死人の腕
小林紋三はフラフラに酔っ払って安来節の御園館を出た。不思議な合唱が――舞台の娘たちの死物狂いの高調子と、それに呼応する見物席のみごとな怒号が――ワンワンと頭をしびらせ、小屋を出てしまっても、ちょうど船暈の感じで足許をフラフラさせた。その辺に軒を並べている夜店の屋台が、ドーッと彼の方へ押寄せて来るような気がした。彼は明るい大通をなるべく往来の人たちの顔を見ないように、あごを胸につけてトットと公園の方へ歩いた。もしその辺に友達が散歩していて、彼が安来節の定席からコソコソと出て来るところを見られでもしたら、と思うと気が気でなかった。ひとりでに歩調が早くなった。
半町も歩くと薄暗い公園の入口だった。そこの広い四辻を境にして人足はマバラになっていた。紋三は池の鉄柵のところに出ているおでん屋の赤い行燈で、腕時計を透して見た。もう十時だった。
「さて帰るかな、だが帰ったところで仕方がないな」
彼は部屋を借りている家のヒッソリした空気を思い出すと、何だか帰る気がしなかった。それに春の夜の浅草公園が異様に彼をひきつけた。彼は歩くともなく、帰り途とは反対に公園の中へと入って行った。
この公園は、歩いても歩いても見尽すことのできない不思議な魅力をもっていた。フト何処かの隅っこで飛んでもない事柄に出っ会すような気がした。何かしら素晴しいものが発見できそうにも思われた。
彼は公園を横断する真暗な大通を歩いて行った。右の方はいくつかの広っ場を包んだ林、左側は小さな池に沿っていた。池では時々ボチャンボチャンと鯉の跳ねる音がした。藤棚を天井にしたコンクリートの小橋が薄白く見えていた。
「大将、大将」
気がつくと右の方の闇の中から誰かが彼を呼びかけていた。妙に押し殺したような声だった。
「ナニ」
紋三はホールド・アップにでも出っ会したほど大袈裟に驚いて思わず身構えをした。
「大将、ちょっとちょっと、他人にいっちゃあいけませんよ、極く内ですよ、これです、素敵に面白いのです、五十銭奮発して下さい」
縞の着物に鳥打帽の三十恰好の男がニヤニヤしながら寄り添って来た。
「ソレ、何です」
「エヘヘヘ……御存知の癖に。決してゴマカしものじゃあありませんよ、そらね」
男はキョロキョロと四辺を見廻してから、一枚の紙片を遠くの常夜燈に透して見せた。
「じゃあ貰いましょう」
紋三はそんなものを欲しいわけではなかったけれど、フと物好きな出来心から五十銭銀貨とその紙片とを交換した、そしてまた歩き出した。
「今夜は幸先がいいぞ」
臆病な癖に冒険好きな彼の心はそんなことを考えていた。
もうヘベレケに酔っ払った吉原帰りのお店者らしい四五人連が、肩を組んで調子外れの都々逸を怒鳴りながら通り過ぎた。
紋三は共同便所のところから右に切れて広っ場の方へ入って行った。そこの隅々に置かれた共同ベンチには、いつものように浮浪人らが寝支度をしていた。ベンチの側にはどれもこれもおびただしいバナナの皮が踏み躙られていた。浮浪人達の夕食なのだ。中には二三人で附近の料理屋から貰って来た残飯を分け合っているのもあった。高い常夜燈がそれらの光景を青白く映し出していた。
彼がそこを通り抜けようとして二三歩進んだ時、傍の闇の中にもののうごめく気勢を感じた。見ると暗いためによくはわからぬけれど、何かしら普通でない非常に変挺な感じのものがそこに佇んでいた。
紋三は一瞬間不思議な気持がした。頭がどうかしたのではないかと思った。だが、目が闇に慣れるに従って、段々相手の正体が分って来た。そこにたたずんでいたのは、可哀相な一寸法師だった。
十歳位の子供の胴体の上に、借物の様な立派やかな大人の顔がのっかっていた。それが生人形の様にすまし込んで彼を見返しているのが、甚だしく滑稽にも奇怪にも感じられた。彼はそんなにジロジロ眺めては悪い様な気がした。それにいくらか怖くもあったので、何気なく歩き出した。振返って見るのも憚られた。
それから彼は、いつもの様に、広っぱから広っぱへと歩き廻った。気候がいいので、どこのベンチもふさがっていた。大抵は一つのベンチを一人で占領して、洗いざらした法被姿などが、長々と横わっていた。中にはもういびきをかいて、泥の様に熟睡しているものもあった。初心の浮浪人は巡査の目を恐れて、ベンチを避け、鉄柵の中の暗い茂みを寝床にしていた。
その間を奇妙な散歩者が歩くのだった。寝床を探す浮浪人、刑事、サーベルをガチャガチャいわせて三十分ごとに巡回する正服巡査、紋三と同じ様な猟奇者、などがその主なものであったが、外にそれらのいずれにも属しない一種異様の人種があった。彼等は一寸その辺のベンチに腰をおろしたかと思うと、じきに立上って同じ道を幾度となく往復した。そして木立の間の暗い細道などで外の散歩者に出逢うと、意味ありげに相手の顔をのぞき込んで見たり、自分でもそれを持っている癖に、相手のマッチを借りて見たりした。彼等は極めて綺麗にひげをそって、つるつるした顔をしていた。縞の着物に角帯など締ているのが多かった。
紋三は以前からこれらの人物に一種の興味を感じていた。どうかして正体をつきとめて見たいと思った。彼等の歩きっぷりなどから、あることを想像しないでもなかったが、それにしては、皆三十四十の汚らしい年寄りなのが変だった。
屋根つきの東屋風の共同ベンチの側を通りかかると、その奥の暗いところで喧嘩らしい人声がした。この公園の浮浪人共は存外意気地なしで、危な気がないと考えていた紋三は、一寸意外な気がした。で、やや逃げ腰になりながら、すかして見ると、それはやっぱり喧嘩ではなく、一人の洋服姿の紳士が、警察官に引きすえられているのだった。二言三言怒鳴っている内に、紳士はなんなく腰繩をかけられてしまった。二人は無言のまま仲よく押し並んで交番の方へ歩いて行った。紳士は、でも、歩きながら春外套で繩を隠し隠ししていた。真暗な公園には彼等の跡を追う野次馬もいなかった。同じベンチに一人の労働者風の男が、何事もなかったかの様に、ぼんやりと考え事をしていた。
紋三は不規則な石段を上って、ある岡の上に出た。まばらな木立に囲まれた十坪程の平らな部分に、三四脚のベンチが並んで、そこにポッツリポッツリと銅像か何かの様に、三人の無言の休息者が点在していた。時々赤く煙草の火が光るばかりで、だれも動かなかった。紋三は勇気を出して、その内の一つのベンチへ腰をおろした。
もう大分以前に活動館などもはねてしまって、はなやかなイルミネーションは大方消えていた。広い公園にはまばらな常夜燈の光があるばかりだった。盛り時にはどこまでも響いて来る木馬館の古風な楽隊や、活動街の人のざわめきなども、もうすっかり無くなっていた。盛り場だけに、この公園の夜更けは、一層物さびしく、変てこな凄味さえ感じられた。腕時計はほとんど十二時を指していた。
彼は腰をおろすと、それとなく先客達を観察し始めた。一つのベンチには口ひげを蓄えたしかつめらしい洋服の男、一つのベンチには、帽子も冠らぬ、魚屋の親方とでもいい相な、遊人風の男、そしてもう一つのベンチには、ハッとしたことには、さい前の奇怪な一寸法師奴が、ツクネンと腰かけていたのである。
「彼奴め、さっきから影の様に、己の跡へくっついていたのではないかしら」
紋三はなぜか、ふとそんなことを思った。変に薄気味が悪かった。その上都合の悪いことには常夜燈が丁度紋三の背後にあって、それが樹の枝を通して、一寸法師のまわりだけを照していたので、この畸形児の全身が比較的はっきりと眺められた。
モジャモジャした、濃い髪の毛の下に、異様に広い額があった。顔色の土気色をしているのと、口と目が釣り合いを失して、馬鹿に大きいのが目だっていた。それらの道具が、大抵はさも大人らしく取済ましているのだが、どうかすると、突然痙攣の様に、顔中の筋ばることがあった。何か不快を感じて顔をしかめる様でもあったし、取り様によっては苦笑しているのかとも思われた。その時顔全体が足を伸した女郎蜘蛛の感じを与えた。
荒い飛白の着物を着て、腕組みをしているのだが、肩幅の広い割に手が非常に短いため、両方の手首が、二の腕まで届かないで、胸の前に刀を切結んだ形で、チョコンと組合わさっていた。身体全体が頭と胴で出来ていて、足などはほんの申訳に着いている様だった。高い朴歯の足駄をはいた太短い足が地上二三寸のところでプラプラしていた。
紋三は彼自身の顔が蔭になっているのを幸い、まるで見世物を見る様な気持で、相手を眺めた。始めの間は幾分不快であったけれど、見ている内に、彼はこの怪物に段々魅力を感じて来た。恐らく曲馬団にでも勤めているのだろうが、こんな不具者は、あの鉢の開いた大頭の中に、どの様な考えを持ってるのかと思うと、変な気がされた。
一寸法師はさい前から、妙に盗む様な目つきで、一方を見つづけていた。その目を追って行くと、かげになった方のベンチにかけている二人の男に注がれていることが分った。洋服紳士と遊人風の男とは、いつの間にか同じベンチに並んで、ボソボソ話し合っていた。
「存外暖かいですね」
洋服が口ひげを撫でながら、含み声でいった。
「ヘエ、この二三日、大分お暖かで」
遊び人風のが、小さい声で答えた。二人は初対面らしいのだが、何となく妙な組合せだった。年配は二人共四十近く見えたけれど、一方は小役人といった様なしかつめらしい男で、一方は純粋の浅草人種なのだ。それが、電車もなくなろうというこの夜更けに、暢気相に気候の話などしているのは、如何にも変だった。彼等はきっと、お互に何かの目論見があるのだ。紋三は段々好奇心の高まるのを感じた。
「どうだね、景気は」
洋服は、相手の男のよく太った身体を、ジロジロ眺め廻しながら、どうでもよさそうに尋ねた。
「そうですね」
太った男は、膝の上に両肱をついて、その上に首を垂れて、モゾモゾと答えた。そんなつまらない会話が、暫く続いていた。紋三は、一寸法師に習って、長い間二人から目を離さなかった。
やがて洋服は「アーア」と伸びと一緒に立上ったかと思うと、紋三達の方をジロジロ眺めながら、不思議なことには、再び同じベンチに、太った男とほとんどすれずれに腰をおろした。太った男はそれを感じると、一寸洋服の方を見て、すぐ元の姿勢に返った。そして、頭の毛の薄くなった四十男が、何か恥かしそうな嬌態をした。
洋服が突然猿臂を伸ばして――全くえんぴという感じだった――太った男の手をとった。
そして又、しばらくボソボソとささやき合うと、彼等は気をそろえて、ベンチから立上り、ほとんど腕を組まんばかりにして山を下りて行くのだった。
紋三は寒気を感じた。妙な比喩だけれど、いつか衛生博覧会で、ろう細工の人体模型を見た時に感じた寒気とよく似ていた。不快とも、恐怖とも例え様のない気持だった。そしてもっといけないのは、彼の前の薄暗い所で、例の一寸法師が、降りて行った二人の跡を見送りながら、クックッと笑いだしたことだった。(紋三はその異様な笑い顔を、それから後も長い間忘れることが出来なかった)畸形児は小娘の様に手を口に当てて少し身体をねじ曲げ、クックッといつまでも笑っていた。紋三はいくらもがいても逃れることの出来ない、悪夢の世界にとじこめられた様な気持がした。耳の所でドドド……と、遠鳴りみたいなものが聞えていた。
暫らくすると、一寸法師は滑稽な身振りでベンチから降り、ヒョコヒョコと彼の方へ近づいてきた。紋三は何か話しかけられるのではないかと、思わず身を堅くしたが、幸い彼の腰かけていた場所は大きな木の幹のかげになっていたために、相手はそこに人間のいることさえ気づかぬらしく、彼の前を素通りして、一方の降り口の方へ歩いてゆくのだった。
だが、そうして彼の前を二三歩通り過ぎた時、一寸法師の懐中から、何か黒い物が転がり落ちた。繻子の風呂敷様のもので包んだ、一尺ばかりの細長い品物だったが、風呂敷の一方がほぐれて少しばかり中味がのぞいていた。それは明かに、青白い人間の手首であった。きゃしゃな五本の指が断末魔の表情で空をつかんでいた。
不具者は、たれも見る者がないと思ったのか、別段あわてもしないで、包物を拾いあげ、懐中にねじ込むと、急ぎ足に立去った。
紋三は一瞬間ぼんやりしていた。一寸法師が人間の腕を持っているのは、極く普通のことの様な気がした。「馬鹿な奴だな、大事そうに死人の腕なんか、ふところにいれてやあがる」何だか滑稽な気がした。
だが次の瞬間には、彼は非常に興奮していた。奇怪な不具者と人間の腕という取合せが、ある血みどろの光景を聯想させた。彼はやにわに立上って、一寸法師の跡を追った。音のしない様に注意して石段を降りると、すぐ目の前に畸形児の後姿が見えた。彼は先方に気づかれぬ様に、適度の間隔を保って尾行して行った。
紋三はそうして尾行しながら、何だか夢を見ている様な気持だった。暗い所で一寸法師が突然振返って、「バア」といい相な気がした。だが、何か妙な力が彼を引っぱって行った。どういうものか一寸法師の後姿から目をそらすことが出来なかった。
一寸法師はチョコチョコと小刻みに、存外早く歩いた。暗い細道を幾つか曲って、観音様の御堂を横切り、裏道伝いに吾妻橋の方へ出て行くのだ。なぜかさびしい所さびしい所とよって通るので、ほとんどすれ違う人もなく、ひっそりとした夜更けの往来を、たった一人で歩いている一寸法師の姿は、一層よう怪じみて見えた。
彼等はやがて吾妻橋にさしかかった。昼間の雑沓に引きかえて橋の上にはほとんど人影がなく、鉄の欄干が長々と見えていた。時々自動車が橋を揺すって通り過ぎた。
それまでは傍目もふらず急いでいた不具者が、橋の中程でふと立止った。そして、いきなりうしろを振返った。十間ばかりの所を尾行していた紋三は、この不意打に逢って、ハッとうろたえた。見通しの橋の上なので、咄嗟に身を隠すことも出来ず、仕方がないので、普通の通行人を装って、歩行を続けて行った。だが一寸法師は明かに尾行を悟った様子だった。彼はその時一寸ふところに手をいれて、例の包物をだしかけたのだが、紋三の姿を発見すると、あわてて手を引っこめ、何食わぬ顔をして、又歩きだした。
「奴さん、女の腕を河の中へ捨てる積りだったな」紋三はいよいよただ事でないと思った。
紋三はかつて古来の死体隠匿方法に関する記事を読んだことがあった。そこには殺人者は往々にして死体を切断するものだと書いてあった。一人で持運びをするためには、死体を六個又は七個の断片にするのがもっとも手ごろだとも書いてあった。そして、頭はどこの敷石の下に埋め、胴はどこの水門に捨て、足はどこの溝に放り込んだという様な犯罪の実例が、沢山並べてあった。それによると、彼等は死体の断片を、なるべく遠いところへ別々に隠したがるものらしかった。
彼は相手に悟られたかと思うと少し怖くなって来たけれど、そのまま尾行をあきらめる気にはどうしてもなれないので、前よりは一層間隔を遠くして、ビクビクもので一寸法師の跡をつけた。
吾妻橋を渡り切ったところに交番があって、赤い電燈の下に一人の正服巡査がぼんやりと立番をしていた。それを見ると、彼はいきなりそこへ走りだし相にしたが、ふとあることを考えて踏み止まった。今警察に知らせてしまうのは、余り惜しい様な気がしたのだ。彼のこの尾行は、決して正義のためにやっているのではなく、何かしら異常なものを求める、烈しい冒険心に引きずられているに過ぎないのだった。もっと突き進んで行って、血みどろな光景に接したかった。そればかりか、彼は犯罪事件の渦中に巻込まれることさえ厭わなかった。臆病者の癖に、彼は一方では、命知らずな捨て鉢なところがあった。
彼は交番を横目に見て、少し得意にさえなりながら、なおも尾行を続けた。一寸法師は大通りから中の郷のこまごました裏道へ入って行った。その辺は貧民窟などがあって、東京にもこんな所があったかと思われる程、複雑な迷路をなしていた。相手はそこを幾度となく折れ曲るので、ますます尾行が困難になるばかりだ。紋三は交番から三町も歩かぬ内にもう後悔し始めていた。
片側は真暗に戸を閉めた人家、片側はまばらな杉垣で囲った墓地の所へ出た。たった一つ五燭の街燈が、倒れた石碑などを照していた。そこを頭でっかちの怪物が、ヒョコヒョコと急いでいる有様は、何だか本当らしくなかった。今夜の出来事は最初から夢の様な気がした。今にもたれかが「オイ、紋三さん、紋三さん」といって揺り起してくれるのではないかと思われた。
一寸法師は尾行者を意識しているのかどうか、長い間一度もうしろを見なかった。しかし、紋三の方では十分用心して、相手が一つの曲り角を曲るまでは、姿を現さない様にして、軒下から軒下を伝って行った。
墓地の所を一曲りすると小さな寺の門に出た。一寸法師はそこで一寸うしろを振返って、だれもいないのを確めると、ギイと潜り戸を開けて、門の中に姿を消した。紋三は隠れ場所から出て、大急ぎで門の前まで来た。そして、暫く様子をうかがってから、ソッと潜り戸を押して見たが、内部からかんぬきをかけたと見え、小揺ぎもしなかった。潜り戸のしまりがしてなかったところを見ると、一寸法師はこの寺の中に住んでいるのかも知れない。だが必ずそうとは極まらぬ。そういう内にも彼奴は、裏の墓地の方から逃げだしているかも知れないのだ。
紋三は大急ぎで、元の道を引返し、杉垣の破れから寺の裏手をのぞいて見た。すると、墓地の向側に庫裏らしい建物があって、今丁度そこの入口を開いて、たれかが中へはいるところであった。その時、戸の隙間から漏れる光に照しだされた人影は、疑いもなく不恰好な一寸法師に相違なかった。人影が庫裏の中に消えると、戸締りをするらしい金物の音がかすかに聞えた。
もう疑う余地はなかった。一寸法師は意外にもこの寺に住んでいるのだ。紋三はでも念のために杉垣の破れをくぐって庫裏の近くまでゆき、暫くの間見張り番を勤めていた。中では電燈を消したらしく、少しの光も漏れず、又聞き耳を立てても、コトリとも物音がしなかった。
その翌日、小林紋三は十時ごろまで寝坊をした。近所の小学校の運動場から聞えて来る騒がしい叫び声にふと目をさますと、雨戸の隙間をもれた日光が、彼の油ぎった鼻の頭に、まぶしく照りつけていた。
彼は寝床から手を伸して、窓の戸を半分だけ開けて置いて、蒲団の中に腹ばいになったまま、煙草を吸い始めた。
「昨夜は、己はちとどうかしていたわい。安来節が過ぎたのかな」
彼は寝起きの口を、ムチャムチャさせながら、ひとり言をいった。
総てが夢の様だった。お寺の真暗な庫裏の前に立って、中の様子をうかがっている内に、段々興奮がさめて行った。真夜中の冷気が身にしみる様だった。遠くの街燈の逆光線を受けて、真黒く立並んでいる大小様々の石塔が、魔物の群集かと見えた。別の怖さが彼を襲い始めた。
どこかで、押しつぶした様な、いやな鶏の鳴声がした。それを聞くと彼はもう堪らなくなって逃げだしてしまった。墓場を通り抜ける時は何かに追駈けられている気持だった。それから、夢の中の市街のように、どこまで行っても抜け道のない、複雑な迷路を、やっとのことで、電車道の大通りまでたどりつくと、丁度通り合せたどっかの帰りらしい空のタクシーを呼び止めて、下宿に帰った。運転手が面倒臭そうに行先を尋ねた時、彼はふと遊びの場所をいおうとしたが、思い直して下宿のある町を教えた。彼は何だか非常に疲れていたのだ。
「おれの錯覚なんだろう。人間の腕のふろ敷包みなんて、どうも余り馬鹿馬鹿しいからな」
部屋中に満ち溢れている春の陽光が、彼の気分をがらりと快活にした。昨日の変てこな気持がうその様に思われた。
彼は一つ大きく伸びをして、下宿の主婦が置いて行ってくれた、枕頭の新聞を拡げると、彼の癖として先ず社会面に眼を通した。別に面白い記事も見当らぬ。三段抜き、二段抜きの大見出しは、ほとんど血生臭い犯罪記事ばかりなのだが、そうして活字になったものを見ると、何かよその国の出来事の様で、一向迫って来なかった。だが、今別の面をはぐろうとした時、ふとある記事が彼の注意をひいた。それを見ると彼は何かしらギクリとしないではいられなかった。そこには「溝の中から、女の片足、奇怪な殺人事件か」という三行の見出しで、次の様な記事が記されていた。
昨六日午後府下千住町中組――番地往来の溝川をさらっているうち人夫木田三次郎がすくい上げた泥の中から、おもりの小石と共にしまの木綿風呂敷に包んだ生々しき人間の片足が現れ大騒ぎとなった。戸山医学博士の鑑定によれば切断後三日位の二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節の部分から切断したもので切口の乱暴なところを見れば外科医等の切断したものでないことが判明したが附近には右に該当する殺人事件又は婦人の失踪届出なく今のところ何者の死体なるや不明であるが、――署では極めて巧妙に行われた殺人事件ではないかと目下厳重調査中である。
新聞では左程重大に扱っている訳でもなく、文句も極簡単なものであったが、紋三の眼にはその記事がメラメラと燃えている様に感じられた。彼は蒲団の上にムックリと起き上って、ほとんど無意識のうちに、同じ記事を五度も六度もくり返し読んでいた。
「多分偶然の一致なんだろう。それに昨夜のは己の幻覚かも知れないのだから」
と強いて気を落ちつけ様としても、そのあとから直ぐに、あの奇怪な一寸法師の姿が――さびしい場末の溝川の縁に立って、風呂敷包を投げ込もうとしている、彼奴の物すごい形相が、まざまざと眼の前に浮んで来た。
彼はどうするという当もなく、何かに追い立てられる様な気持で、寝床から起上ると大急ぎで着換えを始めた。
どういう積りか、彼は洋服箱の中から仕立おろしの合のサック・コートと、春外套を出して身につけた。学校を出てからまだ勤めを持たぬ彼には、これが一張羅の外出着で、可成自慢の品でもあった。上下おそろいのしゃれた空色が、彼の容貌によく映った。
「マア、おめかしで、どちらへお出かけ?」
下の茶の間を通ると、奥さんがうしろから声をかけた。
「イイエ、一寸」
彼は変なあいさつをして、そそくさと編上のひもを結んだ。
併し、格子戸の外へ出ても、彼はどこへ行けばいいのか、一寸見当がつかなかった。一応警察へ届けようかとも思ったが、それ程の自信もなく、何だかまだあれを自分だけの秘密にして置きたい気持もあった。兎も角昨夜の寺へ行って様子を探って見るのが一番よさそうだった。若や昨夜の出来事は皆彼の幻覚に過ぎなかったのではないか。そんなことが頻に考えられた。もう一度昼の光の下で確めて見ないでは安心が出来なかった。彼は思い切って本所まで出かけることにした。
雷門で電車を降りると、吾妻橋を渡って、うろ覚えの裏通りへ入って行った。その辺一帯が夜中と昼とでは、まるで様子の違うのが、一寸狐につままれた感じだった。同じ様な裏町を幾度も幾度も往復している内に、でも、やっと見覚えのある寺の門前に出た。その辺はごみごみした町に囲まれながら、無駄な空地などがあって、変にさびしいところだった。門前にポッツリと一軒切りの田舎めいた駄菓子店があって、お婆さんが店先でうつらうつらと日なたぼっこをしていたりした。
紋三はさえた靴音を響かせながら、門の中へ入って行った。そして昨夜の庫裏の入口に立つと、思い切って障子をあけた。ガラガラとひどい音がした。
「御免下さい」
「ハイ、どなたですな」
十畳位のガランとした薄暗い部屋に、白い着物を着た四十恰好の坊さんが坐っていた。
「一寸伺いますが、こちらに、あのう、身体の不自由な方が住まっていらっしゃるでしょうか」
「エ、何ですって、身体が不自由と申しますと?」
坊さんは目をパチクリさせて問い返した。
「脊の低い人です。確か昨夜非常に遅く帰られたと思うのですが」
紋三は変なことをいい出したなと意識すると、一層しどろもどろになった。来る道々、考えて置いた策略なんかどこかへ飛んで行ってしまった。
「それは、お門違いじゃありませんかな。ここには人を置いたりしませんですよ。脊の低い身体の不自由な者なんて、一向心当りがございませんな」
「確このお寺だと思うのですが、附近に外にお寺はありませんね」
紋三は疑い深か相に、庫裏の中をじろじろ眺めまわしながらいった。
「近くにはありませんな。だが、おっしゃる様な人はここにはおりませんよ」
坊さんは、変な奴だといわぬばかりに、紋三をにらみつけて、無愛想に答えた。
紋三はもう持ちこたえられなくなって、このまま帰ろうかと思ったが、やっと勇気を出して続けた。
「イヤ、実はね、昨夜ここの所で変なものを見たのですよ」彼はそういいながら、ズカズカと中へ入って上り框に腰をおろした。「よく見世物などに出る小人ですな、あれがある品物を持って、ここの庫裏へ入る所を見たのですよ。もっとも向うの杉垣の外からでしたがね。全く御存じないのですか」
紋三はしゃべりながら益々変てこになって行くのを感じた。
「ヘエー、そうですかねエ」坊さんはさもさも馬鹿にした調子で、「一向に存じませんよ。あなたは何か感違いをしていらっしゃるのだ。そんな馬鹿馬鹿しいことがあるもんですかね。ハハハハハハ」