Chapter 1 of 1

Chapter 1

北方の海は、銀色に凍っていました。長い冬の間、太陽はめったにそこへは顔を見せなかったのです。なぜなら、太陽は、陰気なところは、好かなかったからでありました。そして、海は、ちょうど死んだ魚の目のように、どんよりと曇って、毎日、毎日、雪が降っていました。

一ぴきの親のあざらしが、氷山のいただきにうずくまって、ぼんやりとあたりを見まわしていました。そのあざらしは、やさしい心をもったあざらしでありました。秋のはじめに、どこへか、姿の見えなくなった、自分のいとしい子供のことを忘れずに、こうして、毎日あたりを見まわしているのであります。

「どこへいったものだろう……今日も、まだ姿は見えない。」

あざらしは、こう思っていたのでありました。

寒い風は、頻りなしに吹いていました。子供を失った、あざらしは、なにを見ても悲しくてなりませんでした。その時分は、青かった海の色が、いま銀色になっているのを見ても、また、体に降りかかる白雪を見ても、悲しみが心をそそったのであります。

風は、ヒュー、ヒューと音をたてて吹いていました。あざらしは、この風に向かっても、訴えずにはいられなかったのです。

「どこかで、私のかわいい子供の姿をお見になりませんでしたか。」と、哀れなあざらしは、声を曇らして、たずねました。

いままで、傍若無人に吹いていた暴風は、こうあざらしに問いかけられると、ちょっとその叫びをとめました。

「あざらしさん、あなたは、いなくなった子供のことを思って、毎日そこに、そうしてうずくまっていなさるのですか。私は、なんのために、いつまでも、あなたがじっとしていなさるのかわからなかったのです。私は、いま雪と戦っているのです。この海を雪が占領するか、私が占領するか、ここしばらくは、命がけの競争をしているのですよ。さあ、私は、たいていこのあたりの海の上は、一通りくまなく馳けてみたのですが、あざらしの子供を見ませんでした。氷の蔭にでも隠れて泣いているのかもしれませんが……。こんど、よく注意をして見てきてあげましょう。」

「あなたは、ごしんせつな方です。いくら、あなたたちが、寒く、冷たくても、私は、ここに我慢をして待っていますから、どうか、この海を馳けめぐりなさるときに、私の子供が、親を探して泣いていたら、どうか私に知らせてください。私は、どんなところであろうと、氷の山を飛び越して迎えにゆきますから……。」と、あざらしは、目に涙をためていいました。

風は、行く先を急ぎながらも、顧みて、

「しかし、あざらしさん、秋ごろ、猟船が、このあたりまで見えましたから、そのとき、人間に捕られたなら、もはや帰りっこはありませんよ。もし、こんど、私がよく探してきて見つからなかったら、あきらめなさい。」と、風はいい残して、馳けてゆきました。

その後で、あざらしは、悲しそうな声をたててないたのです。

あざらしは、毎日、風の便りを待っていました。しかし、一度、約束をしていった風は、いくら待ってももどってはこなかったのでした。

「あの風は、どうしたろう……。」

あざらしは、こんどその風のことも気にかけずにはいられませんでした。後からも、後からも、頻りなしに、風は吹いていました。けれど同じ風が、ふたたび自分を吹くのをあざらしは見ませんでした。

「もし、もし、あなたは、これから、どちらへおゆきになるのですか……。」と、あざらしは、このとき、自分の前を過ぎる風に向かって問いかけたのです。

「さあ、どこということはできません。仲間が先へゆく後を私たちは、ついてゆくばかりなのですから……。」と、その風は答えました。

「ずっと先へいった風に、私は頼んだことがあるのです。その返事を聞きたいと思っているのですが……。」と、あざらしは、悲しそうにいいました。

「そんなら、あなたとお約束をした風は、まだもどってはこないのでしょう。私が、その風にあうかどうかわからないが、あったら、言伝をいたしましょう。」といって、その風も、どこへとなく去ってしまいました。

海は、灰色に、静かに眠っていました。そして、雪は、風と戦って、砕けたり、飛んだりしていました。

こうして、じっとしているうちに、あざらしはいつであったか、月が、自分の体を照らして、

「さびしいか?」といってくれたことを思い出しました。そのとき、自分は、空を仰いで、

「さびしくて、しかたがない!」といって、月に訴えたのでした。

すると、月は、物思い顔に、じっと自分を見ていたが、そのまま、黒い雲のうしろに隠れてしまったことをあざらしは思い出したのであります。

さびしいあざらしは、毎日、毎夜、氷山のいただきに、うずくまって我が子供のことを思い、風のたよりを待ち、また、月のことなどを思っていたのでありました。

月は、けっして、あざらしのことを忘れはしませんでした。太陽が、にぎやかな街をながめたり、花の咲く野原を楽しそうに見下ろして、旅をするのとちがって、月は、いつでもさびしい町や、暗い海を見ながら旅をつづけたのです。そして、哀れな人間の生活の有り様や、飢えにないている、哀れな獣物などの姿をながめたのであります。

子供をなくした、親のあざらしが、夜も眠らずに、氷山の上で、悲しみながらほえているのを月がながめたとき、この世の中のたくさんな悲しみに、慣れてしまって、さまで感じなかった月も、心からかわいそうだと思いました。あまりに、あたりの海は暗く、寒く、あざらしの心を楽しませるなにもなかったからです。

「さびしいか?」といって、わずかに月は、声をかけてやりましたが、あざらしは、悲しい胸のうちを、空を仰いで訴えたのでした。

しかし、月は、自分の力で、それをどうすることもできませんでした。その夜から、月はどうかして、この憐れなあざらしをなぐさめてやりたいものと思いました。

ある夜、月は、灰色の海の上を見下ろしながら、あのあざらしは、どうしたであろうと思い、空の路を急ぎつつあったのです。やはり、風が寒く、雲は低く氷山をかすめて飛んでいました。

はたして、哀れなあざらしは、その夜も、氷山のいただきにうずくまっていました。

「さびしいか?」と、月はやさしくたずねました。

このまえよりも、あざらしは、幾分かやせて見えました。そして、悲しそうに、空を仰いで、

「さびしい! まだ、私の子供はわかりません。」といって、月に訴えたのであります。

月は、青白い顔で、あざらしを見ました。その光は、憐れなあざらしの体を青白くいろどったのでした。

「私は、世の中のどんなところも、見ないところはない。遠い国のおもしろい話をしてきかせようか?」と、月は、あざらしにいいました。

すると、あざらしは、頭を振って、

「どうか、私の子供が、どこにいるか、教えてください。見つけたら知らしてくれるといって約束をした風は、まだなんともいってきてはくれません。世界じゅうのことがわかるなら、ほかのことはききたくありませんが、私の子供は、いまどこにどうしているか教えてください。」と、あざらしは、月に向かって頼みました。

月は、この言葉をきくと黙ってしまいました。なんといって答えていいか、わからなかったからです。それほど、世の中には、あざらしばかりでなく、子供をなくしたり、さらわれたり、殺されたり、そのような悲しい事件が、そこここにあって、一つ一つ覚えてはいられなかったからでした。

「この北海の上ばかりでも、幾ひきの子供をなくしたあざらしがいるかしれない。しかし、おまえは、子供にやさしいから一倍悲しんでいるのだ。そして、私は、それだから、おまえをかわいそうに思っている。そのうちに、おまえを楽しませるものを持ってこよう……。」と、月はいって、また雲のうしろに隠れました。

月は、あざらしにした、約束をけっして忘れませんでした。ある晩方、南の方の野原で、若い男や、女が、咲き乱れた花の中で笛を吹き、太鼓を鳴らして踊っていました。月は、この有り様を空の上から見たのであります。

これらの男女は、いずれも牧人でした。もうこの地方は、暖かで、みんなは畑や、田に出て耕さなければなりませんでした。一日野らに出て働いて、夕暮れになると、みんなは、月の下でこうして踊り、その日の疲れを忘れるのでありました。

男どもは、牛や、羊を追って、月の下のかすんだ道を帰ってゆきました。女たちは、花の中で休んでいました。そして、そのうちに、花の香りに酔い、やわらかな風に吹かれて、うとうとと眠ってしまったものもありました。

このとき、月は、小さな太鼓が、草原の上に投げ出してあるのを見て、これを、哀れなあざらしに持っていってやろうと思ったのです。

月が、手を伸ばして太鼓を拾ったのを、だれも気づきませんでした。その夜、月は、太鼓をしょって、北の方へ旅をしました。

北の方の海は、依然として銀色に凍って、寒い風が吹いていました。そして、あざらしは、氷山の上に、うずくまっていました。

「さあ、約束のものを持ってきた。」といって、月は、太鼓をあざらしに渡してやりました。

あざらしは、その太鼓が気にいったとみえます。月が、しばらく日をたって後に、このあたりの海上を照らしたときは、氷が解けはじめて、あざらしの鳴らしている太鼓の音が、波の間からきこえました。

――一九二五・三作――

●図書カード

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