新人のもつ新鮮さ
映画には文法がないのだと思う。これでなければならないという型はないのだ。優れた映画が出てくれば、それが独特の文法を作るので、映画は思いのままに撮れば見られる。
若い助監督も、撮影所に入ってくるときには、大きな抱負を抱いてくるに違いない。しかし、永年監督について走り使いをしているうちに、自分の抱いている新鮮な手法が消えていく。既成の常識的な手法を見聞しているうちに、なるほど映画の文法はこういうものだと、自分から妥協してしまうのだ。そこで監督になっても、撮り方がいつも同じで普遍的なものになってしまう。日本映画に新鮮さが見られないのはこういう点に原因がある。
だから、たまに見るメキシコとかイタリアの新人で、素人がいきなり撮影所にやってきて撮ったものなどは、びっくりする程新鮮な手法が感ぜられる。石原慎太郎さんが監督したものは見ていないが、やはり面白いところがあるのではないかと思う。
石原監督に対して、助監督が揃って反対した事件があったが、おかしいと思う。素人がいきなり来やがって不愉快だというのだろうが、それならば、助監督が突然小説を発表したら、文芸家協会は怒るだろうか。こっちが小説を書いても怒らないのに、小説を書いている奴が映画を撮ると怒るというのは、偏見も甚だしい。怒る気持があっても、とにかく協力して映画を作り、その代り、出来上った作品は徹底的に批判するという態度がとれないものか。まだ撮りもしないうちから、ワアワア云っても仕様がないではないか。
最近は監督志望者も随分と多い。試験もなかなか難しい。こんな難しい試験ができる人は、監督には向かないのじゃないかとさえ思う。それ程いろいろな知識をもっている人は、他の方面でその知識を活かした方がいいのではないか。今だったら、私も木下恵介も落第組だろう。
おわい屋になるには、腕っ節が強く、肥桶をかつげる肩と腰があり、正直であればいいので、おわい屋が聖徳太子を知らないとしても一向差支えない。聖徳太子もおわい屋の厄介にはなったろうが、あまり関係のあることでもあるまい。それと同じことで、監督志望者に、新聞社や雑誌社と同じ試験をするのは、お門違いだと思う。それよりも、ものの見方や幻想力、それから用器画の力を調べた方がいいと思う。殊に、円錐形を六五度傾けたらどう見えるかというような用器画の試験は必要だろう。これはコンティニュィティ(演出台本)を描く時に必要なのだ。
今の助監督は、大学を出て、難しい試験を通ってくるのだから、頭はいい。事を運ぶ順序もいいし、記憶力もよく、監督としては大変便利で使いやすい。けれども、もっと彼等を活かす道がないものかと、気の毒に思えてしまうのだ。