Chapter 1 of 1

Chapter 1

それは、もう冬に近い、朝のことでした。一ぴきのとんぼは、冷たい地の上に落ちて、じっとしていました。両方の羽は夜露にぬれてしっとりとしている。もはや、とんぼには、飛び立つほどの元気がなかったのです。

昨日の夕方、彼は、この山茶花のところへ飛んできました。さびしくなった圃の方から夕日の光を身に受け、やってきて、この美しい、紅い花を見たときに、とんぼは、どんなに喜んだでありましょう。

「まだ、こんなに、美しい花が咲いているではないか。そう悲しむこともない。」と、思ったのでした。

彼は山茶花の葉の上に止まりました。そこにも、あたたかな夕日の光が、赤々として輝っていました。

「このごろ、あなたたちの姿を見ませんが、あなたは、おひとりですか?」と、山茶花はとんぼに向かって、たずねました。

「みんな、もういってしまったのです。」と、彼は、答えたが、さすがに、そのようすは、さびしそうであった。

ほんとうに、いつのまにか、こんなに、寂しくなったろう。ついこのあいだまで、やかましいくらい鳴いていたせみもいなくなれば、またとんぼの影も見えなくなったのでした。

「あなたは、どうして、ひとり残ったのですか。」と、山茶花は、けっして、悪いつもりではなく、思ったままをたずねました。

「私は、まだゆきたくないのです。もっと遊んでいたいのです。こうして、美しい花が咲いているのですもの……。」と、とんぼは答えた。

山茶花は、夕日に、赤い花弁をひらめかしながら、

「花といいましても、私は、冬にかけて咲く花なんですよ。あなたのお友だちで、私の姿を見ないものがたくさんあると思います。」といいました。

とんぼと山茶花は、それから、四方山の話をしているうちに、日はまったく暮れてしまった。花は、闇の中で、とんぼを見ることができなかった。その晩は、前日よりもさらに冷たかったのであります。

翌日、山茶花は、あたりが明るくなったときに、とんぼの止まっていたあたりを見ますと、そこには、小さな影が見えなかった。どうしたのだろう? と、花は、思ったのでした。

うすく湿った、地面に落ちたとんぼは、もう話しかけることすらできなければ、その身を運命にまかせるより、ほかになかったのでした。やがて、ありが、それを見つけたら、自分たちの巣の方へ引いてゆくでありましょう……。

このとき、お嬢さんが、窓から、山茶花を見ていましたが、げたをはいて、庭へ出てきて、木の下に立ったのです。

「日当たりがいいから、まあ、よく咲いたこと。」といって、花を指さきでつついていましたが、ふと足もとを見て、そこに、とんぼが落ちているのに気づくと、

「まあ、かわいそうに……。」といって、お嬢さんは、拾い上げました。

「きっと、昨夜、寒かったので、飛べなくなったのだわ。」

彼女は、どうかして、とんぼを元気づけて、飛ばしてやりたいと思いました。もし、自分の力で、それができたら、どんなにうれしいであろうと思いました。

「太陽が出て、あたたかになって、力がつきさえすれば飛べるわ。」と、お嬢さんは、いいました。そして、とんぼも、どんなにか飛べることを願ったでありましょう。

お嬢さんは、寒さのために、飛べなくなったとんぼを唇のところへ持ってきて、温かな息を幾たびも、幾たびもかけてやりました。とんぼは、体があたたまると、元気づきました。

「さあ、飛んでおゆき。」

お嬢さんは、最後に、もう一度、あたたかい息を吹きかけてやりました。とんぼは、彼女の手の中で、強く羽ばたきを打ったが、つういと、ふいに大空を目がけて飛び立ちました。

もはや、空には、太陽の光と熱とがみなぎっていました。とんぼは、ちょうど昨日、屈託も知らずに、遊んでいたように、圃へ降りると、そこで、ぼんやりと、また一日を過ごしたのでした。

とんぼにとっては、この一日は長かったのであります。しかし、その日もいつしか暮れかかったのでした。彼は、どこを見ても、友だちの影を見なかった。それをひじょうにさびしく思いました。

昨夜よりも、もっと冷たい、強い風が、どんよりと曇った空の下を吹いていました。とんぼは、しっかりと棒の先に止まって、風に吹き倒されまいとしていた。このとき、風は、とんぼに向かって、

「早く、あなたも、お友だちのいるところへおゆきなさい。私が、つれていってあげましょう……。」と、とんぼの耳にささやいたのでした。

とんぼは、嵐の言葉にふるえて、黙っていました。その晩、とんぼの小さな魂は、青い、青い空を、上へ、上へと駆けていました。遠方の、清らかに輝いている星の世界へと旅立ったのであります。

星の光は、それを迎えるように、にこにこと笑っていました。そして、うるんだ、美しい目で、じっと、下界を見下ろしながら、

「来年の夏まで、ここへきて、ゆっくり休むがいい。そしてまた来年になったら、そちらへ旅立つがいい。」といったのでした。

そんなことも知らず、お嬢さんは、木枯らしの吹く晩に、窓のところで、ピアノを弾いていました。ストーブのそばには、土を破ったばかりのヒヤシンスの鉢植えが置いてありました。この草がすがすがしい空色の花を咲くときは、春になるのでした。

冬と春とが、隣り合わせになって、もう間近にきていました。月日の流れは、このように速かったのでした。いま、お嬢さんは、無心でピアノを弾いていましたが、ふと手を休めて外をながめますと、雲切れのした空に、ぴかぴかと光る星が、葉の落ちつくした、林のいただきに見えたのでした。そして庭に咲いた山茶花が、ガラス窓をとおして、へやから射す燈火に、ほんのりと白く浮いていました。

「そう、そう、今朝、拾って、逃がしてやったとんぼは、今夜も、寒いが、どうしたでしょう……。」と、お嬢さんは思いました。

この世の中にいるときは、西から、東へと飛んで歩いたとんぼの羽は、もはや、いらなくなった。それを嵐は、おもしろそうに、もてあそんでいたのです。

そのうちに、嵐は、だんだんきちがいじみてきた。しまいに羽を捲き上げて、空中を落ち葉といっしょに、吹き飛ばしたのでした。

お嬢さんは、ふと、窓の外に、ちらと光るものを認めました。なんだろうと思って、見たときは、もう、闇の中に消えてしまったが、それは、とんぼの羽だったのでした。

――一九二七・一〇――

●図書カード

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