五
伯太郎がママちゃんのお部屋をそっと覗き見しに行くということは、その後もずっと続けられていたことであったが、そのうちにいつしか翌年の正月となり、その正月も終って二十日ばかり経った頃から、伯太郎にはバッタリと、そうした機会が与えられなくなった。
パパちゃん、小野村伯一郎博士が、その頃からどうも身体の工合が思わしくないといい出して、出なければならぬ筈の学校の講義も休むようになり、終日、邸に閉じ籠っている日が多くなったからである。博士が邸にいるというと、ママちゃんのところへ来る佐々沼の小父さんの方は、殆んど顔を見せなくなり、稀にひょっこりと訪ねて来ても、以前のように、ママちゃんのお部屋へ行って、いつまでも話し込んでいることはなく、大声で何か冗談をいったり、または、博士の身体が悪るいのを、何くれとなく心配して、転地療養でもしたらどうかなど、そんなようなことをいっては、そそくさと帰って行くのであった。
博士の病気が、いったいどんな種類の病気であるのか、それについては、伯太郎も少なからず心配していたことであったが、それは最初のうち、極めて徐々にやって来たものらしかった。
「どうも、寝汗をかいて仕方がない」
博士が朝起きる毎に、そんなことをいうようになったのが、もう去年の暮からのことであって、そのうちに今度は、妙に視力が衰えて来たなどといい出した。そうして、無理押しをして学校へ行くと、帰ってきた時には、いつでも額に脂汗を流し、ゴホンゴホンと苦しそうな咳をするようになった。夜もよく眠れないし、食慾もだんだんに衰えて行き、その癖に、かかり付けの医者が診たところではどこにも変ったところがなく、従ってどういう療法をとっていいか分らずに、一日々々、身体を悪くして行く、そういうような症状なのだった。
「でもね、見たところでは、ちっとも病気のようには見えませんわ」
「そうかも知らん。医者が診ても、どこにも病源なんかありそうもないっていうんだからナ」
「あなたが、あんまり研究の方に御熱心なので、そのお疲れが出たんじゃアないでしょうか」
「そうさ。私もそんなことを思っているんだが、何しろ研究室へ行くと、いろいろの毒瓦斯なんかも吸わなくちゃならぬし、その影響が現れて来たのかも知れない。じっとこうして家で静養しているうちには、じきに癒ってしまうだろう」
「ええええ、そうでしょうとも。学校のことなんかすっかり忘れてしまって、一月でも二月でも、暢んびりしていた方がいいのですわ」
博士夫妻が、こういう風にいっているのを、伯太郎は傍で聞いていたこともある。その時彼は、例のお薬のことを思い出して、よっぽど口を出そうかと思ったけれど、それをいえば、ママちゃんのお部屋の立聴きの一件が知れるので、わざと何んにもいわずに置いた。そうしてその代りに、あとで露子と相談した。
「ねえ露子、僕、ママにそういってやろうと思うんだけど――」
「なにをよオ?」
「佐々沼の小父さんがくれた薬のことさ。パパがね、この頃毎日病気だっていってるだろう。だから僕は、あのお薬をもっと沢山パパに飲ませたらいいと思うんだ。きっとママは、パパにあのお薬を、少しずつしかやらないに違いない」
「じゃ、沢山やればいいことよ」
「うん、そうなんだ。けれど、それをいえば、僕が何故その薬のことを知ってるかって、ママに訊かれるに違いないし、訊かれれば僕困ってしまうし――」
二人共にそれ以上の智慧は出ない。困ったなりで、そのままになってしまったけれど、一方博士は一月の末から二週間あまり、暖い海岸へなど行って保養につとめても、目に見えぬくらいずつ病状を悪化させて行った。そうして、二月半ばになると、どうせ海岸にいたところで同じことだし、それよりか、矢張り自宅で子供達の傍にいた方がいいといい出して、再び伯太郎達のところへ帰って来た。
ママちゃん小野村漾子は、その間最も貞淑に博士を看病していたかのように見える。
博士夫妻が自宅へ戻ると、それからは四五日の間、何事もない日が続いて行った。病気だとはいえどうにか邸内の散歩ぐらいは出来るパパちゃんを対手に、伯太郎はいろいろのおねだりをすることもあったし、幼稚園で拵らえて来た折紙だの豆細工だのを見せたりした。
が、恰度二月の二十日、それは博士の第何回目かの誕生日に当っていたので、その日は例年の如く内輪だけの小さな晩餐会が催されることになったのであるが、その晩到頭恐ろしいことが起ってしまった。