Chapter 1 of 13

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潜航艇「鷹の城」

小栗虫太郎

第一編 海底の惨劇

一、海―武人の墓

それは、夜暁までに幾ばくもない頃であった。

すでに雨は止み、波頭も低まって、その轟きがいくぶん衰えたように思われたが、闇はその頃になるとひとしおの濃さを加えた。

その深さは、ものの形体運動のいっさいを呑み尽してしまって、その頃には、海から押し上がってくる、平原のような霧があるのだけれど、その流れにも、さだかな色とてなく、なにものをも映そうとはしない。

ただ、その中をかい間ぐって、ときおり妙に冷やりとした――まるで咽喉でも痛めそうな、苦ほろい鹹気が飛んでくるので、その方向から前方を海と感ずるのみであった。

しかし、足もとの草原は、闇の中でほう茫と押し拡がっていて、やがては灰色をした砂丘となり、またその砂丘が、岩草の蔓っているあたりから険しく海に切り折れていて、その岩の壁は、烈しく照りつけられるせいか褐色に錆びついているのだ。

しかし、そういった細景が、肉の眼にてんで映ろう道理はないのであるが、またそうかといって闇を見つめていても、妙に夜という漆闇の感じがないのである。というのは、そのおり天頂を振りあおぐと、色も形もない、透きとおった片雲のようなものが見出されるであろう。

その光りは、夢の世界に漲っているそれに似て、色の褪せた、なんともいえぬ不思議な色合いであるが、はじめは天頂に落ちて、星を二つ三つ消したかと思うと、その輪形は、いつか澄んだ碧みを加えて、やがては黄道を覆い、極から極に、天球を涯しなく拡がってゆくのだ。

いまや、岬の一角ははっきりと闇から引き裂かれ、光りが徐々に変りつつあった。

それまでは、重力のみをしんしんと感じ、境界も水平線もなかったこの世界にも、ようやく停滞が破られて、あの蒼白い薄明が、霧の流れを異様に息づかせはじめた。すると、黎明はその頃から脈づきはじめて、地景の上を、もやもやした微風がゆるぎだすと、窪地の霧は高く上り、さまざまな形に棚引きはじめるのだ。そして、その揺動の間に、チラホラ見え隠れして、底深い、淵のような黝ずみが現われ出るのである。

その、巨大な竜骨のような影が、豆州の南端――印南岬なのであった。

ところがそのおり、岬のはずれ――砂丘がまさに尽きなんとしているあたりで、ほの暗い影絵のようなものが蠢いていた。

それは、明けきらない薄明のなかで、妖しい夢幻のように見えた。ときとして、幾筋かの霧に隔てられると、その塊がこまごま切りさかれて、その片々が、またいちいち妖怪めいた異形なものに見えたりして、まこと、幻のなかの幻とでもいいたげな奇怪さであった。

けれども、その不思議な単色画は疑いもない人影であって、数えたところ十人余りの一団だった。

そして、いまや潜航艇「鷹の城」の艇長――故テオバルト・フォン・エッセン男の追憶が、その夫人ウルリーケの口から述べられようとしている。

しかし、その情景からは、なんともいえぬ悲哀な感銘が眼を打ってくるのだった。海も丘も、極北の夏の夜を思わせるような、どんよりした蒼鉛一味に染め出されていて、その一団のみが黒くくっきりと浮び上がり、いずれも引き緊った、悲痛な顔をして押し黙っていた。

そのおり、海は湧き立ち泡立って、その人たちにあらんかぎりの威嚇を浴せた。荒けあとの高い蜒りが、岬の鼻に打衝かると、そこの稜角で真っ二つに截ち切られ、ヒュッと喚声をあげる。そして、高い潮煙が障壁から躍り上がって、人も巌も、その真白な飛沫をかぶるのだった。

風も六月の末とはいえ、払暁の湿った冷たさは、実際の寒気よりも烈しく身を刺した。しかも、岬の鼻に来てはすでに微風ではなく、髪も着衣も、なにか陸地の方に引く力でもあるかのよう、バタバタ帆のようにたなびいているのだ。

人たちは、いずれも両脚を張ってはいるが、ともすると泡立つ海、波濤の轟き、風の喊声に気怯じがしてきて、いつかはこの蒼暗たる海景画が、生気を啜りとってしまうのではないかと思われた。

しかし、その一団は、はっきりと二つの異様な色彩によって区分されていた。

と云うのは、まことに物奇しい対象であるが、夫人と娘の朝枝以外の者は、七人の墺太利人と四人の盲人だったからである。

そのうち七人の墺太利人は、いずれも四十を越えた人たちばかりで、なかには、指先の美しい音楽家らしいのもいた。また、髭の雄大な退職官吏風の者もいて、顳のあたりに、白い房を残した老人が二つ折れになっているかと思えば、また、逞しい骨格を張った傷病兵らしいのが、全身を曲った片肢で支えているのもあって、服装の点も区々まちまちであった。

しかし、誰しもの額や顳には、痛ましい憔悴の跡が粘着りついていて、着衣にも労苦の皺がたたまれ、風がその一団を吹き過ぎると、唇に追放者らしい悲痛なはためきが残るのだった。

また、盲人の一群は、七人の向う側に立ち並んでいて、そのぎごちない身体つきは、神秘と荒廃の群像のように見えた。

もはや眼以外の部分も、生理的に光をうけつけなくなったものか、弱った盲目蛆のように肩と肩を擦り合わせ、艶の褪せた白い手を互いに重ねて、絶えず力のない咳をしつづけていた。

しかし、この奇異な一団を見れば、誰しも、一場の陰惨な劇を、頭の中でまとめあげるのであろう。

あの黒眼鏡を一つ一つに外していったなら、あるいはその中には、天地間の孤独をあきらめきった、白い凝乳のような眼があるかもしれないが、おそらくは、眼底が窺えるほどに膿潰し去ったものか、もしくは蝦蟇のような、底に一片の執念を潜めたものもあるのではないかと思われた。

が、いずれにもせよ、盲人の一団からは、故しらぬ好奇心が唆られてくる。そしていまにも、その悲愁な謎を解くものが訪れるのではないかと考えられた。

その四人は朝枝を加えて、やや金字塔に近い形を作っていた。

と云うのは、中央にいる諾威人の前砲手、ヨハン・アルムフェルト・ヴィデだけがずば抜けて高く、それから左右に、以前は一等運転士だった石割苗太郎と朝枝、そして両端が、現在はウルリーケの夫――さきには室戸丸の船長だった八住衡吉に、以前は事務長の犬射復六となっているからだった。

そのヴィデは、はや四十を越えた男であるが、丈は六尺余りもあって、がっしりとした骨格を張り、顔も秀でた眼鼻立ちをしていた。亜麻色の髪は柔らかに渦巻いて、鼻は鷹の嘴のように美しいが、絶えず顔を伏目に横へ捻じ向けていた。その沈鬱な態度は、盲人としての理性というよりも、むしろ底知れない、こころもち暗さをおびた品位であろう。

ところが、ヴィデの頸から上には、生理的に消しがたい醜さが泛んでいた。頬には、刀傷や、異様な赤い筋などで、皺が無数にたたまれているばかりでなく、兎唇、瘰癧、その他いろいろ下等な潰瘍の跡が、頸から上をめまぐるしく埋めているのだった。

それらは、疾病放縦などの覆い尽せない痕跡なのであろうが、一方彼が常に、砲手として船に乗るまでは数学者だった――などというところをみると、そのかずかずの醜さは、とうてい彼の品位が受け入れるものとは思われなかった。

むしろ、その奇異な対象から判断して、事実はその下に、美しい人知れない創があって、それを覆うている瘤というのが、あの忌わしい痕のように考えられもするので、もしそうだとすると、ヴィデには二つの影があらねばならなくなるのだった。

それから、犬射復六は小肥りに肥った小男で、年配はほぼヴィデと同じくらいであるが、一方彼は詩才に長け、広く海洋の詩人として知られている。

柔和な双顎の上は、何から何まで円みをおびていて、皮膚はテカテカ蝋色に光沢ばんでいる。また唇にはいつも微かな笑いが湛えられていて、全身になんともいえぬ高雅な感情が燃えているのだった。

それに反して石割苗太郎は、神経的な、まるで狐みたいな顔を持っていた。

彼は即座に感情を露わして、その皮膚の下に、筋肉の反応がありありと見えるくらいであるが、その様子はむしろ狂的で悲劇的で、絶えず彼は、自分の頓死を気づかっているのではないかと思われた。

しかし、最後の八住衡吉となると、誰しもこれが、ウルリーケの夫であるかと疑うに相違ない。

それは、世にも痛ましく、浅ましいかぎりであったからだ。衡吉ははや六十を越えて、その小さな身体と大きな耳、まるい鼻には、どこか脱俗的なところもあり、だいたいが人の良い堂守と思えば間違いはない。

ところが、その髪を仔細に見ると、それも髭も玉蟲色に透いて見えて、どうやら染められているのに気がつくだろう。そうして、愚かしくも年を隠そうとしていることは、一方に二十いくつか違う、妻のウルリーケを見れば頷かれるが、事実にも衡吉は、不覚なことに老いを忘れ、あの厭わしい情念の囚虜となっているのだった。

その深い皺、褪せた歯齦を見ると、それに命を取る病気の兆候を見出したような気がして、年老いて情慾の衰えないことが、いかに醜悪なものであるか――如実に示されていた。

そのせいか、大きな花環を抱いているそのすがたにも、どこか一風変った、感激とでも云いたいものがあって、おそらく思慮や才智も、充分具えているに違いないが、同時にまた、痴呆めいた狂的なものも閃いているのだった。

そうして、以前はその四人が、同じ室戸丸の高級船員だったことが明らかになれば、ぜひにも読者諸君は、それと失明との関係に、大きな鎖の輪を一つ結びつけてしまうに相違ない。

そのおりウルリーケは、静かに列の間を、岬の鼻に向って歩んでいった。

ウルリーケが立ち止まって、波頭の彼方を見やったとき、その顔には、影のような微笑が横切った。それはごく薄い、やっと見えるか見えないぐらいの、薄衣のようなものだったが、しばし悲しい烙印の跡を、覆うているかのように見えた。

ウルリーケは、見たところ三十がらみであるが、実際は四十に近かった。

のみならず、その典型的な北欧型といい、どうみても彼女は、氷の稜片で作り上げられたような女だった。生え際が抜け上がって眉弓が高く、その下の落ちくぼんだ底には、蒼い澄んだ泉のような瞳があった。

両端が鋭く切れすぎた唇は、隙間なくきりりと締っていて、やや顎骨が尖っているところといい、全体としては、なにかしら冷たい――それが酷いほどの理性であるような印象をうけるけれども、また一面には、氷河のような清冽な美しさもあって、なにか心の中に、人知れぬ熾烈な、狂的な情熱でも秘めているような気もして、おりよくその願望が発現するときには、たちまちその氷の肉体からは、五彩の陽炎が放たれ、その刹那、清高な詩の雰囲気がふりまかれそうな観も否めないのだった。

しかし、ウルリーケのすらっとした喪服姿が、おりからの潮風に煽られて、髪も裾も、たてがみのように靡いているところは、どうして、戦女とでも云いたげな雄々しさであった。

空は水平線の上に、幾筋かの土堤のような雲を並べ、そのあたりに、色が戯れるかのごとく変化していった。彼女はしばらく黙祷を凝らしていたが、やがて、波間に沈んだ声を投げた。

その言葉はかずかずの謎を包んで神秘の影を投げ、しばらくはこの岬が、白い大きな妖しげな眼の凝視の下にあるかのようであった。

「いつかの日、私はテオバルト・フォン・エッセンという一人の男を知っておりました。その男は、墺太利海軍の守護神、マリア・テレジヤ騎士団の精華と謳われたのですが、また海そのものでもあったのですわ。

ああ貴方! あの日に、貴方という竪琴の絃が切れてからというものは……それからというもの……私は破壊され荒され尽して、ただ残滓と涙ばっかりになった空虚な身体を、いま何処で過ごしているとお思いになりまして。

私は、貴方との永くもなかった生活を、この上もない栄誉と信じておりますの。だって貴方は、怖れを知らぬ武人――その方にこよなく愛されて、それに貴方は、墺太利全国民の偶像だったのですものね。

ところが、あの日になって、貴方は急に海から招かれてしまったのです。

というのも、貴方が絶えずお慨きになっていたように、なるほど軍司令部の消極政策も、おそらく原因の一つだったにはちがいないでしょうが、もともといえば、貴方お一人のため――その一人の潜航艇戦術が伊太利海軍に手も足も出させなかったからです。

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