Chapter 1
崖からたれさがった木の枝に、日の光が照らして、若葉の面が流れるように、てらてらとしていました。さびしい傾斜面に生えた、草の穂先をかすめて、ようやく、この明るく、広い世界に出たとんぼが、すいすいと気ままに飛んでいるのも、なんとなく、あたりがひっそりとしているので、さびしく見られたのであります。
年とった工夫が、うつむきながら、線路に添うて歩いていました。若い時分から、今日にいたるまで働きつづけたのです。元気で、よく肥っていた体は、だんだんやせてきました。そして、一時のように、重いものを持ったり、終日働きつづけるというようなことは、いまでは困難を感じられたのであります。
青い色の服の下に、半生の経験と悩みと生活に堪えてきた体が、日に焼けて、汗ばんでいました。
どこかで、無心にせみが唄をうたっている声がしています。たぶん、あちらの嶺の上に生えている赤松のこずえのあたりであると思われました。
日の光がみなぎった、外界は、いまこんな光景を写し出していたが、トンネルの内の世界は、また格別でありました。そこへは、永久に日の光というものが射し込んではきませんでした。
ひやりとした冷たい風が、どこからともなく吹いてきて、闇の中を過ぎていきます。それは、沈黙の世界に、なにか気味悪い思い出をそそらせようとするものでした。
この闇の中に、ただ一つ生きているもののごとく思われたものがあります。それは、半丁おきごとに点されている電燈でありました。
その光の弱い電燈は、闇の中をわずかに円く一部分だけ切り抜いたもののように、ほんのりと明るく浮き出していました。
この電燈の光は、生物の体内にある心臓のようなものです。点りはじめたときがあって、また終わりがあるのです。だれも、それを点けたり、消したりするものがないのだから、こうして点っているときは、電燈が生きているのでした。そして、暗く消えたときは、この電燈が死んだときなのであります。
冷たい風は、おびやかすように、電燈の面をなでていきました。心臓が規則正しく、生物の胸で打っている間に、いろいろな怖ろしい脅迫が肉体を襲うようなものです。しかし、電燈はあいかわらず、またたきもせずに点っていました。
このとき、年とった工夫は、トンネルの入り口にさしかかったのです。彼は、注意深く足もとを見つめて、一歩、一歩、拾うようにして、闇のうちへ吸い込まれるようにはいってきました。
ひじょうに長くもなかったから、彼は、このトンネルを、あちらに抜けようとしていたのであります。闇の中を歩いてきた工夫は、一つの電燈の下にくると、歩みを止めたのでした。そして、しばらく、ぼんやりとして、電燈をながめたのでした。
彼は、電燈がうらやましかったのです。すべての煩わしい外界からさえぎられて、この暗いけれど安全な、トンネルの中で、じっとして静かな生活を送っていることは、なんというしあわせな身の上であろうと思われたからです。
彼は、もう、世の中の刺戟には、堪えられなくなりました。また、いろいろな喜悲劇を見るのが煩わしくなりました。そこには、平和というもの、公正というものが、まったくなかったからです。
たとえ、気味の悪い、冷たい風が、いつか彼に対しても、すべてのものの終滅を思い出させるように、顔をなでていったけれど、工夫には、気づかないことでした。そして、電燈は、静かに、なんの屈托もなくじっとしていられると思ったからです。
生活に疲れた、哀れな老工夫は、自分も、この電燈でありたいと考えました。それは、寂しい生活であったにちがいない。朝から晩まで、昼から夜まで――いや、そういう区別もなく、永久に、暗く、ただ、見得るかぎりの世界というものは、切り削られた赤土の断層の一部分と煉瓦の堆積と、その割れめからわき出して、滴り流れている、清らかな水のほかには、なにもなかった。けれど、これでたくさんだという気になったのであります。
なんという単調で、変化のない光景であったでしょう。よくも、電燈が、こうして、同じ光景を照らし、また見つめているものだと考えられました。しかし、老工夫は、休息を欲していた。自分は、もうなんにも刺戟を欲しない。またたいした欲望もない。ただ、平静にじっとしていたい。この電燈が、自分であったら、自分は、どんなに幸福であろう……と思ったのでした。
老工夫は、まだぼんやりとして、電燈を中心に、周囲の光景をながめていました。すべてが、じっとして、動かない。ただ、動いているものは、水の流ればかりでした。彼は、いま、光を受けて、銀か、水晶の粒のように断層から、ぶらさがって、煉瓦に伝わろうとしている水の雫を見ていました。
刹那、どうしたことか、彼は、この光景とは、なんら関係のない、べつな光景が目に浮かんだのであります。
広々とした畑が、水の雫の中に宿っていました。しかも、無限に、深く、深く、遠く、遠く、その雫の中に拓けていたのです。その畑には、真っ黄色な、かぼちゃの花がいくつも咲いていた。咲いている花の蕊の中から、蜜を吸おうと、大きな、黒いはちが花の中へはいった。彼は、そのはちをいじめてやろうと、歩み寄って、ふいに四方から花弁を閉じてしまった。花の中では、かすかな、はちのうなりが、遠い、遠い、音楽を聞くように、空気を伝って、耳にはいってくる――彼は、自分が子供の時分の、あの日のことを思い出したのでした。
「どうして、こんなことを、いま、トンネルの内で思い出したろう……。」
ふたたび帰らない生活と自由を、彼は、慕ったのでした。
せめて、昔のような、子供に返られないものなら、この電燈のように、世間の煩わしさから離れて、静かに、じっとしていたいものだと、老労働者は空想していたのです。
けっして、瞬きするはずのない、電燈の光が揺らめいた!
はっと思って、その一点を凝視すると、一ぴきのとかげが、かえるをくわえて、すぐ火の近くの煉瓦の壁に、どこからかはい出てきたのでした。
彼は、場所がら、真にあり得べからざる光景を見るものだと思い、息を殺して、子細に見ていると、小さなかえるは、まだ生きていて、万死の中から、逃れたいと四つ足をぴくぴくもがいていたのです。
とかげは、そこに、人間が立っているとは思わなかったらしく、しばらく目を光らしながら、相手のけはいをうかがっていました。この際、獲物をくわえたまま走ったほうがいいか、それとも人間が、まだ気づいていなかったら、じっとして機会を待ったほうが、いっそう賢明ではないかと考えているごとくに見られたのであります。
老工夫は、この狡猾な、暴虐者の心理を悟ると、このままにしておけない気がしたのでした。
「呪わば穴二つだ!」と、彼は、いいながら、石塊を投げつけて、一撃のもとに、かえるもとかげももろともに粉砕して、目の前の忌まわしい光景を払拭しようと気が焦ったのです。彼が、石を探しているときでした。トンネルの入り口で汽笛がしました。あわてて、彼は、ぴたりとトンネルの煉瓦の壁に身をつけると、すさまじいひびきをたてて汽車は通過しました。そして、後には、濛々として、黒煙が息づまるほど、立ちこめて、電燈の蔭でうずを巻いていたのです。
黒煙がやっと消えて、ふたたびあたりが見えたときには、もはや、そこにとかげはいなかったのでした。
――一九二六・五作――
●図書カード