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市村羽左衛門の芸の質についての研究が、此頃やつと初まつたやうである。何にしても、此は嬉しいことだ。歌舞妓芝居のある一つの傾向は、これで追求せられて、その意義がわかつて来るだらうと思ふ。
なぜ、羽左衛門が、権八や菊之助乃至は久我之助・桜丸の類の役柄に扮し勝ちであつたか。又、直次郎や、新三や、さうかと思ふと梅吉(加賀鳶)・佐七の、小善小悪にあがく市井の人々になつたのか。もつと言へば、実盛・盛綱・景時の類型から飛躍して、板倉内膳・桃井若狭・富樫などを以て、その役どころとしたか。此等、歌舞妓芝居の約束を知つたものには、ほんの何でもないことが、恐らく新しい問題となつて来るだらうと思ふ。
明治廿六年三月、歌舞伎座では福地桜痴の「東鑑拝賀巻」が上演せられてゐた。此時、公暁を勤めて居た先代尾上菊五郎は、実弟坂東家橘の、思ひがけない死に目に逢はねばならなかつた。家橘の重忠の、おなじ月の市村座興行に、「兜軍記」の彦三郎風の演出に、所謂江戸の愛優「坂彦」を失うた後の、寂しい東京市民の心をやつと償はれたやうな気がしてゐた最中であつた。
此時、本文の対象にしてゐる市村羽左衛門は、まだ市村座の若太夫名竹松で一座に居た。「目黒新富士」と言ふ近藤重蔵を書いた新作狂言に、誉当の倅民蔵、と言ふ実在の富蔵をもぢつた役名で出て居たものである。
この興行半に家橘は病気休みをして、其まゝ起たなくなつた。危篤に陥つた時、兄は公暁で、歌舞伎座の舞台に立つて居た。臨終の床に駈けつけた兄の、死者に対してくどき歎いた詞と、驚きにをろ/\して居た甥を膝もとにひきつけて言つた詞と、二つは今もどうかすると、話の種にしてゐる年よりがある位である。弟思ひの美談として伝つてゐるのであるが、此は或は、兄菊五郎の深い悔いから出たことなのかも知れぬ。五十五年たつた今から、静かに思へば、世のはらからの、せむすべもない思ひが、目の前に浮んで来る様だ。私どもゝ、唯の弟思ひ、兄思ひの兄弟なかの悲しい幸福の物語として考へて居た。
その後私に教へてくれた多くの先輩の話を綜合すると、この兄は可なり弟には激しかつた。その証拠には、骨肉の間でありながら、互に助勢しあつて、おなじ興行に一座することが稀だつたと言ふ。併し此証拠は必しも、真実ではなかつた。兄弟は晩年繁しげと、一座して顔合せはして居たのであつた。此は、興行年表を作つて見た上で、私は言ふのである。だが、其が兄弟仲の円く行つて居たことにはならぬ。寧、さう言ふいさかひ、仲違ひの続いた間に、突如として弟の死に遭うた兄の狼狽・慚愧の情は、可なりやるせないものであつたらうと思はれる。素人の間では、少し表現の勝つた言ひ方だと思はれる菊五郎の弟甥に対しての詞も、役者が聴きてを意識し乍ら、開き直つて言ふとすれば、さうした過度の感激が表白せられるのも、無理はないと思ふ。義理人情を弁へ、達意に物を言ふ菊五郎である。悲しみに傷れても、其位のことは言ふ筈だ。そこに却て役者らしい生活が見られる。誉当の息子については、よしあしを伝へてゐぬが、其二月前、市村座の一月狂言の「双蝶々」の相撲場の与五郎は、彼の芸の芸らしいものになつた初めとして、伝へられてゐる。廿六年と言へば、私などはまだ七歳である。羽左衛門もまだやつと声がはりを抜けたばかりの年頃である。二十歳で、和事の代表と見なされる与五郎に、好評を得ることが出来れば、芸才は早期に現れたことになる。其後の家橘の成績から見て、どうも評判のよかつた「あづま与五郎」は、彼の再演以後の成績でなかつたかといふ気がする。だが彼一代の芸歴を考へる時、此時期にさうした事実のあつたことを、思ひたい気がするのである。
元服期を過ぎた十六七歳からの重な役わりについて見ると、廿三年桐座の「め組の喧嘩」にやんま豊など言ふらちもない役がついて居る。尤、父家橘が藤松を勤めて居た程だが、其時の辰五郎の女房お仲は、後に老い女房としてつきあつた源之助であつた。同年春木座で八百蔵の真龍軒に其倅として出勤し、又松前屋の丁稚卯之助などゝいふ役を与へられてゐる。又、「千本桜」が出ると、八百蔵が忠信で彼は鮓屋のお里を勤めて居るから、まづ役は暴劣してゐる訣ではないが、此は権太――家橘の役の引き立てによるものと見ねばならぬ。其年から翌年にかけて、父について寿座へ出て、「盛綱館」に注進の藤太をしてゐる。勿論盛綱の威光によるのである。十七歳には、「妹背山」山の段の雛鳥を勤めてゐるが、比較をとつて見ると、やはりお三輪は、沢村源之助の役である。年の隔りが思はれるではないか。其年には、歌舞伎座で、道行のおかるを踊つてゐる。相手には、後の幸四郎当時の染五郎が勘平に廻つてゐる。此などは、後年までつりあつた感じのする役である。同様の配役で、やゝ複雑味のうけとれるのは、翌年春木座の「薄雪物語」に、園部左衛門の芝雀――後、雀右衛門――に、薄雪姫といふ役廻りである。此配役、後年の役方と、すつかりふり替つてしまつて居る感じが深い。芝雀は元、立役に向ふ筈の家に養はれた人でもあり、芸質もさう言ふ傾向にあつたのだが、養父雀右衛門歿後女形に転じたのである。――尚考へると当時芝雀はまだ笑太郎であつたかも知れぬと言ふ気もする。さうすれば、此芝雀は今一つ前の者とも思はれるが、しばらく後年雀右衛門になつた芝雀と定めておく――芝居の「薄雪」何と言つても、左衛門の方が役は上である。仮名草子・浄瑠璃・歌舞妓と、姫の役柄に育てゝ来て、芝居の薄雪姫は、所謂「しびれ姫」と謂はれる娘形の役どころと違つた所がなくなつて来て居るからである。おなじ時の二番目では、「野晒悟助」の小田井をした。此などはどんなことがあつても、真女形から出る気づかひのない娘役で、如何にも声帯の吹きゝれぬ時代の彼を見せた役柄である。恐らく、此頃からの調子のわるさが、家橘時代に入つても長く続いたものと思はれる。「家橘のどうま声」と言はれたのは、この時期の息づんだやうな歌舞妓の発声に叶はぬものが多かつたからであらう。抑揚(めりはり)も、強弱も、音色も発声法の殆すべてに通じて、調子がよい、わるいと言ふ語でとほして居る楽屋ことばである。吉右衛門は、調子がよいと言ふのは、主として音質についての讃美である。「八百蔵中車」の調子をほめたのは間の正しい発声と、どすと称する声の深さに対して、したものであつた。あのうら枯れた様な中年以後の源之助すらも、調子がよいと言はれたものである。五代目菊五郎の役々のせりふの抑揚を正確に伝へて居た、謂はゞえろきゆうしよんの信頼出来る点に感じたものと思ふ。わたりせりふの受け渡しにも、必数人の立ち衆とは、水際立つたせりふ廻しを聞かした源之助であつたから。こんな場合にも、調子としてほめるのである。又後年の左団次のやうに、性格と関係なく朗読式を極度に発揮するやうなのも、調子の問題に入るのである。一息に長ぜりふを朗誦するのが、この新劇における思想俳優の、歌舞妓劇場での常習的な演出法になつて居た。左団次のかうした方面を名調子として喜んだ人たちも多かつたのである。
数年前、今の菊五郎が、人をしてはつとさせる様なことを言つた問題がある。
羽左衛門のせりふ廻しを生世話であるとする通説を否定して、「時代世話」だとした。きはめて簡明な分類をしたものである。彼の芸風を生世話でないと主張したのではなかつた。けれども、彼を愛する人々は、彼が時代世話式に演じてゐないと謂はれたやうな印象を受けた。言ひたいことを言ふ菊五郎に対して憤りを感じた人々もあつたのは事実である。なる程さう思つて見れば、彼の「浜松屋店先」の弁天小僧、「源氏店」の切られ与三、「大川端」のお嬢吉三、「鈴ヶ森」の権八その他で、張りあげる所謂「やくはらひ」の発声法などは、確かに、時代風であり、世話のうちに時代のある芸風だと言ふ風に理会は出来る。併し凡江戸の町で育つた歌舞妓狂言である以上、やくはらひの様式は定まつて居る。其くだりになつて開き直つて、高音を張ると謂つた態度の初心らしさを避けて、出来るだけ内的に演じようとして居ることは、彼においても明らかに見られた事実だ。が、元々「やくはらひ」せりふが、さう言ふ様式のものである以上、全然約束を避けて、平談座語調子では演ずる訣にはいかぬのである。歌舞妓の世話狂言の中から化成して出たやうな菊五郎が、こんな点で羽左衛門芸質の時代世話を論じたのでないことは、言ふまでもなからう。が、やはり彼のえろきゆうしよんを純世話物式でないと言つたとすれば、問題の焦点と言ふよりも、菊五郎によつて暗示せられた羽左衛門芸術の解釈の緒口は、やつぱり此点に求めるのが、本たうであらう。若しあの当時の伝へが正しい伝へなら、菊五郎の言つたことは、却て羽左衛門の時代物から、あの立言がなされたものと見てよいと思ふ。羽左衛門のしてとなつた時代物では、吾々は何時見ても、鮮やかな斬新性を感じたものである。時としては、わき方に廻つてゐる場合でも、自らして風な位置をとる場合が、度々ある。殊に歌舞妓芝居のやうに、立者の多い劇団では、さうした場合が多いのは、当り前である。「勧進帳」の富樫左衛門、「先代萩」の板倉内膳などが、其である。吾々は常に、かうした狂言に、老いせぬ「歌舞妓の鶯」の高音を聞いて、一瞬ではあるが歌舞妓芝居の古典性に、はつと行き触れる気がしたものである。
岡本綺堂さんの作物を具体化したのは市川左団次の力である。さう言ふ事業の上に、新歌舞妓と言ふ快い名が与へられてゐる。だがよく考へてみると、世に謂ふ新歌舞妓は、かう言ふ簡明な筋立ての上に、近代劇の匂ひを持たせたやうなあの内容をさして言つて居たものではなかつたらうと、今になつて心づくのである。実際、彼の時代物を見てゐると、様式は凡彼自ら為馴れ為壊した部分を除けばすべて先人の型である。思想を除外してゐる歌舞妓芝居の中でも、恐らく彼の演出ほど思想内容のないものはなからうと思はれる程である。どの役者の芸にも、重くるしい思想を負つたものなどはない。が、左団次を彼に比べて見るとよい。吉右衛門を引き合ひに出して見るとよい。彼につきあはせて見ると、其人は皆、それでも思想ありげに見える。此は彼の芸が、あまり思想を超越してゐることを感じさせた所から来るのである。だが其芸の感覚の新しさから言つた時、今言つた人々を籠めて、殆すべての歌舞妓役者の演じる同じ狂言同じ舞台よりも、遥かに爽やかに美しいものを感じるのが、事実であつた。思想から超越した歌舞妓芝居である以上、若し新歌舞妓と云ふ語に適当なものを求めれば、羽左衛門の持つた感覚による芝居などを指摘するのが、本たうでないかと思ふ。彼の時代物のよさは、古い型の上に盛りあげられて行く新しい感覚である。最歌舞妓的であつて、而も最新鮮な気分を印象するのが、彼の芸の「花」であつた。晩年殊にこの「花」が深く感じられた。実盛・景時・盛綱の、長ぜりふになると、其張りあげる声に牽かれて、吾々は朗らかで明るい寂しさを思ひ深めたものである。美しい孤独と言はうか――、さう言ふ幽艶なものに心を占められてしまふ。此はあの朗読式な、処々には清らかな隈を作るあくせんと――そのせりふの抑揚が誘ひ出すものであることを、吾々は知つてゐた。羽左衛門亡き後になつて思へばかう言ふ気分を舞台に醸し出した役者が、一人でも、ほかにあつたか。
彼の芸質に、時代物の味ひを濃く感じた菊五郎の率直な語は、その世話物よりも、却て時代物から受けた印象を、世話物の上に落して見たものではないか。さうして見ると、菊之助も、与三も、権八も、吉三も皆新歌舞妓と言ふべき感覚を吾々に寄せてゐたのである。さうした古くして新しい歌舞妓味を、「時代」と言ふ従来の用語例で受けとつたのが、菊五郎だつたといふことになる。とにもかくにも、「どうま声」で、すべての舞台感覚を喪失したやうな発声――之を彼の久しい友であつた先輩も、だゞつ子調子と言ふ語を以て、若い明治の世代における彼を表現して聞かされた。この語の持つ批判の向うに含まれた、長い友情と、愛護の誠意とが窺はれて懐しかつた。その若いどうま声を練りあげ、だゞつ子調子を鍛へあげたのが、彼一流の朗読術だつたのである。勉強を予めせない、出たとこ勝負だと思はれて来た彼の後半生にも、尠くともこれだけの苦心はして来てゐるのである。