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「女殺油ノ地獄」の芝居を、見て戻つた私である。一日、極度に照明を仄かにした小屋の中にゐて、目も心も、疲れきつてしまつた。思ひの外に、役者たちの努力が、何となく感謝してもよい心持ちを、持たしてくれたけれども、何分にも、先入主となつたものが、度を超えて優秀な技芸であつた為、以前見たその美しい幻影が、今見る役者たちの技術の上に、圧しかゝるやうな気がして、見てゐてひたすら、はかなくばかり見えてならなかつたのである。
明治大正の若い時代は、貴かつた。その劇も、音楽も、浄い夢のやうに虚空に消えて行つた。はじめて、この河内屋与兵衛を見たのは、今の実川延若の延二郎と言つた頃である。さるにても、この若い油売りの手にかゝるお吉のいとほしさ。中村成太郎――後魁車の、姿なら技術なら、今も冴えざえと目に残つて居る。二度目に見た時は、中村福之助がお吉を勤めてゐたが、此時既に、先の印象が、その後のお吉の感興を淡くしたことであつた。其ほど、魁車のお吉は優れてゐた。与兵衛の両親、同業油屋の徳兵衛・おさはに扮したのが、尾上卯三郎・嵐璃であつた。この三人の深い憂ひに閉され、互に何人かに謝罪するやうに、額をあつめた謙虚な姿、まことに、こんなに人を寂しく清くする芝居もあるものか、としみ/″\感に堪へたことであつた。
もう此以上の感激はあるまい、とその時も思うた。其は今も印象してゐる。而もそれに続く――向ひ家の老夫婦を送り出した心の、しみ/″\清らかな油屋の女房へ、恐怖のおとづれびとが来るのであつた。好意を持つもの同士の間に、其でもくり返さねばならぬ疑ひ、拗けごと。さうしてやがて、とり返されぬ破局への突進。人間の心と心とが、なぜかう捩れ、絡み、又離ればなれになつて行かねばならないのだらう。人間はなぜ、人間の悲しみの最深きものに、直に同感し、直に共感する智慧を、持つことが出来ないのか。さう言ふ悔いに似た戦慄が、われ/\の心を、極度に厳粛にした瞬時の後、あはれ、謂はうやうない破局への突進。私は、再見ることもなからうと言ふほどの痛苦の感激を覚えて、呆としてゐた。其間に、舞台は頻りに進んで行く。私は、人間の滅亡を、唯傍視してゐるばかりであつた。若い代の延若もよかつた。魁車もよかつた。その為に生れて来た人たちだと言つても、誰が抗ふであらう。私は三越劇場の女殺しを眺めながら「とりかへすものにもがもや」を、危く叫ばうとした。其程の至芸が、曾て屡これとほゞ同じ舞台に同じ年頃であつた人々によつて、発揚せられたのを思はずに居られなかつた。
幸にして、今度の禍を免れた延若は、大阪宗右衛門町の浜側の防空壕の中で、孫を抱いたまゝ焼け死んだ、その時の相方に思ひ到ることがあるだらう。さう言ふ時、油地獄の殺しの場面を思ひ起して、魁車を惜しむこともないではあるまい。
延若の芸の亡びるのを痛惜する人々が、その、汽車で東上するに堪へなからうと言ふことを慮つた。出来れば航空の便りをからう、と言ふ心積りまでしたことを聞いてゐる。而も彼はまだ、東京の見物にまみえることが出来ないで居る。終にまみえることなしに、彼はその芸を抱いて、遠く翔けるやうな時が近づいてゐるのではないか。若しさう言ふことになつたら、劇の英傑を、再我々に見ざらしめた責任は、誰が負はうとするのか。
「大晏寺堤」「乳貰ひ」など、今の彼に出来さうな狂言も、其人々の胸には浮んでゐることは勿論である。それすら今は、実現することなく、消え去らうとしてゐる。謂はゞ今、別人の手に演ぜられてゐる「油地獄」も、思ひ深い幻影を、あらぬ青年たちの上に移して見ようとした、其人々の望みの、実現したものと言ふことも出来る。まづ大阪に、彼に替る与兵衛がない。東京に恰好な柄の若手がゐないのも、無理ではない。
まづそのことばである。ことばの音色やあくせんとに導かれて来る地方人の慣性、其を表現せなければ、与兵衛はない訣である。ことばから来る大阪人の数理の上における俊敏性と、其裏うへにある愚痴・怯懦を表現することの出来るものでなければ、与兵衛の持つ特殊性は失はれるだらう。都市に慣れながら、野性を深く持つのが、大阪びとの常である。彼等は、江戸人の常誇りとする洗練を希ふことがない。所謂えげつなさを身につけてゐる。近松が書いた為に、京阪の見物の馴れによつたが為に、毛剃九右衛門さへ、柳町であんなに臆病なところを暴露させられてゐる。人間の強さの底を知ると共に、自分の弱さを、互に表現し合つて恥ぢとしない大阪びとの持つ普遍性なのであつた。こゝに力点を置かぬ性格描写は、恐らく近松の予想した役の性根とは違つて来るであらう。延若の与兵衛は、後世に牢記せらるべき一つの歌舞妓性格の一基準となるであらう。
おなじ系統の性格の、地理的変更を経たのが、団七九郎兵衛である。この性格は、近年殊に東西の演出法を互に参酌することが多くなつた為に、以前ほどの差異は著しくはなくなつたやうだが、其でも、江戸系統のものには、一応の改訂が加へられてゐる。九郎兵衛は固より、一寸徳兵衛・釣舟三婦・徳兵衛女房お辰に到るまで、皆江戸型として、一通りありさうな人物であり、又さうした解釈によつて演出せられて来た。だが、実地を考へれば知れるやうに、やはり大阪型の性格である。九郎兵衛は、浮浪児から拾ひ上げられて、いかさま師に養はれ、其家の娘と野合したと言ふ男である。元より江戸風の侠客ではなく単なる無頼漢である。徳兵衛も亦、堺・住吉の間をうろつく中国喰ひつめもので、乞食の仲間に身を落してゐた。大阪側においてすら、此徳兵衛は小意気な男とした――扱ふ外がない為でもあるが、――位だ。江戸の「浪花鑑」における、此人々の描写は、違つた性格基準に入れて演出してゐるものと見ねばならぬ。謂はゞ、ひき出し違ひに演出せられた性格である。此点においても、延若の演出方法は、最正確なものとせねばならぬ。吉右衛門の団七は、父歌六の大阪から伝来した演出法や、解釈によつてゐるから、正しいものと言ふことは出来る。が、歌六の印象が薄れると共に、近年は、頗江戸の男だての颯爽としたものに傾いて来たやうである。かう言ふ、地方性を表現することが特殊な性格を描写するのに適してゐる場合は、演出法は固よりことばも郷土感を構成するものでなくてはならぬ。
唯、別に一つの問題がある。所謂音羽屋型と謂はれる、五代目菊五郎によつて完全に整頓せられた幾種類かの演出の中、特に優れたものは、「いがみの権太」である。
おなじ上方役者でも、彼の先輩鴈治郎は目先が利いたと言ふより、同化性能が強かつた。権太を大和下市辺の博徒無頼漢とするせぬに、さほど執しては居なかつた。だが延若はさうではなかつた。何処までもその解釈を守つて、今に到つてゐる。だが、音羽屋型に権威を感じなかつた、明治早期における大阪型の権太は、必しも今の延若の演出の基礎となつてゐる訣でもないらしい。其ほど彼の創意があちこちに見えるのである。丸本歌舞妓の立て前からすれば、一にも二にも大阪型によるのが正しいやうに思はれる。が、「いがみ」の場合与兵衛や団七のやうに、郷土色に終始するのを理想とするに及ばぬやうである。なぜなら、大阪や大阪近在乃至は、大和の生活を負つてゐるが為に、性格の特殊性が活きて来ると言ふ風のものではない。謂はゞ、権太においては、普遍性の多い田舎の無頼漢らしさを、示すことを前提として、其から進んで、さうした小悪人が持つ悲しみの方へ深く探究してゆけばよいのである。唯、都会の底に焦げつく市井人でないことを、丸本に対する責務とすべきだらう。だから、菊五郎演出法による権太を否定する理由はないのである。唯、都会的感覚を持たぬ小人の死を以て描く悲喜劇と言ふ点では、やはり延若の態度の方が、落ち入りに到つて、あきらめなさの酷烈を痛感させられる。
この三役の中、団七・権太においては、相当彼を第一と認めぬ人々があるに違ひない。権太における六代目菊五郎、団七にとつての吉右衛門、続いては、菊五郎、亡き幸四郎、同じ羽左衛門など、それ/″\代表的な演出を示したものはある。が、延若の此等の役における妥当性を否定しようとする人はあるまい。与兵衛においては、彼をさし措いて、他の誰を推す者もないであらう。
此等の芸格からすれば、彼は実悪、即、立敵に位すべき人で、幸四郎の時代、又は王代における立敵としての最後の人であるのに対して、唯一人延若があつて、世話・御家物の真敵として、残るものと言ふべきであらう。
壮健を誇つた彼の長い春の盛りに、私どもはなぜ、もつと種々の分化を遂げた歌舞妓の敵役を見て置かうとせなかつたか。赤堀水右衛門も、当麻三郎右衛門も、彼に就いて見た覚えがないのである。さうして竟に見ずならむとしてゐるのである。最終の松王を見たのは、去々年であつた。声かけて駕籠を出る刹那、私は対蹠の位置に立つ松王をまざ/\と思ひ浮べた。故市川中車のものであつた。寺子屋一幕、完全な善人として、又ある種の超人的な人格として終止した。延若は門口に顔を改める時から、家に入つてのしどころしどころの気組・表情・動作、皆実悪式の陰翳を添へながら演出した。団十郎の錯誤だと言はれてゐる刀をさしつける首実検なども、立敵の憎々しさ、人もなげな振舞を様式化するものである。彼の演出を見て、瞬間に私は、此古い型の理由を悟つた。其だけ彼の松王は、解釈において、常識的な立役腹を超越して居たのである。
幸にして、私は延若の石川五右衛門を見る機会が度々あつた。吉右衛門の如く人情負けしたものでなかつた。たゞいつも藤の森を中にする五右衛門ばかりで、壬生村における芸の比較を言ふことが出来ない。其よりも残念なのは、人情を虚脱して、無道徳の世界に優遊するやうな偉大なるぱん(牧羊神)を見ることの出来なかつたことである。
溯つて、安達原の貞任を見る。上手屋台を出て、直方の懐中を調べる処からはじめて、花道に到つての動作・発声、其につぐ呼び戻しに到るまで、徐々に悪の発露を鮮やかにして来る、搬びの自然らしさと言ふよりも、当然の結著の如く悪への復帰。こゝでも、吉右衛門の次第に善をふるひ落すやうな小刻みな動きをくり返し、而も恰も正義への帰還を悲しませるやうなりあるな誠実感に充ちた演出と、比べて見た。立敵腹と立役腹との違ひが、二つの貞任にも現れたのである。だから、お君をかせにしての愁ひになると、吉右衛門は人を泣かしめずにはおかないと言ふ覚悟を持つてかゝる。戯曲の解釈は歴史原典に溯つてすべきものではない。一にも戯曲、二にも戯曲、原作を限界とした解釈が、劇を正しく生すものである。
仁木弾正・平知盛・佐倉宗五郎などは、市川団蔵の舞台を見ておいて、よく之に則つてゐる。これらの役について見ると、殊に吉右衛門との行き方の違ひが、目に立つて感じられる。全体弾正は、大詰に偏つて出るやうになつてゐるが、三場ともに性根が変つてゐる。床下が飛びぬけて幻怪な役柄になつて居り、対決が中間で、刃傷が小世間的に演ぜられることになつてゐる。昔はこの三場に通じて一つの性根が一貫してゐた。其で、刃傷場の恐しさなども、特に出て来ないのだ。出て来たと言ふより、とり残されたやうになつて、今も度はづれに凄く演じる訣である。見物は皆、めい/\に一人の外記左衛門になつてしまふ。群衆の中に隠れてゐる自分一人を目あてに、花道からと見かう見して進んで来る弾正だと言ふ気がするのである。団蔵の舞台は尠くとも、その恐怖が舞台へ捲いて来た。今も吉右衛門・菊五郎共に、其は忘れないのが用意らしい。だが、問註所対決の場は、すつかり「大岡さばき」の一場面のやうに平易化してしまつた。捌き役としての細川勝元は、あゝ童蒙的に聡明な人に演出せられてはいけないのであつた。愚かしい虎の講釈などは、相手方山名一味を嘲弄して正当派の負け色を立て直す立役の一機智に過ぎないものと思はねばならぬ。あれをあまり颯爽と演じ過ぎるので、第一黙々と傾聴してゐる弾正が、卑屈な人間で、又極めて身分の低い武士のやうに見えるに到つたのである。もつと、ふて/″\しく人もなげな処が出なければならぬ。此はどうあつても、団十郎・菊五郎以前の役者でなくてはもう見られぬものなのだらう。対決の弾正は、延若の芸容が舞台を圧する所で、さすがに神経過敏に目を配つたりする所はありながら、解釈は最古い弾正と言ふことが出来た。其には、彼にとつて、最有力な助勢がある。言ふまでもなく、極めて格はづれで、又格に入つたその容貌が、中年以後、殊に個性を発揮すると共に、普遍的な妥当性を持つて来た為である。とりわけあの敵役らしい顔面が技芸を十分に発揚させるのである。