六
とうとう、嵐がやって来た。
私達が深谷氏の船室へはいると間もなく、海に面した丸窓の硝子扉へ、大粒な雨が、激しい音を立てて、横降りに吹き当り始めた。
高く、或は低く、唸るような風の音が、直ぐ眼の下の断崖から、岩壁に逆巻く磯浪の咆哮に反響して、物凄く空気を顫わせ続ける。
私達を前にして椅子に腰掛けた東屋氏は、劈くような嵐の音の絶え間絶え間に、落着いた口調で事件の真相を語りはじめた。
「まず、兇行の行われた当時の模様を、大体私の想像に従って、簡単に申上げましょう。――昨晩の十二時頃、恰度満潮時に、海流瓶で殴り殺された深谷氏の屍体と、加害者の早川と、例の奇妙な荷物を乗せた白鮫号は、あの無気味な鳥喰崎の吹溜りへ着きます。船底の重心板は粘土質の海底に接触し、舵板の蝶番には長海松が少しばかり絡みつき、そして舷側の吃水線には、一様に薄穢い泡が附着します。さて、そんな事も知らないで下男の早川は、荷物を岸に投げ降ろし、深谷氏の屍体を海中へ投げ込んで船尾へロープで結びつけます。そして、岸伝いに白鮫号を引張って入江の口までやって来ると、帆と舵を固定して、船を左廻りに沖へ向けて放流します。それから早川は元の場所に戻って、荷物を引きずって草地へ這入ります。草地の奥の小さな池の岸にアセチリン・ランプを置き、池の中へ桁網に詰めたマベ貝を浸すと、犯人はそのまま陸伝いにこっそり深谷邸へ帰ります。一方、深谷氏の屍体を引張った白鮫号は、一旦沖へ走り出しますが、御承知の通り昨晩は凪でしたので、犬崎から折れ曲って逆流している黒潮海流の支流に押されて、この岬の附近まで漂って来ます――」
ここで東屋氏は一寸語を切った。
外の嵐は益々激しさを増して来た。遠く、掻きむしるように荒れ続ける灰色の海の水平線が、奇妙に膨れあがって、無気味な凸線を描きはじめる。多分颶風の中心が、あの沖合を通過しているに違いない。東屋氏は再び続ける。
「――只今申上げた通りで、一通りの犯行の過程はお判りになったと思います。が、まだ皆さんの前には、不思議な理解し難い幾つかの謎が残っている筈です。そしてその謎は、最初この事件の解決に当って、割合に単純なこの殺人事件を頗る複雑化したところの代物なんです。例えばまず第一に、不明瞭なこの事件の動機です。そして昨晩ラジオの演芸時間の始まる頃から、急に変られた深谷氏の妙な態度――しかも夫人は、深谷氏の怯えるような独言を聞かれました。いったい深谷氏は『明日の午後』つまり今日のこの午後までに、なにを待ち恐れていたのでしょう? そして又桁網にいっぱい詰ったマベ貝――しかも早川は、私達にそれを見られることをひどく恐れていました――。更に又、夜中にヨットへ乗る深谷氏の奇癖。そして、むっつりした邪険な、それでいてひどく海には執心のあった妙な生活。白い柱の尖端の信号燈――等々です。で、これらの謎を解くために、最も常識的な順序として、ただ一つの現実的な手掛かりであり、私の最も興味を覚えた品である、このマベ貝の研究にとりかかりました。この方面で生活している私が、いまさらマベ貝の研究などを始めたんですから、全くお恥かしい次第です。ところが、そうして色々ひねくり廻しているうちに、私はふとこの貝が近頃人工真珠養殖の手段として、少しづつ実用化されるようになって来た事実を思い出したんです。これはマベ貝が、普通の真珠貝、つまりアコヤガイに比較して、大型の真珠を提供するからですが、で、ふと軽い暗示に唆かされた私は、早速このマベ貝を一つ打ち砕いて見ました。私の予感は適中しました。これをご覧下さい」
そう云って東屋氏は、ポケットから一粒の大きな美しい真珠を取り出した。そして、驚いている私達の眼の前の机の上へ、そっと転がしながらなおも語り続けた。
「御覧の通り、これは立派な人工真珠です。ところが、皆さんの御承知の通り、人工真珠の養殖は特許になっています。三重県の三喜山氏が特許権の所有者です。従ってこの真珠は、特許を冒して密造されたものになります。そして同時にその密造者は、養殖技術をも特許権の所有者から盗み出した事になるのです。ではその密造者は誰か? 深谷氏か? 下男の早川か? それとも二人の共謀か? 私は大きさから見て、殆んど直感的に深谷氏と早川の共謀である事を知りました。そして私は、三重県の三喜山養殖場へ、早川が十年前に何等かの関係があったかどうかを電話で照会して見ました。すると果して、十年前に早川を解雇した事があるとの返事です。そこで、今度は、ひとつこれを見て下さい」
東屋氏は、書式張った商業書類らしい紙片を数枚取り出しながら、
「これは、この戸棚の書類金庫から一寸拝借したものです。頗る略式化した一種の商品受領証と云ったようなものですね。欧文です。で、文中商品の項に青提灯とか、赤提灯とかしてありますが、勿論これは真珠を指し示しているのです。そして、この下の処に、T・W・W――としてあるのが、荷受人のサインです。お判りになりますか? つまり深谷氏は、早川と共謀して、外人相手に真珠の密造並に密売をしていられたんです。そして、この七枚の書類の日附けを、深谷夫人にそれぞれ辿って頂いたならば、きっと御夫人は、その各の日の夜遅く、あの白い柱の尖端に黄色い信号燈が挙がっていた事を思い出されるでしょう。そしてまさにその時、この海の暗い沖合遙かに一艘の怪し気な汽船の姿を、皆さんは想像する事が出来るでしょう――」
東屋氏は一息ついた。
いつの間にか知らない内に、崩れるような激しい嵐は消え去って、風雨は忘れたように遠去かり、追々に、元の静けさが蘇えって来た。
やがて東屋氏が、
「最後に、私は、キャプテン深谷氏のあの奇妙な、怯えるような独言に就いて――」
と、この時である。
主館の露台の方で、女中の、悲しげな、鋭い絶望的な叫び声が、不意に私達の耳に聞えて来た。
「まあ!……いったいどうしたんだろう。海の色が、まるで血のようだ……」
私達は、驚いて窓の硝子扉を、力一杯押し開けた。
と――今までの灰色の、或は鉛色の、身を刺すような痛々しい海の色は、いつの間にか消え去って、陰鬱な曇天の下に、胸が悪くなるような、濃い、濁った褐色の海が、気味悪い艶を湛えて、一面に伸び拡がっていた。そして見る見る内にその色は、ただならぬ異状を加えて行く。最初は、ただ濃い褐色だった海が、瞬く内に、暗い血のような毒々しい深紅色の海と化して来た。
不意に東屋氏が力強い声で始めた。
「これです! この物凄い赤潮です。こいつを深谷氏は恐れていたのです。皆さんもきっとお聞きになったでしょう? 昨晩のラジオのニュースで、黒潮海流に乗った珍らしく大きな赤潮が、九州沖に現れ執拗な北上を始めたと云う事を。そしてそのために、沿海の漁場、殊に貝類の漁場は、絶望的な損失を受けていると云うニュースをですね――。深谷氏もそれを聞いたのです。そしてこの、赤褐色の無数の浮漂微生物の群成に依る赤潮が、真珠養殖に取っての大敵である事を思い出したのです。だから深谷氏は、九州沖からこの附近までの間に於ける黒潮海流の平均速度を、二十四時、つまり一昼夜五〇浬乃至八〇浬と見て、赤潮の来襲を、今日の午後までと、大体の計算をしたのでしょう。そして今日の午後までに、昨日にしてみれば『明日の午後まで』に、真珠貝の移殖を行わなければならない。そこで深谷氏は、用意を整え、下男――実は共謀者の早川を連れて、ひそかに邸を出帆したのです。そして、第何回目かの作業を終った時に、早川の胸裡に恐ろしい野心が燃えあがったのでしょう。恐らくその作業場と云うのは、あの鳥喰崎の向うの、美しい、静かな、鏡のような内湾に違いないです。――だが、もうこれで、あのキャプテン深谷氏の秘密人工真珠養殖場のマベ貝は、完全に全滅です――」
東屋氏は云い終って、煙草の煙を、ぐっと一息深く吸い込んだ。
私達は一様に深い感慨を以て、血のような鳥喰崎の海を見た。斑な禿山の上には、何に驚いたのか鴉の群が、折からの日差しの中に慌だしく舞い上り、そしてその岬の彼方の沖合には、深谷氏の片足をもぎ取った奴であろう、丈余に亙る暗灰色の大鱶が、時々濡れた背中を鋭く光らしながら、凄じい飛沫を蹴立てて疾走していた。
(「新青年」昭和八年七月号、「白鮫号の殺人事件」を改題、改稿)
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