Chapter 1 of 5

リオの軽口師

折竹孫七が、ブラジル焼酎の“Pinga”というのを引っさげて、私の家へ現われたのが大晦日の午後。さては今日こそいよいよ折竹め秘蔵のものを出すな。このブラジル焼酎を飲りながらアマゾン奥地の、「神にして狂う」河の話をきっとやるだろう……と私は、しめしめとばかりに舌なめずりをしながら、彼の開口を待ったのである。

ところが、その予想ががらっと外れ、意外や、題を聴けば「水棲人」。私も、ちょっと暫くは聴きちがいではないかと思ったほどだ。

「君、そのスイセイとは、水に棲むという意味かね」

「そうとも」と彼は平然と頷く。しかし、人類にして水棲の種族とは、いかになんでもあまりに与太すぎる。こっちが真面目なだけに腹もたってくる。

「おいおい、冗談もいい加減にしろ」と、私もしまいにはたまらなくなって、言った。「人間が、蛙や膃肭獣じゃあるまいし、水に棲めるかってんだ。サアサア、早いところ本物をだしてくれ」

すると、折竹はそれに答えるかわりに、包みをあけて外国雑誌のようなものを取りだした。Revistra Geografica Americana――アルゼンチン地理学協会の雑誌だ。それを折竹がパラパラとめくって、太い腕とともにグイと突きだしたページには、なんと、“Incola palustris”沼底棲息人と明白にあるのだ。私は、折竹の爆笑を夢の間のように聴きながら、しばしは茫然たる思い。

「ハハハハハ、魔境やさんが、驚いてちゃ話にもならんじゃないか。どれ、この坊やをおろして、本式に話すかね」

折竹の膝には、私の子の三つになるのが目を瞠っている。ターザンのオジサンという子供の人気もの――折竹にはそういう反面もある。童顔で、いまの日本人には誰にもないような、茫乎とした大味なところがある。それに加えて、細心の思慮、縦横の才を蔵すればこそ、かの世界の魔境未踏地全踏破という、偉業の完成もできたわけだ。その第五話の「水棲人」とは?……折竹がやおら話しはじめる。

「ところで、これは僕に偶然触れてきたことなんだ。『神にして狂う』河攻撃の計画の疎漏を、僕が指摘したので一年間延びた。そのあいだ、ぶらぶらリオ・デ・ジャネイロで遊んでいるうちに、偶然『水棲人』に招きよせられるような、運命に捲きこまれることになった。

えっ、その水棲人とはどこにいるって まあまあ、急かせずにブラジル焼酎でも飲んでだね、リオの秋の四月から聴きたまえ」

リオの、軟微風とはブラジル人の自慢――。

棕梠花のにおいと、入江の柔かな鹹風とがまじった、リオの秋をふく薫風の快よさ。で今、東海岸散歩道の浮カフェーからぶらりと出た折竹が、折からの椰子の葉ずれを聴かせるその夕暮の風を浴びながら、雑踏のなかを丘通りのほうへ歩いてゆく。その通りには、「恋鳩」「処女林」と、一等船客級をねらうナイトクラブがある。

「ううい、処女林か。処女林なんてえ名は、どこにもあると見える」

と彼は、蹣跚というほどではないが相当の酔心地、ふらふら「恋鳩」の裏手口を過ぎようとした時に……。いきなり内部から風をきって、彼の前へずしりと投げだされたものがある。みると、一つのスーツケース。とたんに奥で、癇だかい男のどなり声がする。

「さあさあ、出てけ出てけ。君みたいな芸なし猿に稼がれてちゃ、沽券に係わるよ。さあ、出ろ!」

皆さんは、よくこうした場面を映画でご覧になる。お払い箱というときは襟首をつままれて、腰骨を蹴られてポンと抛りだされるが、これも挙措動作がひじょうな誇張のもとに行われる、南米のラテン型の一つ。おやおや、ここの芸人が一人お払い箱になるらしい。どんな奴だ、さだめし肩をすぼめて悄んぼりと出てくるだろうと――多少酔いも手伝った折竹が、そのスーツケースを手にもって、いま現われるかと入口を見守っていたのだ。

まったく、こうして佇んだ数秒間さえなければ、かの怪奇の点では奥アマゾンを凌ぐといわれる、水棲人のすむあの秘境へはゆかなかったろうに。Esteros de Patino――すなわち「パチニョの荒湿地」といわれる魔所。

まもなく、その入口をいっぱいに塞いでしまいそうな、大男が悠然と現われた。舗道へ降りると、ちょっと足もとのあたりを一、二度見廻していたが、すぐ折竹に気がついたらしく、

「やあ大将、拾っといてくれたね」

「番をしてたよ。どうせ、出てけ――を喰わされるようじゃ、だいじな財産だろう。さあ、たしかにお渡ししたよ」

しかし、此奴がと思うとじつに意外な気持。猫のように摘みだされた失業芸人とは、およそ想像もされぬ態の人物。肩付きの逞しさは閂のよう、十分弾力を秘めたらしいひき締った手肢、身長、肉付き、均斉といい理想的ヘルメス型の、この男には男惚れさえしよう。

それに、服装をみればおそろしい古物――どこにもクラブ稼ぎの芸人といったようなところはない。違ったか、渡してしまったしとんだことをしたと、折竹も気になってきて、

「だが、たしかに君のだね」

「ハッハッハッハ、大将は聴いてたんだろうが」

とその男はカラカラと笑うのだ。

「あの、俺に出てけ出てけといった、キイキイ声の奴な、あれが、ここの支配人でオリヴェイラってんだ。俺は、あのチビ公に腰を折ってだね、どうか御支配人、ながい目で頼む。きっと、今夜から大受けにしてみせると、言ったんだが聴いちゃくれない。もっとも、理屈は向うにあるだろうがね」

陽気で、早口で、どこをみても、お払い箱早々というような、行き暮れたところがない。顔も、駄々っ子駄々っ子してダグラスそっくり。声まで彼に似て、豪快に響いてくる。

「俺は、女形をやれる軽口師という触れこみで、つい四日ほどまえ『恋鳩』に雇われた。初舞台――。ご婦人の下着などを取りだして、すっきりと笑わせる。と、行ってくれりゃ何のこたあなかったよ」

「引っ込め――か」

「いわれたよ。しかし、ものというのは、とりようだと思う。俺がずぶの素人でいてやかまし屋の『恋鳩』の舞台を、よく三晩も保ったかと思えば、われながら感心するよ」

「驚いた」と折竹も呆れかえって、

「君は、軽口師のガの字も知らんのじゃないか」

「そうとも、窮すればなんでもするよ。浪人数十回となれば、女中にもなれる」

そう言って、とっぷり暮れた夜気を一、二回吸い、暫く、空の星をつくねんとながめていたが、急に、なにかに気付いたらしく、くるっと振りむいた。彼は、ぜひ大将に話したいことがある。それには、ここじゃ何だから彼方でといって、ぐいぐい折竹を急き立てて、向うの小路へ入っていった。

「なんだね」

「じつは、大将にこれを見て貰いたい」とポケットからだしたその男の掌には、キラキラ光る粒が二、三粒転がっている。手にとると、まだ磨かれていないダイヤの原石。大きさは、まあ十カラットから二十カラットぐらいだろうが……、それよりも、掘りだしたままの土の手触りが、折竹にはじつに異様であった。彼は、手にとった石をあっさりと返して、

「君、これは盗ったやつかね。それとも脱税品か」

「マア、言や後のほうだろう。ところで、見受けたところ大将は、日本人らしい。日本人でも、サントスやサン・パウロにいるならお移民さんだが、リオにおいでのようじゃ大使館だね。まったく、どこの税関でもお関いなしに通れる、結構なご身分というもんさ。こっちも、そういう御仁相手でなけりゃ話しても無駄だし、また、大将なら乗ってくれるだろう。どうだ、いい値で売るが、いくらに付ける」

しかしその時、折竹は一つの石をじっと見詰め、じつにブラジル産にしては稀ともいいたい、その石の青色に気を奪われていた。小石ならともかくこうした大型良品にあって、美麗な瑠璃色を呈すとは、じつに珍しい。ブラジル産にはけっしてないことである。

「君、これはブラジルのじゃないね。南阿かね、英領ギニアかね」

「どうして、泥のついた掘りたてのホヤホヤだ。といって、ブラジルでもなし蘭領ギアナでもない。こいつは、おなじ南米でも新礦地のもんだ」

出様によっては、なにかそれに就いて言い出したかもしれないが、あいにく折竹はダイヤなどというものに、熱や興味をいだくような、そんな性格ではない。その男も、折竹の態度にアッサリとあきらめて、もとのポケットへポンと突っこんでしまったのだ。

「これはね、じつは俺には宝のもち腐れなんだ。この国は、脱税品がじつにやかましい。うっかり持っていようものなら、捕まってしまうんだよ」と、いよいよさようならというようにニッコリ笑い、一、二歩ゆきかけたが、立ちどまって空を仰いだ。おおらかに、胸をはり嘯くように言う。

「はてさて、俺も追ん出されて行き暮れにけり――か。颯爽と、乞食もよし、牧童もよし」

男の魅力が、時として女以上のものである場合がある。ここでも、これなりこの奇男子と別れたくないような気持が、折竹にだんだん強くなってきた。

警抜なる挙措、愛すべき図々しさ。なんという、スッキリとした厭味のないやつだろう。しかし、この男が何者かということは、ほぼ彼に想像がついていたのだ。泥坊か、密輸入者か故買者か。どうせ、素姓のしれぬダイヤなどを持つようではそんな類いだろうが、とにかく、なんにもせよ気に入った奴だと、一度打ち込めば飲ませたくなるのが、折竹のような生酔いの常。

「どうだ、一杯やるが付き合うかね」

「酒」と、その男は飛びあがるような表情。「せめて、飯とも思っていたのに、酒とは有難い。有難い。大将、このとおりだ」

それから、リオ・ブランコ街の一料亭へいったのが始まり、それが、水棲人に招かれる奇縁の因となるのである。

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