金鵄勲章組ですね」

「ええ、功六級の曹長でございます」応えながらも、こんなことが父の失踪に何の関係があるのかと、トシ子は探偵の頭脳に稍失望を感じないわけにゆかなかった。

しかし最後へ来て、この些細らしくみえるのが、事件解決の一つの鍵となろうとは二人もこの時は夢想だもしなかった。

「園長はそんなとき、帽子も上衣も着ないでお自宅にも云わず、ブラリと出掛けるのですか」

「そんなことは先ずございません。自宅に云わなくとも、帽子や上衣は暖いときならば兎に角、もう十一月の声を聞き、どっちかと云えば、オーヴァーが欲しい時節です。帽子や洋服は着てゆくだろうと思いますの」

「その上衣はどこにありましょうか。鳥渡拝見したいのですが……」

「上衣はうちにございますから、どうかいらしって下さい」

「ではこれから直ぐに伺いましょう。みちみち古い戦友のことも、もっと話して戴こうと思います」

「ああ、半崎甲平さんのことですか?」トシ子嬢は、父の戦友の名前を初めて口にしたのだった。

園長邸を訪ねた帆村は心痛している夫人を慰め、遺留の上衣を丹念に調べてから何か手帖に書き止めると、外に園長の写真を一葉借り、園長の指紋を一通り探し出した上で地続きの動物園の裏門を潜ったのだった。

西郷という副園長は、すぐ帆村に会ってくれた。あの西郷隆盛の銅像ほど肥えている人ではなかったが、随分と身体の大きい人だった。

「園長さんが失踪されたそうで御心配でしょう」

と帆村は挨拶をした。「一体いつ頃お気がつかれたのですか」

「全く困ったことになりましたよ」巨漢の理学士は顔を曇らせて云った。「いつ気がついたということはありませんが、不審をいだいたのは、あの日の正午過でしょう。園長が一向食事に帰ってこられませんでしたのでね」

「園長は午前中なにをしていられたのです」

「八時半に出勤せられると、直ぐに園内を一巡せられますが、先ず一時間懸ります。それから十一時前ぐらい迄は事務を執って、それから再び園内を廻られますが、そのときは何処ということなしに、朝のうちに気がつかれた檻へ行って、動物の面倒をごらんになります。失踪されたあの日も、このプログラムに別に大した変化は無かったようです」

「その日は、どの動物の面倒を見られるか、それについてお話はありませんでしたか」

「ありませんでしたね」

「園長を最後に見たという人は、誰でした」

「さあ、それは先刻警察の方が来られて調べてゆかれたので、私も聞いていましたが、一人は爬虫館の研究員の鴨田兎三夫という理学士医学士、もう一人は小禽暖室の畜養主任の椋島二郎という者、この二人です。ところが両人が園長を見掛けたという時刻が、殆んど同じことで、いずれも十一時二十分頃だというのです。どっちも、園長は入って来られて二三分、注意を与えて行かれたそうですが、其の儘出てゆかれたそうです」

「その爬虫館と小禽暖室との距離は?」

「あとで御案内いたしますが、二十間ほど距った隣り同士です。もっとも其の間に挟ってずっと奥に引込んだところに、調餌室という建物がありますが、これは動物に与える食物を調理したり蔵って置いたりするところなんです。鳥渡図面を描いてみますと、こんな工合です」

そういって西郷理学士は、鉛筆をとりあげると、爬虫館附近の見取図を描いてみせた。

「この二十間の空地には何もありませんか」

「いえ、桐の木が十二本ほど植っています」

「その調理室へ園長は顔を出されなかったんでしょうか」

「今朝の調べのときには、園長は入って来られなかったと云っていました」

「それは誰方が云ったんです」

「畜養員の北外星吉という主任です」

「園長がいよいよ行方不明と判った前後のことを話していただけませんか」

「よろしゅうございます。閉園近い時刻になっても園長は帰って来られません。見ると帽子と上衣は其儘で、お自宅から届いたお弁当もそっくり其儘です。黙って帰るわけにも行きませんので、畜養員と園丁とを総動員して園内の隅から隅まで探させました。私は園丁の比留間というのを連て、猛獣の檻を精しく調べて廻りましたが異状なしです」

「素人考えですがね、例えば河馬の居る水槽の底深く死体が隠れていないかお検べになりましたか」

「なる程ご尤もです」と西郷副園長は頷いた。「そういう個所は、多少の準備をしなければ検べられませんので直ぐには参りませんでしたが、今日の午後には一つ一つ演っているのです」

「そりゃ好都合です」と帆村探偵が叫んだ。「すぐに、私を参加させていただきたいのですが」

西郷理学士は承諾して、卓上電話機を方々へかけていたが、やっとのことで、捜索隊がこれから爬虫館の方へ移ろうというところだと解ったので、その方へ帆村を案内して呉れることになった。

白い砂利の上に歩を運んでゆくと、どこからともなく風に落葉が送られ、カサコソと音をたてて転がっていった。もう十一月になったのだ。杜蔭に一本鮮かな紅葉が、水のように静かな空気の中に、なにかしら唆かすような熱情を溶かしこんでいるようだった。帆村は、ちょっと辛い質問を決心した。

「園長のお嬢さんは、まだお独身なんですかねエ」

「え?」西郷氏は我が耳を疑うもののように聞きかえした。

「お嬢さんはまだ独身です。探偵さんは、いろんなことが気に懸るらしいですね」

「私も若い人間として気になりますのでね」

「こりゃ驚いた」西郷理学士は大きな身体をくねらせて可笑しがった。「僕の前でそんなことを云ったって構いませんが、鴨田君の前で云おうものなら、蟒を嗾しかけられますぜ」

「鴨田さんていうと、爬虫館の方ですね」

「そうです」と返事をしたが、西郷氏はすこし冗談を云いすぎたことを後悔した。「ありゃ学校時代の同級生なので、有名な真面目な男だから、からかっちゃ駄目ですよ」

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