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The Vampire
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江戸川乱歩
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Chapter 10 of 29

青白き触手

ゴツン、ゴツンと、続けざまに、靴の踵が鳴って、石膏の細いかけらが四方に飛び散った。

ところが、ほとんどそれと同時に、第三の異様な物音が、まるで、今石膏の割れた音の谺の様に、人々の耳をうった。

明智は二度蹴ったばかりなのに、不思議なことに、音だけは三度響いたのだ。

しかも、三度目の物音につれて、板張りの床にバラバラと飛散ったのは、石膏のかけらではなくて、鋭く光ったガラスの破片であった。その音と、石膏の割れる音と、ほとんど同時であった為に、暫くの間、音の発した箇所を悟ることが出来ず、人々は異様な困惑を感じたが、やがて、明智が、惶しく一つの窓にかけ寄って、外の夕闇を覗いたので、やっと事の仔細が分った。

何者かが、その窓の外から、小石を投込んだのだ。飛散ったのは、破れた窓ガラスのかけらであった。

「いたずら小僧め。この裏の広っぱへ子供達が集まって仕様がないのですよ」

家主が腹立たしくいった。

「素早い奴だ。もう影も形もありやしない」

明智は呟きながら、窓から帰って来たが、ふと足元に落ている白いものに気づいて、それを拾い上げた。

小石を包んだ紙切れだ。拡げて見ると、鉛筆で何やら書いてある。

『おせっかいは、止せといったら止さぬか。これが二度目の、そして最後の警告だ。後悔してもおっつかぬ事が起るぞ』

例の怪物から明智への警告だ。

「畜生ッ」

叫ぶなり、明智は窓を開いて、外へ飛び出して行ったが、暫くすると、空しく立戻って来た。

「どうも不思議だ」

彼は、さっき青山で怪屋の探検を済ませた時と同じ様な、一種異様の困惑の表情を示して、呟いた。この事件には二重の底があって、彼はその不気味な底を、チラと覗いた様な気がしたのである。

家のまわりを一週して、隈なく探して見たけれど、石を投げた奴はどこにもいなかった。夕暮れとはいえ、まだ物が見えぬ程ではない。その見通しの広っぱを、たった二三十秒の間に、どうして逃げ去ることが出来たのであろう。不可能だ。またしても不可能事が行われたのだ。しかも今度のは、明智すら解くすべを知らぬ謎であった。

「あまりにあばき過ぎたので、犯人めたまらなくなって、こんないたずらをしたのですよ。だが、僕はそうされれば、される程、余計あばいてやりたくなる男です」

明智は何を思ったのか、アトリエの隅から、彫刻用の槌を拾って来て、いきなり、傷ついた三人の裸女の、顔といわず、胸といわず、たたき始めた。

バラバラと飛散る石膏。一槌ごとに、むき出しになって行く、裸女の腐肉。

かくて、夕闇のアトリエに繰拡げられた、時ならぬ地獄風景は、ここに細叙すべく、あまりにも無残である。凡て読者の想像に任せる外はない。

作者はただ、その群像の中に、三人の若き女の死体が隠されていたという事実、死骸には一面に白布を捲き、その上から石膏で塗りつぶしてあったという事実を、記すに止めなければならぬ。

いうまでもなく、即刻、このことが所轄警察と警視庁とに報ぜられ、警官達に続いて、裁判所の一行の来着となったのであるが、それは後のお話。

明智と三谷は、すでに見るだけのものは見てしまったので、最初にやって来た警察の人々に、事の顛末を語り、住所姓名を告げて置いて、直に、気がかりな畑柳邸へと、自動車を飛ばした。

「僕はこの世が、何だか、今までとはまるで違った、恐ろしいものに見えて来ました。この数日来の出来事は、みんな、長い悪夢としか思えないのです」

三谷青年は、走る自動車の中で、恐れと驚きに歪んだ表情を隠そうともせず、明智の救いを求めるようにいうのであった。

「人間世界の暗黒面には、嘘の様な悪業が潜でいるのです、どんな悪魔詩人の空想だって、現実界の恐怖には、及びもつかぬのです。僕はこれまで、度々そういうものを見て来ました。丁度、解剖学者が、素人の知らぬ人間の体内を絶えず見せつけられている様に、僕はこの世界のはらわたの、汚さ、不気味さを存分見せつけられて来ました。しかしその僕でも、今日の様な、恐ろしい経験は始めてです。あなたが悪夢の様に思われるのは、無理もありませんよ」

明智が沈んだ調子でいった。

「岡田という男は、どういう考えで、あんなに沢山の女を殺して、石膏像に隠して置いたのでしょう。想像も出来ない心持です。気違いでしょうか。それとも、話に聞く殺人淫楽者という奴でしょうか」

「恐らく、そうでしょう。しかし、僕がこの事件を恐ろしく思うのはもっと別の意味もあるのです。現われた事件の裏に、何だかえたいの知れぬ、影の様なものがチラチラ見える様な気がします。僕はそれが掴めないのです。唇のない男や、死骸の石膏像なんかよりも、僕は、その目に見えぬ変てこなものが、正直にいうと、怖くて仕方がないのです」

そうして二人は黙り込んでしまった。多くを語るには、あまりに事件の印象が生々しかったのだ。

間もなく車は畑柳邸の門前に着いた。倭文子は、茂少年を身近に引寄せ、屈強の書生達に守られて、奥まった一間に、半病人の体で、引籠っていたが、力に思う三谷青年が、有名な明智小五郎を同道したと聞くと、少し元気づいて、彼等に会う為に、客間へ出て来た。

斎藤老人を初め、召使達も、三谷の引合わせで、探偵の前に出て挨拶した。

丁度時間だったので、晩餐が用意された。明智は、邸内を調べる為に、相当の時間が要ると思ったので、遠慮なく御馳走になることにして、開化アパートの留守宅へ、その旨電話をかけた。

電話口へは文代さんが出たが、その時は、留守宅に、まだ何の異状も起っていなかったのだ。

それから、晩餐の席につく前に、一度例の二階の書斎を見て置くことにして、三谷と斎藤老人の案内で、彼はそこへ上って行った。

室内の様子は、先日小川と名乗る人物が殺され、その死体が紛失した当時と、少しも変った所はなかった。

一目見て、普通の書斎と違っている点は、一方の壁際に、数体の古めかしい仏像が並んでいることだ。

天井の高い立派な洋室、彫刻のある大机、壁に掛け並べた、由ありげな陰気な油絵、全体の感じが、何となく古風で神秘的だ。

明智は斎藤老人に教えられて、小川が倒れていた箇所に近づき、絨氈の血のあとを検べたが、ふと顔を上げて、すぐ目の前の、異様な仏像を眺めると、オヤッという様子で、長い間それを見つめていた。

足を拡げ、手をふり上げて、立ちはだかっている、子供程も大きさのある、奇妙な仏像、その隣りに並ぶ、黒ずんだ金属製の、大仏を小さくしたような、三尺程の座像。

明智が見つめていたのは、その座像の方の、異様に無表情な、ツルツルした顔であった。

「あなた方、気づきませんでしたか」

やっとして、明智は、三谷青年と、斎藤老人を振返って云った。

その口調には、なぜか、聞く者をギョッとさせる様な、気違いめいた感じがあった。

「若しや、その仏像の目がどうかしたのではございませんか」

斎藤氏は、妙な顔をして尋ねた。

「そうです。僕には、この金仏の目が瞬く様に見えたのですが。あなた方も見ましたか」

「イイエ……ですが、その仏様は、ひょっとしたら、瞬きをするかも知れませんので」

斎藤氏は生真面目な様子で、冗談みたいなことをいい出した。

「どうしてですか。本当に、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるのですか」

三谷が、驚いて口をはさんだ。

「以前から、そんないい伝えみたいな、迷信みたいなものがあるのです。なくなった主人は、夜おそくこの部屋にいると、よく、瞬きなさるのを見ることがあると申して居りました。私などは年寄りの癖に、どうもそんな迷信じみたことは信じられんのですが、主人は非常な信心家でして、あらたかな仏様だと、有難がって居りました」

「妙なことがあるものですね。で、それをご主人の外に見たものはなかったのですか」

明智が尋ねる。

「召使の者なども、たまさか、そんなことを訴えましたが、つまらぬことをいいふらしてはならぬと口止めをして居ります。化物屋敷の様な噂が立つのは好ましくはありませんからね」

「すると、僕の気のせいでもなかったのですね」

明智は、この異様な迷信に、ひどく興味をひかれたらしく、近々と仏像の側によって、熱心にその目を検べて見たが、別に発見する所もなかった。

どう考えても、鋳物の仏像が瞬きをする理屈はないのだ。

ところが、明智がそうして仏像の側に身をかがめていた時、突然部屋が真暗になった。電燈が消えたのだ。

と同時に、「アッ」という恐ろしい叫声。人の倒れる物音。

「明智さん、どうかなすったのですか」

三谷の声が、暗の中で甲高く響く。

「早くあかりを。誰かマッチを持っていませんか」

だが、マッチの必要はなかった。丁度その時、お化けみたいな電燈が、パッと部屋を明るくした。

見ると、仏像の前に、明智が倒れている。丁度、先夜小川が殺されていた場所だ。斎藤老人は、その連想から、若しや明智も同じ目に会ったのではないかと、ギョッとした。

三谷が駈寄って、素人探偵を抱き起した。

「お怪我はありませんか」

「イヤ、大丈夫です」

明智は三谷の手を払いのける様にして、元気に立上ったが、顔色は真青だ。

「どうなすったのです。何事が起ったのです」

斎藤老人が、オドオドして尋ねる。

「イヤ、何でもありません。御心配なさることはありません。サア、あちらへ行きましょう」

明智は、何の説明もせず、先に立って部屋を出た。ほかの二人も、こんな不気味な場所に居残る気はなかったので、明智のあとに従った。

「斎藤さん、ドアに鍵をかけて置いて下さい」

廊下に出ると、明智が声を低くしていった。

斎藤老人は、明智のいうがままに、書斎のドアに、外から鍵をかけた。つまり、その部屋の中へ、目に見えぬ何物かを、閉め込んだ形である。

「その鍵を暫く僕に貸て置いて下さいませんか」

明智がいうので、老人は鍵を渡しながら、けげんらしく尋ねた。

「一体、どうなすったのですか。私共には、ちっとも訳が分りませんが」

「三谷さん、あなたも、何も見なかったですか」

明智は老人には答えず、三谷に尋ねた。

「電燈が消えたのですから、見える筈がありません。何事が起ったのです」

三谷も不審顔だ。

「僕は、今度の事件の謎を解く鍵が、この部屋の中にある様に思うのです」

明智は意味ありげな言葉を漏らしたのみで、多くを語らなかった。

やがて、三人は、階下に用意された食卓についた。主人役は倭文子だ。茂少年も彼女のそばに腰かけた。

食事中別段のお話もない。誰も、いやな犯罪事件について語ることを、避けるようにしていたからだ。

ただ一つ、書き漏らしてならぬのは、明智が「先刻停電があったか」とたずねたのに対して、倭文子も召使達も、「一度も電燈は消えなかった」と答えたことだ。即ち、さっき二階の書斎が暗くなったのは、停電ではなくて、何者かがあの部屋のスイッチをひねったものに相違ない。

食事が終ると、一同客間に帰って、夫々居心地のよさそうな椅子に、身を休めて、ポツリポツリ、引立たぬ会話を取交わしていたが、そこへ書生が入って来て、明智さんに電話だと告げた。

見ると、いつの間に出て行ったのか、一座から明智の姿が消えていた。

洗面所へでも行ったのかと、ややしばらく待って見たが、一向帰って来る様子がない。

「あの方は、二階の書斎の鍵を持ってお出でだから、ひょっとしたら、一人であすこへ上って行かれたのではありますまいか」

斎藤老人が気づいていった。

そこで早速、書生を見にやったが、明智はそこにもいないことが分った。

「変だね。兎も角、その電話をここへつないで見給え」

三谷の指図で、客間の卓上電話が接続された。

「モシモシ、明智さんは、今ちょっと、どっかへ行かれたのですが、何か急なご用ですか」

三谷が呼びかけると子供子供した甲高い声が、それに答えた。

「僕、明智の事務所のものですが、早く先生を呼んで下さい。大変なことが起ったのです」

「アア、君は、あの子供さんですか」

三谷は昼間、開化アパートで見た、明智の可愛らしい少年助手を思い出した。

「エエ、僕、小林です。あなたは、三谷さんですか」

少年は三谷の名を、よく覚ていた。

「そうです。明智先生はね、どこへ行かれたのか、探して見ても、姿が見えぬのです。だが、大変って、何事が起ったの?」

「僕、今自働電話からかけているんです。文代さんが誰かに誘拐されたんです。きっと昼間脅迫状をよこした奴だと思うんです」

「エ、文代さんていうと?」

「あなたも御逢いになった、先生の助手の方です」

アア、賊は飛んでもない方角から、逆襲して来た。卑劣にも恋人を奪って、探偵を苦しめ、自然この事件から手を引かせようという計画なのだ。

「で、君は今、どこにいるんです。文代さんはどんな風にして誘拐されたのです」

三谷は、息をはずませて、電話口に呼びかけた。

「僕そちらへ伺います。電話ではくわしいお話も出来ませんし、それに先生の姿が見えないというのも、心配ですから」

小林少年探偵は、そういって電話を切ってしまった。

三谷は倭文子や、斎藤老人に事の仔細を告げ、兎も角、明智を探して見ることにした。

召使達が、手分けをして、屋内は申すに及ばず、庭までも検べたけれど、不思議なことに、明智の姿はどこにも見えぬ。

まさか黙って帰ってしまう筈はない。またしても、人間消失事件だ。先日の小川という男の死骸といい、今また探偵さえも、この邸内で消え失せてしまった。畑柳邸は、段々不気味な化物屋敷に変って行く様な気がするのだ。

斎藤老人は、ふと、二階の書斎の鍵を明智に渡したことを思い出した。さっき書生は誰もいないといったけれど、明智はひょっとしたら、ドアに鍵をかけて、部屋の中を調べているのかも知れない。

老人はそれを確めて見る為に一人で薄暗い二階へ上り、問題の部屋へと近づいて行った。

見ると書斎のドアが半開いて中の明りが漏れている。

「オヤ、変だぞ。このドアの鍵は確に明智さんに渡した。外に合鍵はない筈だ。して見ると、明智さんはやっぱり、この部屋にいるのかも知れぬぞ」

そう思って、部屋へ入って見たが、中はやっぱり空っぽだ。ガランとしたお堂みたいな部屋の中には、黙りこくった仏像共が、不気味に立並んでいるばかりである。

明智は、今度の犯罪の凡ての謎が、この部屋に秘められている様なことをいった。しかも、ドアが開いていたのを見れば、彼は少くとも一度は、この部屋に入ったものに相違ない。

で、それからどうしたのか。彼もまた、小川の死骸と同じ径路をたどって、どこかへ消えてしまったのではあるまいか。

老人は丹念に、隅々を探し廻った上、どこにも、明智は勿論、その死骸さえも隠されていないことを確めると、小首をかしげながら、部屋を出る為にドアの所まで歩いて行った。

すると、丁度その時、またしても、パッと電燈が消えた。廊下からの淡い光りが僅にドアの傍らを照らしているばかり、老人の背後は、襲いかかる様な暗闇である。

電燈のスイッチは、ドアのすぐ横手、老人の視野の中にあったのだから、誰もそれに手を触れなかったことは、確だ。つまり電燈は、お化けの様に、ひとりでに消えたのだ。

斎藤氏は、思わず振返って、暗闇の中の、見えぬ敵に対して、身構えをした。

「誰だ、そこにいるのは、誰だ」

誰も居る筈はなかったけれど、薄気味悪さに、老人は呶鳴って見ないではいられなかった。

ところが、その声に応じて、まるで老人が悪魔を呼び出しでもした様に、広い暗闇の中に、人の気配がした。すかして見ると、向うの窓の前を、煙みたいな人影が、スーッと横切った様に感じられた。

「誰だ、誰だ」

老人は続けざまに、悲鳴に似た叫び声を立てた。

闇の中に闇があって、その真黒な人影みたいなものが、徐々にこちらへ歩いて来る気配だ。

流石の斎藤老人も、あまりの不気味さに、ドアをしめて、逃げ出そうと身構えた時、突然、闇の中から、ほがらかな笑い声が響いて来た。

と同時に、申し合せた様に、部屋の中が明るくなる。見えぬ手が、再びスイッチをひねったのだ。

あかあかと電燈の光りに照らし出された怪物の正体。

「ア、あなたは!」

老人はあっけにとられて叫んだ。

そこに立っていたのは、さっきあれ程探したのに、影も見せなかった明智小五郎であった。

「これは不思議だ。あなたは、一体全体、どこに隠れてお出でなすったのだ」

斎藤老人は、ジロジロと、明智を見上げ見下して尋ねた。

「どこにも、隠れてなんかいませんよ。僕はさっきから、ここにいたのです」

明智はニコニコして、答えた。

だが、それは嘘に極まっている。いくら老人だからといって、人間一人見落す筈はない、それに、さっき書生も、この部屋を一度探しに来たのだ。

窓は凡て密閉してある。明智がその外に身を隠していたとは考えられぬ。すると、彼は無論部屋の中にいたのだ。併し、どこにそんな隠れ場所があるだろう。

仏像の中か。とても人間が隠れる程の広さはない。第一、鋳物や木彫りの仏像の中へ、どうして這入れるものか。

といって、壁にも床にも隠し戸のないことは、小川の死体紛失事件の際、警察の人々が充分調べたので、分っている。

「イヤ、何でもないのです。きっとあなたの目が、どうかしていたのですよ」

明智は、何気なくいって部屋を出た。

老人は、仕方なく、明智消失の不審はそのままにして置いて、小林少年からの電話のあった仔細を告げた。

「エ、文代さんが? 賊の為に?」

流石の明智も、この突然の兇報には、ニコニコ顔を引込めないではいられなかった。

大急ぎで階下の客間へ降りて行くと、探しあぐねて、期せずして、そこへ集まっていた人々は、明智の不意の出現に驚いて、四方から質問をあびせたが、彼はそれに答える余裕はない。三谷青年を捉えて、却ってこちらから電話の様子を尋ねるのだ。

そうしている所へ、小林少年がタクシーで駆けつけて来た。待ち兼ねていた人々は、手をとる様にして、彼を客間へつれこんだ。

そこで、お話は文代さん誘拐事件に移る訳だが、一方二階の書斎に起った怪奇については、今の所少しも、その謎が解かれていない。小川という男が何が為にあの部屋へ忍び込んだのか。誰に殺されたのか。その死体はどこへ行ってしまったのか。また、先程の、不思議な電燈の明滅、明智の消失と彼の不意の出現など。

明智はその秘密を、既に探り得た様子だが、なぜか彼は、それについて一言も語ろうとはしないのだ。まだ語るべき時期でないのかも知れぬ。で、書斎の秘密は、そのままそっとして置いて、さしずめ心掛りな、明智小五郎の女助手の行方について、物語を進めなければならぬ。

さて、客間につれ込まれた、小林少年が、林檎のような頬を、一際赤らめ、息をはずまして語った所によると、……

夕方五時頃、明智からの使だといって、一台の自動車が、文代さんを迎えに来た。

明智の筆蹟で、

「急用あり、すぐお出を乞う」

という簡単な手紙を持っていたので、彼女は別段疑う所もなく、その車に乗った。

だが小林少年は、虫が知らせたのか、昼間の賊の脅迫状や、明智が出がけに注意して行ったことが、気になって仕様がなかった。

文代さんをとめて見たけれど、取合ってくれないので、独心を痛めて、走り去る自動車を見送っていると、丁度幸いにも、そこへ一台の空タクシーが通りかかった。

小林少年は、ふと子供らしい探偵心を起して、その自動車を呼び止め、文代さんの車を尾行して見る気になった。

文代の自動車が止まったのは、丁度菊人形開演中の、両国国技館の前であった。

小林少年のタクシーは、半町程もおくれていたので、彼が同じ場所で車を止めて、降りた時には、既にそのあたりに文代の姿は見えなかった。

彼女を乗せて来た運転手を捉えて、尋ねて見ると、文代は、運転手に手紙を託した男につれられて、今国技館へ入って行ったばかりだという返事であった。

その男の風采を聞くと、どうも明智らしくないので、小林少年はいよいよ疑いを増し、切符を買って場内に入って、改札口の少女を初め、菊人形の番人、売店の商人などに、片っぱしから聞いて廻ったが、文代らしい洋装の美人が通ったことは覚ていても、彼女がどこにいるかは、誰も知らなかった。

場内を一巡して出口まで来た頃には、もう文代を見た人もなく、切符受取の番人も、ここ一時間ばかり、そんな洋装の女は通らぬという。つまり文代はまだ場内のどこかにいるとしか考えられぬのだ。

そこで小林は、更に、出口から逆に入口へと、見物の群衆の間を探しながら歩いて見たが、どうしても見つからぬ。

明智が文代をこんな所へ呼ぶのも変だし、第一、急用があれば、自動車などを頼まずとも、電話で事がすむ筈ではないか。それに、そんなに探しても、あの目立つ服装の文代が見つからぬというのも、何とやら唯事でない。

そこで、小林少年は、国技館の外の自働電話から、聞き覚ていた畑柳家の番号を探して、電話をかけて見た処、案の定、明智は同家にいることが分った。そこで、善後の処置を相談する為、早速やって来たというのである。

「その文代さんを呼び出した男というのは、きっと岡田の配下のものです。まさか、岡田があの顔で、人込みの中へ現れる筈はありませんからね」

三谷青年は、今度の犯人を、岡田道彦と極めてしまっている。

「マア、どうしましょう。私達の事件を御願いしたばっかりに、文代さんというお方を、そんな目に合わせてしまって。あいつは、何というひどいことをするのでしょう」

倭文子も、さなきだに悩ましき眉を、一層しかめて、悲しげに、腹立たしげに呟く。

「文代さんは、僕の筆蹟をよく知っている筈です。あの人がだまされた程だから、賊の偽手紙は余程巧に出来ていたのでしょう。菊人形……アア、あいつの考えつきそうなことだ。賊はひょっとしたら、国技館を根城にして、恐ろしい悪事を企らんでいるのかも知れません。アトリエの死体群像といい、ここの二階の仏像といい、今また国技館の菊人形と、あいつの犯罪には、妙に人形がつき纒っている」

明智は非常に気掛りの様子で立上った。

「僕はこれからすぐ、国技館へ行って見なければなりません。あの殺人鬼は文代さんをどんな目に合わせているか、ひょっとしたら、もう間に合わぬかも知れません」

いいながら、彼は小林少年を従えて、もうドアの外へ出ていた。

「三谷さん。二階の書斎を注意して下さい。やっぱりドアを締切て、誰もあすこへ入らぬ様にして下さい。召使の人達にも決してあの部屋へ足踏みせぬ様、きびしくいい渡して下さい。悪くすると、人の命にもかかわる様なことが起るかも知れません」

明智は、見送る三谷と、廊下を歩きながら、繰返し繰返し、それを注意した。

Chapter 10 of 29
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