Chapter 1 of 8

「桜はよく咲いたのう」

二十四五歳かとも見える若い侍が麹町の山王の社頭の石段に立って、自分の頭の上に落ちかかって来るような花の雲を仰いだ。彼は深い編笠をかぶって、白柄の大小を横たえて、この頃流行る伊達羽織を腰に巻いて、袴の股立ちを高く取っていた。そのあとには鎌髭のいかめしい鬼奴が二人、山王の大華表と背比べでもするようにのさばり返って続いて来た。

主人の言葉の尾について、奴の一人がわめいた。

「まるで作り物のようでござりまする。七夕の紅い色紙を引裂いて、そこらへ一度に吹き付けたら、こうもなろうかと思われまする」

「はて、むずかしいことをいう奴じゃ」と、ほかの一人が大口をあいて笑った。「それよりもひと口に、祭の軒飾りのようじゃといえ。わはははは」

他愛もない冗談をいいながら、三人は高い石段を降り切って、大きい桜の下で客を呼んでいる煎茶の店に腰を卸した。茶店には二人の先客があった。二人ともに長い刀を一本打ち込んで、一人はこれ見よがしの唐犬びたいをうららかな日の光に晒していた。一人はほうろく頭巾をかぶっていた。彼等は今はいって来た三人の客をじろりと見て、何か互いにうなずき合っていた。

それには眼もくれないように、侍と奴どもは悠々と茶をのんでいた。明暦初年三月半ばで、もう八つ(午後二時)過ぎの春の日は茶店の浅いひさしを滑って、桜の影を彼等の足もとに黒く落していた。

「おい、姐や。こっちへももう一杯くれ」と、唐犬びたいが声をかけた。茶の所望である。茶店の娘はすぐに茶を汲んで持ってゆくと、彼はその茶碗を口もとまで押し付けて、わざとらしく鼻を皺めた。

「や、こりゃ熱いわ。天狗道へでも堕ちたかして、飲もうとする茶が火になった。こりゃ堪らねえぞ」

彼はさも堪らぬというように喚き立てて、その茶碗の茶を侍の足下へざぶりと打ちまけた。それが如何にもわざとらしく見えたので、相手の侍よりも家来の奴どもが一度に突っ立った。

「やあ、こいつ無礼な奴。何で我等の前に茶をぶちまけた」

「こう見たところが疎匆でない。おのれ等、喧嘩を売ろうとするか」

相手も全くその積りであったらしい。鬼のような奴どもに叱り付けられても、二人ながらびくともしなかった。彼等はせせら笑いながら空うそぶいた。

「売ろうが売るめえがこっちの勝手だ。買いたくなけりゃあ買わねえまでだ」

「一文奴の出しゃばる幕じゃあねえ。引っ込んでいろ。こっちはてめえ達を相手にするんじゃあねえ」

「然らば身どもを相手と申すか」

侍は編笠をはらりと脱った。彼は人品の好い、色の白い、眼の大きい、髭の痕の少し青い、いかにも男らしい立派な侍であった。

「仔細もなしに喧嘩を売る。おのれ等のような無落戸漢が八百八町にはびこればこそ、公方様お膝元が騒がしいのだ」と、彼は向き直って相手の顔を睨んだ。

唐犬びたいのひと群れが最初からこの侍に向って喧嘩を売る下心があったことは、次の事実に因っていよいよ証明された。唐犬びたいとほうろく頭巾のほかに、まだ三人の仲間が侍たちのあとをつけて来て、桜のかげに先刻から様子を窺っていたのであった。その中の親分らしい三十前後の男が、この時に双方の間につかつかと出て来た。

「仔細もなしに咬み付くような、そんな病犬は江戸にゃあいねえや」と、彼は侍を尻目にかけていった。「白柄組とか名をつけて、町人どもを嚇して歩く、水野十郎左衛門が仲間のお侍で、青山播磨様と仰しゃるのは、たしかあなたでごぜえましたね」

彼の鑑定通り、この若い侍は番町に屋敷を持っている七百石の旗本の青山播磨であった。彼が水野十郎左衛門を頭に頂く白柄組の一人であることは、その大小の柄の色を見ても覚られた。事件の進行を急ぐ必要上、ここで白柄組の成立ちを詳しく説明している暇がない。又詳しく説明する必要もあるまい。ここでは唯、旗本の侍どもから組織されている白柄組や神祇組のたぐいが、町人の侠客の集団であるいわゆる町奴の群れと、日頃からとかくに睨み合いの姿であったことを簡単に断わっておきたい。殊にこの年の正月、木挽町の山村座の木戸前で、水野の白柄組と幡随長兵衛の身内の町奴どもと、瑣細のことから衝突を来したのが根となって、互いの意趣がいよいよ深くなった。

その矢先に青山播磨は権次、権六という二人の奴を供に連れて、今日の朝から青山の縁者をたずねて、そこで午飯の振舞をうけて、その帰りに山王の社に参詣ながら桜見物に来たのであった。そこへ丁度長兵衛の子分どもが参詣に来合せたので、彼等の中で大哥分と立てられている放駒の四郎兵衛が先立ちになって、ここで白柄組の若い侍と奴とに、喧嘩を売ろうとするのであった。こちらも売る喧嘩をおとなしく避けて通すような播磨ではなかった。殊に自分を白柄組の青山播磨と知って喧嘩をいどんで来る以上、彼は勿論その相手になるのを嫌わなかった。

「白柄組の一人と知って喧嘩を売るからは、さてはおのれ等は花川戸の幡随長兵衛が手下のものか」

問われて、四郎兵衛は自分の名をいった。この時代の町奴の習いとして、その他の者共も並木の長吉、橋場の仁助、聖天の万蔵、田町の弥作と誇り顔に一々名乗った。もうこうなっては敵も味方も無事に別れることの出来ない破目になった。播磨は大小の白柄に対して、奴は面の鎌髭に対して、相手の四郎兵衛は金の角鍔、梅花皮の一本指に対して、互いにひと足も引くことが出来なかった。まして相手は初めから喧嘩を売り掛けて来たのである。受身になることが大嫌いの播磨は、もう果しまなこで柄頭に手をかけると、主を見習う家来の奴共も生れつきの猪首をのけぞらして呶鳴った。

「やい、やい、こいつ等。素町人の分際で、歴々の御旗本衆に楯突こうとは身のほど知らぬ蚊とんぼめ。それほど喧嘩が売りたくば、殿様におねだり申すまでもなく、いい値で俺たちが買ってやるわ」

「幸い今日は主親の命日というでもなし、殺生をするには誂え向きじゃ。下町からのたくって来た上り鰻を山の手奴が引っ掴んで、片っ端から溜池の泥に埋めてやるからそう思え」

四郎兵衛も負けずにいった。

「そんな嚇しを怖がって尻尾をまいて逃げるほどなら、白柄組が巣を組んでいる山の手へ登って来て、わざわざ喧嘩を売りゃあしねえ。こっちを溜池へ打ち込む前に、そっちが山王のくくり猿、お子供衆の御土産にならねえように覚悟をしなせえ」

相手に嘲られて、播磨はいよいよ急いた。

「われわれが頭と頼む水野殿に敵対して、とかくに無礼を働く幡随長兵衛、いつかは懲らしてくりょうと存じておったに、その子分というおのれ等がわざと喧嘩をいどむからは、もはや容赦は相成らぬ。望みの通りに青山播磨が直々に相手になってくるるわ」

「いい覚悟だ。お逃げなさるな」と、四郎兵衛は又あざ笑った。

「何を馬鹿な」

播磨はもう烈火のようになった。彼は床几を蹴倒すように飛び立って、刀の鯉口を切った。権次も権六も無そりの刀を抜いた。相手も猶予せずに抜き合せた。こうした喧嘩沙汰はこの時代に珍しくないとはいいながら、自分の店先で無遠慮に刃物を振り閃かされては迷惑である。さりとてそれを取鎮めるすべを知らない茶店の女は、唯うろうろしてその成行きを窺っていると、鋲金物を春の日にきらめかした一挺の女乗物が石段の下へ急がせて来た。陸尺どもは額の汗を拭く間もなしにその乗物を喧嘩のまん中に卸すと、袴の股立ちを掻い取った二人の若党がその左右に引添うて立った。「しばらく、しばらく」と、若党どもは叫んだ。必死の勝負の最中でも、権次と権六とはさすがにその若党どもの顔をすぐ認めた。

「おお、渋川様の御乗物か」

喧嘩のまん中へ邪魔な物を投げ出されて、町奴の群れも少し躊躇していると、乗物の引戸はするりと明いて、五十を越えたらしい裲襠姿の老女があらわれた。陸尺の直す草履を静かに穿いて彼女はまず喧嘩相手の一方をじろりと見た。見られたのは播磨である。彼も慌てて会釈した。

「おお、小石川の伯母上、どうしてここへ……」

「赤坂の菩提所へ仏参の帰り途によい所へ来合せました。天下の御旗本ともあるべき者が町人どもを相手にして達引とか達入とか、毎日々々の喧嘩沙汰はまこと見上げた心掛けじゃ。普段からあれほどいうて聞かしている伯母の意見も、そなたという暴れ馬の耳には念仏そうな、主が主なら家来までが見習うて、権次、権六、そち達も悪あがきが過ぎましょうぞ」

男まさりといいそうな老女の凛とした威風に圧し付けられて、鬼のような髭奴共も頭を抱えてうずくまって仕舞った。播磨も迷惑そうに黙って聴いていた。老女は播磨の伯母で、小石川に千二百石取の屋敷を構えている渋川伊織助の母の真弓であった。播磨は元服すると同時に父をうしない、つづいて母にも別れたので、彼の本当の親身というのは母の姉に当るこの老女のほかはなかった。渋川はその祖先なにがしが三方ガ原退口の合戦に花々しい討死を遂げたという名家で、当代の主人伊織助は従弟同士の播磨と殆ど同年配の若者であるが、その後見をする母の真弓は、天晴れ渋川の家風に養われた逞ましい気性の女であった。ことに亡き母の姉という目上の縁者でもあるので、さすが強情の播磨もこの伯母の前では暴れ馬の鼻嵐を吹く訳には行かなかった。彼は唯おとなしく叱られていた。

しかしそれは播磨と伯母との関係で、一方の相手には没交渉であった。四郎兵衛はもどかしそうにいった。

「お見受け申せば御大身の御後室様のようでござりますが、喧嘩のまん中へお越しなされて、何とかこのお捌きをお付けなさる思召でござりますか。それとも唯の御見物なら、もう少しお後へお退りくださりませ」

「差出た申分かは知りませぬが、この喧嘩はわたくしに預けては下さらぬか」と、真弓は静かにいった。「播磨はあとで厳しゅう叱ります。まあ堪忍して引いてくだされ」

「さあ」と、四郎兵衛は少し考えていた。

「御不承知とあれば強いてとは申しますまい。さりながら一旦かように口入いたした上は、聞き届けのない方がわたくしの相手、これも武家の習いで是非がござりませぬ」

こういい切られて、四郎兵衛もいよいよ困った。たといそれが武家の女にもせよ、町奴の中でも人に知られた放駒の四郎兵衛ともあろう者が、女を相手に腕ずくの喧嘩も出来ない。勝ったところで手柄にもならない。白柄組を相手の喧嘩はもとより出たとこ勝負で、あながちに今日に限ったことでもない。ここはこの老女の顔を立てて素直に手を引いた方が結句悧口かも知れないと思ったので、彼はいさぎよく承知した。

「では、お前様のお扱いに免じて、今日はこのまま帰りましょう」

「よく聞き分けて下された」と、真弓も嬉しそうにいった。「そんならおとなしゅう戻ってくださるか」

「まことに失礼をいたしました」

武家の老女と町奴の大哥分とは礼儀正しく会釈して別れた。四郎兵衛のあとについて、子分共も皆な立去ってしまった。人間の嵐の通り過ぎた後は俄にひっそりして、桜の花びらの静かにひらひらと舞い落ちるのが眼に着いた。

「これ、播磨」と、真弓は甥を見返った。「ここは往来じゃ。詳しいことは屋敷へ来た折にいいましょうが、武士たるものが町奴とかの真似をして、白柄組の神祇組のと、名を聞くさえも苦々しい。引くに引かれぬ武道の意地とか義理とかいうではなし、所詮は喧嘩が面白うて喧嘩をする。それが武士の手本になろうか。あぶれ者共のするような喧嘩商売は、今日かぎり思い切らねばなりませぬぞ。肯かねば伯母は勘当じゃ。判りましたか」

何といわれても、播磨はこの伯母が苦手であった。所詮頭はあがらぬものと諦めているらしく彼は伯母の前におとなしく降伏していると、真弓の裲襠姿はやがて再び乗物に隠されて、生肝でも取られたようにぼんやりしている奴どもを後に、麹町の方へしずかにその乗物を舁せて行った。

そのうしろ影を見送って、今までうずくまっていた主人と奴とはほっとしたように顔を見合せた。そうして、一度に大きく笑い出した。

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