Chapter 1 of 7

むかし取つたる杵柄、如何なる嶮山でも、何の糞と侮りて、靴穿きたるまゝ、洋服のづぼんもまくらず、即ち別に毫も旅仕度せずに、山にのぼりしが、心ばかりは、むかしにて、十年來、自墮落にもちくづしたる身體の力は、もとのやうにも無し。膝關節疼痛さへ起すこと多きに、あゝわれは既に老いたるか、もはや高山に上る能はざるかと、自から歎息せしが、いや/\まだ老い込む年でも無し。慣らさば、昔の如くにならむ。むかしの如くにならずとも、十分の八までにはならむ、殊に脚袢をつけ、草鞋をはき、づぼんをまくりて、膝關節をらくにせば、疼痛は起らざらむ、よしや起りかゝるも、用心して、水にて冷やさば、之を免れむ。よし/\一つ試みて見むと、思ひたてば、矢も楯もたまらず。殊に氣澄み天高き小春の好時機也。旅行の決心は、金鐵よりもかたし。行先の如きは、末節也。必ずしも妄りに選擇するを要せず。されど、大體の見當は碓氷、妙義あたりとつけたり。五日間通用の出來る割引切符を利用せむとする也。

何時の汽車に間にあはせて、何時に先方へ着かねばならずなどと、窮屈なる制限もなければ、心ものびやか也。四谷見付にて、街鐵線の電車より外濠線のに乘りかへむとするに、來たることおそし。來り待つもの、次第に増す。朝は何時よりといふ制限のある、つとめの人々にや、いづれも不安心なる顏付をして、電車の來る方を見つむ。電車漸く見え出したり。衆と共にしては、乘りきれずとや思ふらむ、顏に覺えのある文學博士、電車のまだ止まらぬ先より飛び乘らむとして、手だけは電車につかまりたるも、脚は之に伴はず、しばし引きずられ、漸く車掌に引つぱり上げられたり。つとめの身の心せくまゝに、かゝる滑稽も、しでかすならむと、氣の毒也。乘り切れねば、あとの電車にと、思ひ定めしが、餘地がありさうなれば、乘りて見たるに、餘地も十分の餘地、腰かくることさへ出來たり。

上野驛にて一時間餘も待ち、高崎驛の乘換にも、一時間待ち、松井田驛に下車し、一里餘を徒歩して、日くるゝ頃、妙義町につきて、東雲館にやどりぬ。

指を屈すれば、十八年前の事也。わづかばかりの金を懷ろにして、日光より足尾、庚申山を經て、その妙義に來りし時は、懷中わづかに五錢しか無し。案内者を雇ふに由なきのみならず、午食だに得るに由なし。五錢のうち、二錢だけにて、駄菓子を買うて午食に充てたり。その菓子屋は、祠につき當りたる左側也。今、十八年目にて來て見れば、其家なほ在り。賣る駄菓子の品數も、もととかはらぬやう也。

ほんの一晩どまりにて、妙義と碓氷との紅葉を見むつもりなりしも、いつまでに歸らねばならずといふ身にもあらず。唯嚢中が氣がゝかりなれど、電報うたば、どうにかなるべし。前遊の時は案内者なくして、白雲山は大字巖にて引きかへし、金洞山は石門を見たるのみ也。普通の遊蹤に過ぎず。このたびは、案内者をやとひて十分に見物し、且つ白雲、金洞、金三山の頂をも窮めむと決心し、かくて先づ石門を經て、金洞山の絶頂に上り、歩を轉じて、更に金山の頂上にのぼり、次の日には、白雲山の絶頂に上り、午後ひとり石門に赴き、その次の日には、また石門に赴き、又その次の日には、白雲山の裏山に赴き、再び白雲山の頂上にいたり、進んで天狗嶽に上り、更に進んで相馬嶽に上りぬ。

妙義山とは、白雲、金洞、金の三山の總稱也。其中、白雲最も高く、金洞之に次ぐ。金最も低し。白雲の高さ、海拔凡そ三千八百尺也。妙義山は、日本第一の奇山なりとは、衆評の一致する所なるが、山と云はむよりも、むしろ大巖と云ふべし、實に巖として偉大なるもの也、且つ奇拔なるもの也。高崎あたりよりは、わづかに端山の上に頭角をあらはせるが、磯部に近づくに從ひて、妙義の三山、漸くあらはる。磯部を過ぎて松井田にいたるまでは、左方近く一二里の外に三山の鼎立せるを見る。右が白雲、左が金、中央が金洞也。松井田より碓氷川をわたりて、爪先上りに、白雲山の裾野をのぼれば、前に白雲山を見上げ、左に金洞、金二山を望み、右にやゝ遠く高く淺間山を望む。その淺間山先づかくれ、次に金洞かくれ、最後に金山もかくる。坂をのぼりつめて、黒門を入れば、もと妙義の人家立ちつゞきし處、今は、人家わづか數十軒に減じたり。明治二十三年、群馬縣會の議決によりて、群馬縣下一般に癈娼を實行せしが、こゝにも榮えし娼樓の痕跡、今なほ普通の人家とは見えざる家が二三軒、そのまゝに殘れる也。白雲山を見上ぐるは、このあたりを最もよしとす。

このあたりより見たる白雲山は、高さも可成りの高さにて、幅もあり。鋭く突つ立ちて、勢、雄にして峻也。七八合目以上は、削りたる如き大巖、參差相竝び、樹を帶びたるが、既に落葉しつくして、山骨ます/\あらはる。巖より下は、紅葉が今眞盛り也。翠樹もまじりて、單調ならず。中腹に孤巖あり、その上に『大』の字、白くあらはる。之を大字巖と稱す。この『大』の字は、一里をへだてたる中山道の路上よりも見ゆる也。

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