Back
潜航艇「鷹の城」
Table of Contents
潜航艇「鷹の城」
小栗虫太郎
Reading Settings
Font size
18px
Theme
Light
Dark
Sepia
Eye care
Line spacing
Reading mode
Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 8 of 13

8

「遺憾ですが――法水さん、それは僕の洒落じゃありませんよ」

とどこか皮肉な調子ながら、悲しげに云い返した。

「いや、それどころじゃない、怖ろしい空想です。そんなことから、この事件はいっそう面倒なものになりましょう」

「僕は、そうとはけっして思いませんがね」

法水は、力をこめて、相手をさぐるように見た。

「それがこの事件に、ある種の解決をもたらすでしょう」

「驚いた。何のことか、僕にはさっぱり分らん」

犬射は混乱して、あやうく自制を失いかけたが、ただ声を顫わせるのみで、かろうじて踏みとどまった。

「あなたは、これが実務だということを忘れていらっしゃる。陰気な、間違えば、ひとを引摺り込むような、危険な遊戯に耽っておられる。いったい、なんです。たかが、伝説じゃありませんか、それが、この屍体の流血になんの関係があります!?」

「われわれには、そうと信じてよい立派な理由があるのですよ。伝説にも、犬射さん、いろいろありますからね」

法水は、冷静そのもののごとく、どうやら、語気にも誘いの気配が見受けられた。

「ハハハハ、『ニーベルンゲン伝説』の講釈なら、僕からあなたに、お聴かせしてもかまいませんがね。しかし、一言御注意だけしておきますが、これがもし私でないとしたら……。もし、さっき近よったときの貴方だとしたら、御自分をいったいどうなさいます!? ば、莫迦らしい!」

「そうです、やめましょう」

法水は、故意と、弱々しげな嘆息をして、

「こんなことで、議論をするのは、止めようじゃありませんか。ただ僕は、ジーグフリードが殺されて……しかも、血栓を破って、屍体から血が吹きでてきた……」

と云いかけたとき思いがけない声が、朝枝から発せられた。それは、彼女の全身に、突然狂気めいた力が漲ったかのように、その蒼ざめた顔が一筋二筋光ってみえた。

「叔父さま、まったく犬射さんのおっしゃるとおりなんですわ。ジーグフリードは、けっして父さんではございません。これはミーメ(ジーグフリードを養育した矮人の刀剣工。ジーグフリードを殺さんとしたが、かえって殺さる)なんですわ。ジーグフリードを殺そうとして、殺された……」

「ミーメ……」

と口誦んで、法水はその一場の心理劇を、噛みしめるように玩味していたが、やがて、意味ありげな言葉を犬射に云った。

「そうです。まさに、あの殺人鬼の幻想的な遊戯なんですよ。しかし、これに海人藻芥(犬射の雅号)という署名はないにしても、いずれは、誰かの雅号となって、現われずにはいますまい」

最後の応酬がちょっと気色ばんで、険悪だっただけで、艇内におけるいっさいが事なく終ってしまった。

艙蓋の上には、すでに黄昏近い沈んだ光が漂っていて、時刻は五時を過ぎていた。検事は、鉄梯子を先に上って行く、法水の背後から声をかけた。

「まったく、殉教的な精神でもなけりゃ、こんな事件にはめったに動けんと思うよ。なにしろ、ほんの極微ぽけな材料だけで、極大の容積を得ようというんだからね。

第一、犯罪史にかつて類のなかった海底ときて、しかも、現場は三重の密室だ。それに兇器がそこから、風みたいに消え失せている――いや扉の鍵孔にも、外側から覆いがあるんだからね、風でさえも抜けられんという始末だ。そして、僕らの眼前で、あの殺人鬼は創口に孔を明け、まんまと鼻をあかしているんだ。

だから、だんだんに深入りしていくと、なにか旧の夢の中に戻ってゆくような気がするんだぜ」

法水は、検事の手を取って引き上げてから、海気を胸いっぱいに吸い込んだ。そして、すこぶる激越な調子で云った。

「いやこの事件の解決は、つまるところ、一つの定数を見出すにあるんだ。

で、その一つというのは、かつて『鷹の城』の遭難中に、艇長と四人の盲人とをめぐり、いったい何事が行われたか……ということだ。

艇内日誌を見ても、その部分はことごとく切り取られている。ねえ支倉君、たしかあの中には、この事件の暗黒を照らしだすような、重要な一、二枚があるにちがいない。それが分らなくて、金輪際僕らになにが見えてくれるもんか」

と陸に跳び上がって、二つある岩路の左手を択んで、断崖を蜒って行った。

「それから支倉君、この事件の女性二人は、それぞれ夫と父の変死に、悲しむ色さえ見せようとはしない。

その比例たるや、すでに常態ではないだろう。わけても朝枝だが、あの暁の精みたいな娘の中には、何でも怖ろしい夢や幻を、そのままの姿で受けつけるような力が張り切っている。

だから、ブレーク、ベックリン、ロセチ、それにドーレの『失楽園』や、キャメロンの『水神』、『ニーベルンゲン譚詩』のデイリッツなど――ああした、すこぶる幻想的な挿画を見るとだね……」

と云いかけたとき、断崖の尽きた岩壁に、日傘が二つ並んでいた。ウルリーケと朝枝が、のぼってくる二人を待っていた。

岩壁の窪みには、菫色をした影が拡がっていて、沖からかけての一面の波頭は、夕陽の箭をうけて黄色い縞をなしていた。

法水は、しばらく雑談している三人から離れて、俯向きながら歩いていたが、やがて速歩に追いつくと、ウルリーケにいった。

「ねえ夫人、艇内日誌には、わずか一、二枚しか残っていないのですが、貴女は切り取られた内容を御存知ですか――そして、誰がいつ切り取ったかも」

「いいえ、どっちも存じませんわ」

ウルリーケは日傘を返して、法水にチラリと流眄をくれたが、

「あれが、もし完全でしたら、きっとテオバルトの忠誠が報われたにちがいないと信じております」

「しかし、生還は……夢にも信じてはおいでにならなかったのでしょうね」

と優しげな声音ながらも、法水が畳みかけると、ウルリーケは不意の熱情に駆られて、微かに声を慄わせた。

「ええどうして、テオバルトの生還が望まれましょうか。ですけど法水さん、私、あの『鷹の城』だけは、いつかかならず戻って来ると信じておりましたわ。

艇内が海水でいっぱいになって、クローリン瓦斯が濛々と充々ていても――ええ、そうですわ。あの真黒に汚れた帆が、どうしたって、私には見えずにいないと信じておりましたわ。

ところが『鷹の城』の遭難が、私を永達に引き離してしまいました。孤独――いまの私に、それ以外の何ものがございましょう」

と、ウルリーケは悲しそうにいったが、法水は、彼女の声が終るとそれなり黙りこんでしまった。しかし、頭のなかでは、それまで分離していたいくつかの和声旋律が合して、急に一つの荘厳な全音合奏となりとどろいた。

そして、その夕からはじまった急追を手はじめにして、彼の神経は、あの不思議な三角形――艇長・シュテッヘ大尉・維納の鉄仮面と、この三つを繋ぐ直線の上ではたらきはじめた。

「夫人、いつぞや貴女は、菩提樹の葉と十字形とで、いったい何を示そうとなさったのですか。そして、貴女が最も懼れられていたその男が、毎夜、裏庭の防堤にまで、来ていたのは御存知ないのですか」

と八住家の玄関を跨ぐと、法水は突如ウルリーケを驚かせたが、そう云いながらも彼は、背筋を氷のような戦慄が走り過ぎたのを覚えたのであった。

第三編 偶像の黄昏

一、漂浪える「鷹の城」

いったんは、ウルリーケも愕っとしたように振りむいたが、しばらく日傘をつぼめかけたままじっと相手の顔をみつめていた。

その顔は、また不思議なほどの無表情で、秘密っぽい、法水の言葉にも反響一つ戻ってはこないのだ。やがて、自失から醒めたように、正確な調子で問いかえした。

「お言葉の意味が、はっきりとは判りませんけれど、私が怖ろしがっている男というのは、そりゃいったい誰のことなんですの。夜になると裏の防堤に来る――と、いまたしかにそうおっしゃいましたわね。では、その名を打ち明けて下さいましな――ああ誰なんでしょうね。またその男が、貴方は、どこから来るとおっしゃるんですの」

「その名は、まだ不幸にして指摘する時機には達しておりません。しかし、その男の出現には、れっきとした証拠があがっているのです。夫人、実は彼方からなんですよ」

と沈痛な眉をあげて、法水は顎を背後にしゃくった。

「海からです。その男は、毎夜海から上がって来て、あの防堤のあたりを彷徨い歩くのです。ですが夫人、けっして僕は幻影を見ているのじゃありませんよ。それには、暗喩も誇張もありません。修辞はいっさい抜きにして、僕はただ厳然たる事実のみを申し上げているのです。たぶん、明日の夜の払暁には、その姿を、防堤の上で御覧になるでしょう」

「なに、海から……毎夜海から上がって、裏の防堤に来る……」と顎骨をガクガク鳴らせながら、検事は頭の頂辺まで痺れゆくのを感じた。

そして、われ知らず防堤の方を見やるのであったが、どうしたことか、肝腎のウルリーケには、なんの変化も現われてはこない。

彼女の胸は、ふんわりと気息いていて、その深々とした落着きは、波紋をうけつけぬ隠沼のように思えた。しかし、その眼を転じて、法水を見ると、そこにはいつも変らぬ、鉄壁のような信念が燃えているのであるから、いよいよもって、その心理劇の正体が朦朧としてしまい、知りつつ――そこを迷路と承知しながらも、検事は足を引き抜くことができなくなってしまうのだった。

やがて、ウルリーケは家の中に去ってしまったが、検事だけはひとり残って、ぼんやりと海景を眺め暮していた。それは、法水が持ち出した混沌画の魅力に圧せられて、彼は模索の糸を、絶つことができなかったからである。

――ああ法水がキッパリと云い切った態度からは、毫もいつものように術策や、詭計らしい匂いが感ぜられなかった。

のみならず、彼の神経といえば、それこそ五浬先の落ち櫂さえも見遁さぬという、潜望鏡のそれよりも鋭敏ではないか。

そうすると、事によったら、彼の眼に映じたものは、生きながら消え失せて、「鷹の城」の悪霊と呼ばれるシュテッヘ大尉ではなかったか。

それとも、まだ名も姿も知られていない何者かが、しかも帆桁は朽ち船員は死に絶えても、嵐と凪を越え、七つの海を漂浪い行くと云われるのだが、その身は生とも死ともつかず、永劫の呪縛にくくられている幽霊船長と――きしみ合う二つの車輪、まさに幻想と現実とが、触れ合おうとする空怖ろしさ、またそれを縫ってシュテッヘの幻が、見もせぬに跳び上がり、沈み消えしては踊り乱れるのだった。

が、そうしてああでもないこうでもないと、もの狂わしい循環論の末には、いつか知性も良識も、跡方なく飛び散ってしまって、まったく他の眼から見たら、滑稽なほどの子供っぽさ、いたずらに神話の中を経めぐったり、あるいは形相凄まじい、迷信の物の怪に怯えたりなどして、検事はしだいに夢を換え、幻から幻に移り変って行くのだったが、やがて終いには、その深々とした神秘、伝奇めいた香気に酔いしどれてしまって、譫妄にも、殺人事件の犯人などどうでもよいと思われたほど、いまや彼の感覚は、まったく根こそぎ奪い尽され去ってしまった。

そのおり、黄昏の薄映えは、いぜん波頭を彩っていたけれども、海霧は暗さを増す一刻ごとに濃く、またその揺動が、暗礁を黒鍵のように弄んで、それが薄れ消えるときは、鈍い重たげな音を感ずるのである。

やがて、海霧の騎行に光が失せて、大喇叭のような潮鳴りが、岬の天地を包み去ろうとするとき、そのところどころの裂目を、鹹辛い疾風が吹き過ぎて行くのだが、その風は氷のように冷たく、海霧はまた人肌のように生ぬるかった。

そうして岬の一夜――まこと彼ら二人にとれば、その記憶から一生離れ去ることのないと思われるほど、おぞましい、悪夢のような闇が始まったのである。

その――古風な風見が廻っている岬の一つ家には、痩せてひょろ高い浜草が、漆喰の割目から生え伸びているほどで、屋根は傾き塗料は剥げ、雨樋は壊れ落ちて、蛇腹や破風は、海燕の巣で一面に覆われていた。

そうした時の破壊力には、えてして歴史的な、動かしがたい思い出などが結びついているものだが、誰しもその自然の碑文には心を打たれ、また、それらのすべては、傷ましい荒廃の感銘にほかならないのであった。

Chapter 8 of 13
|