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その翌々日、私はある人の告別式に列席するため、定刻より早めに教会へ往っていました。そこには必ずあの夫人が来るであろうと思いましたから。果して式の終る頃、喪服を着た姿を見せました。その優雅さと美しさとは、私の疑惑の眼を充分に覆すだけの力を持っていました。やはり間違っていたのか知ら? 人違いだったか知ら? 私は迷いました。しかし、執念深いこの好奇心は、人違いだったとして直ぐに引き下ってしまうことを許しませんでした。その晩から、私は彼女を尾行する決心をいたしました。
翌日も、その次ぎの日も彼女は外出いたしませんでした。恰度三日目の午後、K夫人は盛装して自家用の車に乗り、祈祷会、レセプション、午後のお茶、答礼、といかにも真面目な社交夫人らしい多忙さに半日を暮らし、最後の家を訪問した時は自動車を帰して、時間の都合でもあるのか、少し悠然と落付いて話込んでいましたが、その家を辞する頃は、もう人の顔が見分られないほどに、夕闇が迫って居りました。
K夫人は通りすがりの円タクを呼び止めて、低声に何やら命じていました。私も円タクを拾って、彼女の後を追うように云いつけました。
真直に家へ帰るのではあるまいと思っていましたら、果して彼女は全然反対の方向に走らせ、ある大きな建物の前で車を止めて降りました。その辺には同じようなビルディングばかり立ち並んでいまして、昼間の賑さに引きかえ、夜はまことに静かで寂しい位でした。
K夫人は扉を押して中へ入るとさっさと地下室の方へ降りて行きました。ここの地下室にある極東ダンスホールは非常に立派なもので、各国人が出入するというので有名でしたが、ひと頃のように繁昌しなくなり、少しさびれかけて人足が減じたのを、最近未亡人倶楽部という新趣向を思いついてから、また盛り返してきたという噂を聞いていましたが、私はまだ入ってみたことはありませんでした。今夜が初めてだったのです。K夫人は眩しいように明るい大ホールの中を抜けて、奥へ行きました。そこにはまた一つの扉がありまして、中硝子に未亡人倶楽部と大きく刷ってございました。入口の黒板にはまたこんな文字が書かれています。
未亡人倶楽部 ○スピード時代の恋愛市場
○愛の内容絶対秘密
○本名用う可らず(仮名に限る)
○仮面用マスク使用のこと
○マスク販売(本日大割引)
○午後十二時限り(会員はこの限りに非ず)
私はマスクを一つ買いました。見るとK夫人もちゃんとマスクを掛けていて、しかもその上に色眼鏡まで掛けているという御叮嚀さで、実に用意周到を極めているのには感心してしまいます。そのため彼女の顔の大半はかくされていましたが、なお頤から首筋の真白で柔らかそうな、ふっくらとした美しさは、浮気な男心をそそるに充分な魅力を見せて居りました。
眩しい照明に輝く大広間は、壁も天井も全部鏡張りです。あらゆる物の際限なき反射は、部屋中を一種異様の色彩に浮かせて居ります。特にある場所などは床にも鏡を張ってある始末です。
椅子と食卓が適当にばらまかれ、一つの卓子は一人が占領することに定っていて、それには銘々キュピットの形をした可愛らしい木の立札が立ててあります。
立札には、北京、ロンドン、東京、パリー、南京、ベルリン、上海、京都、大阪、ニューヨーク、天津、マルセーユ、香港、横浜等々、世界中の名が書いてあります。中には余り人に知られていない地名などが、故意に書かれてあるのでした。
ここは、良人を失った中年の婦人、未亡人でもない癖に、そんな顔をしてやって来る厚かましい女達、上流社会の有閑紳士、奇を好む男女が、肉の取引、恋の市場に惹き付けられて、集って来る別天地なのです。
倶楽部の賑い出すのは夜の十時頃からです。支那人のボーイが各卓子の上にビールや洋酒を運ぶ間に、熱狂的な、胸を踊らす音楽が始まり、男女の恋心をそそりたて、悩みに火をつけるのです。世界の町々に陣取ったお客達は、思い思いに前後左右を見廻して、それと思う人へ無遠慮なエロを送る、気の小さい人もマスクの蔭にかくれてのウインクは、存外大胆にやれるものらしゅうございます。
時計が十一時を打ちますと、いよいよ恋の遊戯、婚約、運だめしが始ります。テーブルにはあらかじめ手紙を書く設備がしてあって、ボーイはいつの間にか、メッセンヂャアと早変りして、お客さんの発信を待っています。
東京は先刻からニューヨークの横顔に流し目を送っている。桃色の紙に『私は貴女に……しかし、貴女は?』などと書いて封筒に入れ、ベルを鳴してメッセンヂャアボーイに托しました。手紙は海を超えて、遥かかなたの大陸へ渡って行くという趣向なのです。
顔に白粉を塗ったメッセンヂャアボーイは、オペレッタの人のように、女客の手紙で一杯になっている鞄を肩からぶら下げて、気軽に動いています。
今だに私の目に残っていますのは、もう小皺の沢山あるお婆さんが、真白に顔を塗りつぶして、華美な服装で若やいでいたのでした。図々しい『男の猟師』だというので、皆の嘲笑の的になっていましたが、当人は一向平気で、むしろ大得意らしく振舞っていたのはほんとに浅間しいと思いました。でも有名な金持なので、若い候補者が次ぎから次ぎと絶えないんです。そのために彼女の通信は一番数も多く、かさばってもいました。
K夫人はパリーの席に居りまして、京都と通信をしては居りましたが、何となく気が進まないような素振をしていました。京都は三十五六歳位、横顔の美しい西洋人でした。少しポマードをつけ過ぎてはいるようでしたが、これがキールン・ホテルへ出入する男ではないかと思って、私は注意深く眺めて居りました。
その時ベルリンに腰かけていた四十過ぎの女も、頻りに京都に通信を宛てているのを見ました。京都は如才なくその手紙を嬉しそうな身振りをしてざっと読み、故意と手から離すに忍びないというようにかたく握りしめたりしていましたが、K夫人から返事が来ると、そっちに夢中になり、熱心に読み返したり、考え込んだりしているので、ベルリンは自分を相手にしてくれないものと断念めて溜息を吐きながらベルを鳴らし、ボーイを招んで今度はロンドンの方へ向きを変えました。
京都は頻りに能弁な眼をK夫人に向けていましたが、どういう理由か彼女は彼に対して非常に冷淡な態度を示しているのです。彼の視線をさけるように、故意と他の人へ愛嬌を振りまいたり、彼からの通信を受取る時はいかにも面倒臭そうに、こと更溜息を吐いたり、眉を寄せたりします。そしてなるべく相手にならないようにして、頻りに上海と通信を交して居りました。可愛らしい(以下四十六字伏字)ちょっと唇を押し当てて媚びるような微笑を遠くの方から送ります。上海は京都よりもずっと若く、いかにも富豪の若様というような風采の人でした。勿論東洋人ではありません。K夫人の表情はこの男にすっかり心惹れているように見えていますが、私の目には彼女が京都への当てつけに、故意と上海になれなれしくしているとしか思われませんでしたが、京都はそれをまた黙って見てはいられないものと見え、焦り焦りしながら、矢つぎ早やに手紙を書いてはメッセンヂャアボーイに届けさせて居ります。しかし、夫人は表面上海に夢中になっていて彼の通信なんか、ろくすッぽ目も通しません。いやそうに受取ると直ぐ破いて床に捨てたりしていました。今夜の彼女はよほどどうかしています、大胆な態度といい、上ずッた調子といいまるで自暴なんですからね。それをまた京都が執拗く追い廻しているんです。
十一時半までは皆離れて座っていましたが、ボーイが気を利かして勧めて歩きますので、情意投合した男女は軈て同じ食卓に向い合って腰掛けました。ボーイは万事呑み込んでいましていつもの習慣通りに京都をK夫人の処へ導いて同席させました。すると彼女はぷいと起って、離れた処に一人でいる上海の席へ行ってしまいました。京都は間の悪るそうな不快な顔をして唇を噛み、きっと後姿を睨んで居りましたが、その顔色は気味が悪いほど蒼白くなっていました。
軈て婚約を祝う奏楽につれて、コップになみなみと酒が注がれました。私は同時にマルセーユと天津、ブタペストとホノルルとの婚約の成立ったのを見ました。
中には随分滑稽なシーンもありました。四十年輩の眼っかちのブイノス・アイレスに相手がない。彼は羞恥みながら三十歳位の眼の美しいモスコーを納得させようと再三メッセンヂャアボーイを煩わしている間に、遂々ベルが鳴って終りということになってしまいました。
ボーイ達にとっては、直ぐ靡くのも面白くないが、余り愚図々々しているのは興がさめるらしゅうございました。長崎のように南京を誘惑するのに紙やペンを止めて、いきなり唇にしたのは大喝采でした。
閉会のベルが鳴り、皆急にがやがやと起ち上って、帰り仕度を始めました。地下室の階段を大勢の男女に押されながらK夫人を見失うまいと注意しつつ外へ出ようとしました時、不意に早足になって夫人は馳け出して往来へ出ました。その後を背の高い男が追って行き、遂々追いつかれて、仕方なく、その人と肩を並べて歩き始めました。それは京都にいた男でした。
K夫人はいらいらしながら手を挙げて、通りがかりの円タクを止めようとしますと、男はその手を押えて何か熱心に云っているのです。私は彼等の声の聞える辺まで近寄って往き、暗い陰に身をひそめて耳を聳てました。
『うるさいわ。今更、何のかのって云い訳したって――。私の気持はもとへもう戻りやしないわよ』
『たったあれだけの事で――? そんなに気持が変っちまうもんかな。僕には解らない』
男は頭を振って、少し強い語調で云います。すると女はその一言で急に興奮して、まるで喰ってかかるような態度になり、まくし立てて云い始めました。
『そうよ。貴方に私の気持が解らないと同じように、私にも貴方の気持は解りませんわ。しかし、何と弁解なすったって、あの晩の出来事は貴方に充分責任があると思うわ。八時にって約束しておきながら、三十分も遅刻て来るなんて――。それだけだって実に呆れ果てしまう。あの時貴方が先に行っていたら、ベッドの屍体を発見したのも貴方だったでしょうし――。貴方がちゃんと始末をつけておいて下すったら、私だって、あんなところで醜体を演じなくっても済んだんですわ。無気味な、汚ない、ああ思ってもぞっとする。何という恐怖い事だったでしょう。あんな非道い恐しい目に会ったのも、巡査やホテルの人達の前で赤恥を掻いたのも、皆貴方の無責任から来たことです。おまけにあの騒ぎに驚いて、私の顔を見ると忽ち逃げ出して行っちまったような薄情男、人間じゃないわ。こんな人に関係っていたら、この先どんな恥を掻されるか知れやしない』
女の権幕に怖れたのでしょうか、男は吃るような口調で声まで少し震えを帯びて聞えました。
『だって――、僕の時計が遅れていて――』
『オホホホホ。また時計に罪をなすりつけるの? 調法だわね。でも貴方の腕時計嗤っていますよ。冤罪ですなあって』
女はヒステリックな声で嘲笑するのです。
『逃げ出したって云うけれど、あの場合、僕が顔を出しちゃ拙い。お互のため、殊に貴女のためによくないと思って――』
『オホホホ、うまい事を仰しゃる。大層御親切様ね。でももう、その御親切の押売は買いませんよ。永い間の偽せ親切、私はそれに満腹しちゃってるわ』
『そう誤解されちゃ物が云えやしない。ねえ奥さん。もう少し気を落付けて、僕の云い分も聞いて下さい』
『もう沢山。詭弁を弄したって、徒労よ! 私の気持はすっかり貴方を離れちゃった。醒め切った女に未練を残さないで、貴方もさっさと転向をやったらどう? キールン・ホテルで私に背中を向けて、逃げ出して行った、あの調子でやる事ったわ』
彼女は憎々しそうに毒づいて居りました。男はむっとしたように黙り込んでしまいましたが、その荒々しい息づかいから推察して、どんなに彼が怒りに燃えているかを私は知りました。
恰度その時、彼等の傍を空車が二三台通りかかりました。と、見るや、突然彼女はその一つを止めて、急いで扉を開けました。その敏捷さに男は面喰って彼女を止める暇がありませんでした。彼も慌ててそれに飛び乗ろうと試みましたが間に合いません。彼女は彼の顔の前で扉をパタンと閉じてしまったんです。
チョッ、男は忌々しそうに舌打ちして、直ぐ続いて来た後の車を止めました。自動車のヘッドライトに照し出された横顔は恐しく蒼褪めて、殺気を帯びた眼に私の心が寒くなりました。というのは、その美しい彼の顔に兇暴な影をみとめたからでした。
次の瞬間、彼の自動車が疾風のように彼女の車を追って、暗闇に消え去るのを見ました。