Chapter 1 of 4

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髯籠の話

折口信夫

十三四年前、友人等と葛城山の方への旅行した時、牛滝から犬鳴山へ尾根伝ひの路に迷うて、紀州西河原と言ふ山村に下りて了ひ、はからずも一夜の宿を取つたことがある。其翌朝早く其処を立つて、一里ばかり田中の道を下りに、粉河寺の裏門に辿り着き、御堂を拝し畢つて表門を出ると、まづ目に着いたものがある。其日はちようど、祭りのごえん(後宴か御縁か)と言うて、まだ戸を閉ぢた家の多い町に、曳き捨てられただんじりの車の上に、大きな髯籠が仰向けに据ゑられてある。長い髯の車にあまり地上に靡いてゐるのを、此は何かと道行く人に聞けば、祭りのだんじりの竿の尖きに附ける飾りと言ふ事であつた。最早十余年を過ぎ記憶も漸く薄らがんとしてゐた処へ、いつぞや南方氏が書かれた目籠の話を拝見して、再此が目の前にちらつき出した。尾芝氏の柱松考(郷土研究三の一)もどうやら此に関聯した題目であるらしい。因つて、自分の此に就ての考へを、少し纏めて批判を願ひたいと思ふ。

髯籠の由来を説くに当つて、まづ考へるのは、標山の事である。避雷針のなかつた時代には、何時何処に雷神が降るか判らなかつたと同じく、所謂天降り着く神々に、自由自在に土地を占められては、如何に用心に用心を重ねても、何時神の標めた山を犯して祟りを受けるか知れない。其故になるべくは、神々の天降りに先だち、人里との交渉の尠い比較的狭少な地域で、さまで迷惑にならぬ土地を、神の標山と此方で勝手に極めて迎へ奉るのを、最完全な手段と昔の人は考へたらしい。即、標山は、恐怖と信仰との永い生活の後に、やつと案出した無邪気にして、而も敬虔なる避雷針であつたのである。勿論神様の方でも、さう/\人間の思ふまゝになつて居られては威厳にも係ること故、中には天ノ探女の類で、標山以外の地へ推して出られる神もあつたらうが、大体に於ては、まづ人民の希望に合し、彼らが用意した場所に於て、祭りを享けられたことであらう。

ちはやぶる神の社しなかりせば、春日の野辺に粟蒔かましを(万葉巻三)

と歌うた万葉集の歌の如きは、此標山を迷惑がつた時代の人の心持ちを、よく現してゐると思ふ。

さて、右の如く人民の迷惑も大ならず、且神慮にも協ひさうな地が見たてられて後、第一に起るべき問題は、何を以て神案内の目標とするかと言ふことである。後世には、人作りの柱・旗竿なども発明せられたが、最初はやはり、標山中の最神の眼に触れさうな処、つまりどこか最天に近い処と言ふ事になつて、高山の喬木などに十目は集つたことゝ思ふ。此の如くして、松なり杉なり真木なり、神々の依りますべき木が定つた上で、更に第二の問題が起る。即、其木が一本松・一本杉と言ふ様に注意を惹き易い場合はとにかく、さもないと折角標山を定めた為に、雷避けが雷招きになつて、思はぬ辺りに神の降臨を見ることになると困るから、茲に神にとつてはよりしろ、人間から言へばをぎしろの必要は起るのである。

元来空漠散漫なる一面を有する神霊を、一所に集注せしめるのであるから、適当な招代が無くては、神々の憑り給はぬはもとよりである。此理は、極々の下座の神でも同じことで、賀茂保憲が幼時に式神が馬牛の偶像を得て依り来るを見たと言ふ話、更に人間の精霊でも瓜・茄子の背に乗つて、始めて一時の落着き場所を見出すと言ふなども、同じ思想に外ならぬ。神殿の鏡や仏壇の像、さては位牌・写真の末々に到るまで、成程人間の方の都合で設けた物には相違ないが、此が深い趣旨は、右の依代の思想に在るのである。かの天の窟戸開きに糠戸神の苦心になつた八咫鏡を立てたといふのも、考へやうによつては不思議な話で、此を説明して語部の或者が、此様な、あなたよりも立派な神様がおいでになりますから、あなたを煩はさずともよろしいと、皇神の反抗心を挑発する為に、御影を映す鏡を立てた様に言ふのも、必しも不自然な解釈とは言はれぬ。此も神器の絶対の尊厳を会得せしめん為に、皇神其自ら或は其以上との信仰を持たせようとしたものであらうと思ふ。

一昨年熊野巡りをした節、南牟婁郡神崎茶屋などの村の人の話を聞いたのに、お浅間様・天王様・夷様など、何れも高い峯の松の頂に降られると言ふことで、其梢にきりかけ(御幣)を垂でゝ祭るとの話であつた。神の標山には必神の依るべき喬木があつて、而も其喬木には更に或よりしろのあるのが必須の条件であるらしい。併しながら依代は、何物でも唯神の眼を惹くものでさへあればよろしいといふわけには参るまい。人間の場合でも、髪・爪・衣服等、何かその肉体と関係ある物をまづ択び、已むを得ざれば其名を呼んだわけで、さてこそ、呪咀にも、魂喚ひにも、此等のものが専ら用ゐられたのである。尤、素朴単純な信仰状態では、神の名を喚んだゞけで、其属性の或部分を人間が左右し得たので、神は即惹かれ依るものと信ぜられたのである。念仏宗などは、或点から見れば、実に羨ましい程、原始的な意義を貽してゐる。

今少し進んだ場合では、神々の姿を偶像に作り、此を招代とする様になつた。今日の如き、写生万能の時代から遠い古代人の生活に於ては、勿論今少し直観的象徴風の肖像でも満足が出来た。仏教では、宇宙に遍満し給ふ盧遮那仏をさへ具象せしめてゐるが、我古代人には、神も略人間と同じ様子を具へたまふものとの考へはあつたらうが、さて此を具象化する段には、譬へば十三臂ありとか、猪に乗るとか、火焔を負ふとか言ふ、一定の約束がない為に、却つて種々の疑問を起し易い所から、寧描写を避け、象徴に進んだ事と思ふ。だから仏像の輸入に刺戟せられ、思ひ切つて具象化した神像の中には、今日何神やら判然せぬものが多い。蓋し我古代生活に於て、最偉大なる信仰の対象は、やはり太陽神であつた。語部の物語には、種々な神々の種々な職掌の分化を伝へてゐるが、純乎たる太陽神崇拝の時代から、職掌分化の時代に至る迄には、或過程を頭に入れて考へねばなるまいと思ふ。勿論原始的な太陽神崇拝の時代でも、他の神々の信仰は無かつたと言ふのではない。唯、今少しく非分業的であつたと思ふのである。併し此赫奕たる太陽神も、単に大空に懸りいますとばかりでは、古代人の生活とは、霊的に交渉が乏しくなりやすい。故にまづ其象徴として神を作る必要が生じて来る。茲に自分は、太陽神の形代製作に費された我祖先の苦心を語るべき機会に出遭つた。

まづ形代に就て、かねて考へてゐた所を言へば、一体人間の形代たる撫物は、すぐさま川なり、辻なりに棄つべき筈なるに、保存して置いて魔除け・厄除けに用ゐるといふのは、一円合点の行かぬ話であるが、此には一朝一夕ならぬ思想流転の痕が認められるのである。神の形代に降魔の力あるは勿論であるが、転じては人の形代にも此神通力を附与するに至つた。其仔細を理解するには、形代に移されたる人の穢れ即悪分子は、八十禍津日・大禍津日化生の形代をさながらに、御霊的威力を振うて、災禍を喰ひ留めてくれると言ふ外に、尚古代人が実在の親しむべきを知ると共に、実在を超越する程度の高いものほど、怖しさの程度が加はると感じた根本観念を推測して見ねばならぬ。

実在する間は、人間の意のまゝに活殺し得べき動物が、一歩実在性を失ふや、忽ち盛んに人間を悩まし、或は未然を察知し、或は禍福を与奪する。又我々の属性の部分々々でも、抽象的なものほど恐怖の念を唆る傾向のあつたもので、分裂などゝ言へば事々しいが、我身よりあくがれ出づる魂の不随意的な行動を、自ら恐れることすらあつた。かの六条の御息所の恐怖などは、啻に道徳上の責任を思つた為のみではなかつたので、寧、我魂魄に対する二元的の感情であつたかと思ふのである。

話が岐路に入つたが、立ち戻つて標山の事を言はう。標山系統のだし・だんじり又はだいがくの類には、必中央に経棒があつて、其末梢には更に何かの依代を附けるのが本体かと思ふ。彼是記憶に遠い話よりは、自分に最因縁の深い今の大阪市南区木津、元の西成郡木津村で、今から十年前まで盛んであつただいがくに就て話して見よう。

故老の言ひ伝へには、京祇園の山鉾に似せて作つたと言ふが、此と同型の物の分布する地方は広く、五十年や百年以来の思ひつきとは認められぬ。まづ方一間高さ一間ばかりの木のを縦横に貫いて緯棒を組み、経棒は此の真中に上下に開いた穴に貫いて建てる。柱の長さは普通の電信柱の二倍もあらう。上には鉾と称へて、祇園会のと同じく円錐形の赤地の袋で山形を作つた下に、ひげこと言うて径一丈余の車の輪のやうにに数多の竹の輻の放射したものに、天幕を一重に又は二層に取り付け、其陰に祇園巴の紋の附いた守袋を下げ、更に其下に三尺程づゝ間を隔てゝ十数本の緯棒を通し、赤・緑・紺・黄などにけば/\しく彩つた無数の提灯を幾段にも掛け列ね、夜になると此に灯を点じて美しい。其又下は前に申したであつて、立派な縫箔をした泥障をつけた、胴の高さ六尺余の太鼓を斜に柱にもたせかけ、膝頭までの揃ひの筒袖を着た男が、かはる/″\登つて、鈴木主水だの石井常右衛門だのゝ恋語りを、やんれ節の文句其儘に歌ひ揚げるのである。

昨年五月三十日相州三崎へ行つた時、同地祭礼で波打際に子供の拵へた天王様が置いてあつたが、やはりの穴に榊の枝幾本となく、門松などの様に挿してあるのが、所謂山の移り出た様で、坐に故郷の昔の祭りが懐しく思ひ出された。木津では既に電線に障るとの理由で其柱も切られ、今では八阪社の絵馬堂の柱となつて了うたのである。此又と言ふ物が、横臼を曳き出したり、綱を敷いたり、さては粟殻を撒いて早速の神座を作つたのと同様に、古代人の簡易生活を最鮮明に表示して居るので、漁師村などによく見掛ける地引網の綱を捲く台であつた様だ。小さい物では、大阪で祭りの提灯を立てる四つ脚のなども、地を掘つて柱を建てぬのは、即昔の神座の面影を遺すものではあるまいかと思ふ。

さて此類の柱又は旗竿には、必其尖に神の依代とすべき或物品を附けたものである。木津のだいがくなども、自分等が覚えてから、町によつては三日月・鎗・薙刀・神楽鈴・三本鎗・千成瓢箪など色々立てる様になつたが、依代の本体はやはり天幕に掩はれた髯籠であつた。此は、其頃あつた若中(今は勿体らしく青年会)のだいがく、並びに西成郡勝間村・粉浜村・中河内の住道村などで以前出した物には、天幕も鉾もなく露出して居つて、柱の尖には榊などの束ねたのがあるばかり、最目につくのは、此髯籠であつた。後世漸く本の意が忘却せられ、更に他の依代を其上に加ふるに到つたのかと思ふ。

然らば其髯籠の本意は如何と言ふと、地祇・精霊或は一旦標山に招ぎ降した天神などこそ、地上に立てた所謂一本薄(郷土研究二の四)、さては川戸のさゝら荻にも、榊葉にも、木綿しでにも、樒の一つ花(一本花とも)の類にも惹かれよつたであらうが、青空のそきへより降り来る神に至つては、必何かの目標を要した筈である。尤後世になつては、地神のよりしろをも木や柱の尖に結び附けたことはあつたが、古代人の考へとしては、雲路を通ふ神には、必或部分まで太陽神の素質が含まれて居たのであるから、今日遺つて居る髯籠の形こそ、最大昔の形に近いものであるかと思ふ。木津の故老などがひげことは日の子の意で、日神の姿を写したものだと申し伝へて居るのは、民間語原説として軽々に看過する事が出来ぬ。其語原の当否はともかく、語原の説明を藉りて復活した前代生活の記憶には、大きな意味があるのかも知れぬ。

木津のだいがくのひげこは、単に車の輪の様な形のものになつて居るが、若中のもの其他村々所用の物では、いづれも轂より八方に幾本となく放射した御祖師花(東京のふぢばな)の飾をかく称するのを見ると、後代紙花を棄て、輪を取りつけ天幕を吊りかけて、名のみを昔ながらに髯籠と言ふのであらう。我々の眼には単なる目籠でも同じことの様に見えるが、以前は髯籠の髯籠たる編み余しの髯が最重要であつたので、籠は日神を象り、髯は即後光を意味するものであると思ふ。十余年前粉河で見た髯籠の形を思ひ浮べて見ても、其高く竿頭に靡くところ、昔の人に、日神の御姿を擬し得たと考へしむるに、十分であつたことが感ぜられる。

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