Chapter 1 of 20

彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え圧するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。耳に伝ふやうに来るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて来る。

膝が、肱が、徐ろに埋れてゐた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこはゞつた筋が、僅かな響きを立てゝ、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけてゐるのだ。

さうして、なほ深い闇。ぽつちりと目をあいて見廻す瞳に、まづ圧しかゝる黒い巌の天井を意識した。次いで、氷になつた岩牀。両脇に垂れさがる荒石の壁。した/\と、岩伝ふ雫の音。

時がたつた――。眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。長い眠りであつた。けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。うつら/\思つてゐた考へが、現実に繋つて、あり/\と、目に沁みついてゐるやうである。

あゝ耳面刀自。

甦つた語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。

耳面刀自。おれはまだお前を……思うてゐる。おれはきのふ、こゝに来たのではない。それも、をとゝひや、其さきの日に、こゝに眠りこけたのでは、決してないのだ。おれは、もつと/\長く寝て居た。でも、おれはまだ、お前を思ひ続けて居たぞ。耳面刀自。こゝに来る前から……こゝに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考へつめて居るのだ。

古い――祖先以来さうしたやうに、此世に在る間さう暮して居た――習しからである。彼の人は、のくつと起き直らうとした。だが、筋々が断れるほどの痛みを感じた。骨の節々の挫けるやうな、疼きを覚えた。……そうして尚、ぢつと、――ぢつとして居る。射干玉の闇。黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたまゝで居た。

耳面刀自の記憶。たゞ其だけの深い凝結した記憶。其が次第に蔓つて、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想の紐に貫いて行く。さうして明るい意思が、彼の人の死枯れたからだに、再立ち直つて来た。

耳面刀自。おれが見たのは、唯一目――唯一度だ。だが、おまへのことを聞きわたつた年月は、久しかつた。おれによつて来い。耳面刀自。

記憶の裏から、反省に似たものが浮び出て来た。

おれは、このおれは、何処に居るのだ。……それから、こゝは何処なのだ。其よりも第一、此おれは誰なのだ。其をすつかり、おれは忘れた。

だが、待てよ。おれは覚えて居る。あの時だ。鴨が声を聞いたのだつけ。さうだ。訳語田の家を引き出されて、磐余の池に行つた。堤の上には、遠捲きに人が一ぱい。あしこの萱原、そこの矮叢から、首がつき出て居た。皆が、大きな喚び声を、挙げて居たつけな。あの声は残らず、おれをいとしがつて居る、半泣きの喚き声だつたのだ。

其でもおれの心は、澄みきつて居た。まるで、池の水だつた。あれは、秋だつたものな。はつきり聞いたのが、水の上に浮いてゐる鴨鳥の声だつた。今思ふと――待てよ。其は何だか一目惚れの女の哭き声だつた気がする。――をゝ、あれが耳面刀自。其瞬間、肉体と一つに、おれの心は、急に締めあげられるやうな刹那を、通つた気がした。俄かに、楽な広々とした世間に、出たやうな感じが来た。さうして、ほんの暫らく、ふつとさう考へたきりで……、空も見ぬ、土も見ぬ、花や、木の色も消え去つた――おれ自分すら、おれが何だか、ちつとも訣らぬ世界のものになつてしまつたのだ。

あゝ、其時きり、おれ自身、このおれを、忘れてしまつたのだ。

足の踝が、膝の膕が、腰のつがひが、頸のつけ根が、顳が、ぼんの窪が――と、段々上つて来るひよめきの為に蠢いた。自然に、ほんの偶然強ばつたまゝの膝が、折り屈められた。だが、依然として――常闇。

をゝさうだ。伊勢の国に居られる貴い巫女――おれの姉御。あのお人が、おれを呼び活けに来ている。

姉御。こゝだ。でもおまへさまは、尊い御神に仕へてゐる人だ。おれのからだに、触つてはならない。そこに居るのだ。ぢつとそこに、蹈み止つて居るのだ。――あゝおれは、死んでゐる。死んだ。殺されたのだ。――忘れて居た。さうだ。此は、おれの墓だ。

いけない。そこを開けては。塚の通ひ路の、扉をこじるのはおよし。……よせ。よさないか。姉の馬鹿。

なあんだ。誰も、来ては居なかつたのだな。あゝよかつた。おれのからだが、天日に暴されて、見る/\、腐るところだつた。だが、をかしいぞ。かうつと――あれは昔だ。あのこじあける音がするのも、昔だ。姉御の声で、塚道の扉を叩きながら、言つて居たのも今の事――だつたと思ふのだが。昔だ。

おれのこゝへ来て、間もないことだつた。おれは知つてゐた。十月だつたから、鴨が鳴いて居たのだ。其鴨みたいに、首を捻ぢちぎられて、何も訣らぬものになつたことも。かうつと――姉御が、墓の戸で哭き喚いて、歌をうたひあげられたつけ。「巌岩の上に生ふる馬酔木を」と聞えたので、ふと、冬が過ぎて、春も闌け初めた頃だと知つた。おれの骸が、もう半分融け出した時分だつた。そのあと、「たをらめど……見すべき君がありと言はなくに」。さう言はれたので、はつきりもう、死んだ人間になつた、と感じたのだ。……其時、手で、今してる様にさはつて見たら、驚いたことに、おれのからだは、著こんだ著物の下で、のように、ぺしやんこになつて居た――。

臂が動き出した。片手は、まつくらな空をさした。さうして、今一方は、そのまゝ、岩牀の上を掻き捜つて居る。

うつそみの人なる我や。明日よりは、二上山を愛兄弟と思はむ

誄歌が聞えて来たのだ。姉御があきらめないで、も一つつぎ足して、歌つてくれたのだ。其で知つたのは、おれの墓と言ふものが、二上山の上にある、と言ふことだ。

よい姉御だつた。併し、其歌の後で、又おれは、何もわからぬものになつてしまつた。

其から、どれほどたつたのかなあ。どうもよつぽど、長い間だつた気がする。伊勢の巫女様、尊い姉御が来てくれたのは、居睡りの夢を醒された感じだつた。其に比べると、今度は深い睡りの後見たいな気がする。あの音がしてる。昔の音が――。

手にとるやうだ。目に見るやうだ。心を鎮めて――。鎮めて。でないと、この考へが、復散らかつて行つてしまふ。おれの昔が、あり/\と訣つて来た。だが待てよ。……其にしても一体、こゝに居るおれは、だれなのだ。だれの子なのだ。だれの夫なのだ。其をおれは、忘れてしまつてゐるのだ。

両の臂は、頸の廻り、胸の上、腰から膝をまさぐつて居る。さうしてまるで、生き物のするやうな、深い溜め息が洩れて出た。

大変だ。おれの著物は、もうすつかり朽つて居る。おれの褌は、ほこりになつて飛んで行つた。どうしろ、と言ふのだ。此おれは、著物もなしに、寝て居るのだ。

筋ばしるやうに、彼の人のからだに、血の馳け廻るに似たものが、過ぎた。肱を支へて、上半身が闇の中に起き上つた。

をゝ寒い。おれを、どうしろと仰るのだ。尊いおつかさま。おれが悪かつたと言ふのなら、あやまります。著物を下さい。著物を――。おれのからだは、地べたに凍りついてしまひます。

彼の人には、声であつた。だが、声でないものとして、消えてしまつた。声でない語が、何時までも続いてゐる。

くれろ。おつかさま。著物がなくなつた。すつぱだかで出て来た赤ん坊になりたいぞ。赤ん坊だ。おれは。こんなに、寝床の上を這ひずり廻つてゐるのが、だれにも訣らぬのか。こんなに、手足をばた/″\やつてゐるおれの、見える奴が居ぬのか。

その唸き声のとほり、彼の人の骸は、まるでだゞをこねる赤子のように、足もあがゞに、身あがきをば、くり返して居る。明りのさゝなかつた墓穴の中が、時を経て、薄い氷の膜ほど透けてきて、物のたゝずまひを、幾分朧ろに、見わけることが出来るやうになつて来た。どこからか、月光とも思へる薄あかりが、さし入つて来たのである。

どうしよう。どうしよう。おれは。――大刀までこんなに、錆びついてしまつた……。

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