Chapter 1 of 6

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万葉集研究

折口信夫

一 万葉詞章と踏歌章曲と

万葉集の名は、平安朝の初め頃に固定したものと見てよいと思ふ。この書物自身が、其頃に出来てゐる。此集に絡んだ、第一の資料は古今集の仮名・真名両序文である。これを信じれば、新京の御二代平城天皇の時に出来た事になるのである。従つて此集の名も、大体此前後久しからぬ間に、纏つたものと見てよさゝうである。

詩句と歌詞とを並べた新撰万葉集や、古今集の前名を「続万葉集」と言つた事実や、所謂古万葉集の名義との間に、何の関係も考へずにすまして来てゐる。茲に一つの捜りを入れて見たい。新撰万葉集は、言ふ迄もなく、倭漢朗詠集の前型である。其編纂の目的も、ほゞ察せられるのである。此と、古今集とを比べて見ると、似てゐる点は、歌の上だけではあるが、季節の推移に興を寄せた所に著しい。此と並べて考へられるのは、万葉集の巻八と十とである。等しく景物事象で小分けをして、其属する四季の標目の下に纏め、更に雑歌と相聞と二つ宛に区劃してゐる。分類は細かいが、此を古今集に照しあはせて見ると、後者に四季と恋の部の重んぜられてゐる理由が知れる。私は、続万葉集なる古今は、此型をついだものと信じてゐる。一方新撰万葉集の系統を見ると、公任の倭漢朗詠集よりも古く、応和以前に、大江維時の「千載佳句」がある。此系統をたぐれば、更に奈良盛期になつたらしい、万葉人の詩のみを集めたと言つてよい――更に、漢風万葉集と称へてよい――懐風藻などもある。

万葉集と懐風藻と、千載佳句と朗詠集との間にあつた、微妙な関係が、忘れきりになつて居さうでならぬ。懐風藻で見ても、宴遊・賀筵の詩が十中七八を占めてゐる。此意味で、万葉巻八・十なども、宴遊の即事や、当時諷誦の古歌などから出来てゐる、と見る事が出来ると思ふ。其を、四季に分けたのは、四季の肆宴・雅会の際の物であつたからである。而も、雑と相聞とに部類したのは、理由がある。

相聞は、かけあひ歌である。八・十の歌が必しも皆まで、此から言ふ成因から来たとは断ぜられまいが、尠くとも起原はかうである。宮廷・豪家の宴遊の崩れなる肆宴には、旧来の習慣として、男女方人を分けての唱和があつた。さうして乱酔舞踏に終るのであつた。さう言ふ事情から、宴歌と言へば、相聞発想を条件としたのである。古風に謂ふと、儀式の後に直会があり、此時には、伝統ある厳粛な歌を謡うて、正儀の意のある所を平俗に説明し、不足を補ふことを主眼とした。此際の歌詠が、古典以外に、即興の替へ唱歌を以てせられたのが、雑歌である。

其が更に、宴座のうたげとなると、舞姫其他の列座の女との当座応酬のかけあひとなる。古代に溯るほど、かうした淵酔行事は、度数が尠くなる。恐らく厳冬の極つて、春廻る夜の行事に限られたのであらうが、飛鳥朝から、次第に其回数を増し、宴遊を以て宮廷の文化行事の一つと考へる様になつて、宴遊・行幸・賀筵が行はれた。

直会には、主上及び家長の寿の讃美を、矚目の風物に寄せて陳べる類型的な歌を生み出す。茲に、四季の譬喩歌が出来るのである。其が次第に、唯朗らかであれば、事足ると言ふ祝言の気分から、叙景詩に近く変じて行つた。宴座のうたげになると、さうした正述心緒・寄物陳思の方法が、恣に表現せられて来る。かうして四季相聞は出来る。

巻十は、かうした謡ひ棄てられた宴歌の類聚であつて、更に他の機会の応用に役立てようとしたのであらう。巻八の方は、其が宮廷並びに豪家の穏座・宴座の間に発せられた、当時著名なものゝ記録で、大伴家持の手記を経たものらしい。

此等の歌は、表面にこそ、祝福の意の見えないのもある。併し元来、主上・家長の健康と、宮室の不退転を呪する用途を持つてゐるものであつた。恰も踏歌の章曲が次第に、後世断篇化して朗詠となつて、祝賀の文を失うても、尚さうした本義は失はなかつた様に、四季雑歌・相聞は、千秋万歳の目的で謡はれたのだ。

其最古い形は、上元の踏歌である。踏歌の詞章には、奈良朝には、宮廷詩なる大歌が謡はれた事もあるが、平安の初めには、漢詞曲が誦せられた様に見える。延暦十二年の奠都の際の男・女の章曲が、其である。けれども、後世の淵酔の郢曲類を参照すれば、公式のものが其で、其他に崩れとして、国文脈の律文を謡つた事は推定してよい様だ。だから踏歌の曲としては、漢詩賦を用ゐるが、淵酔舞踏の詞としては、短歌其他を使うた事が察せられる。漢文脈の方は、後に「万春楽」と称する程、其句をくり返したのだが、国文脈の物は「あらればしり」と言ふ位『よろづ代あられ』を囃し詞に用ゐる様になつた。

此踏歌の詩賦から朗詠が生れて来ることは、既に述べた。此朗詠の前型と見るべき物の、歌と対照せられてゐる新撰万葉集の存在は、踏歌に詩歌の並び行はれたことを示すものである。而も、其詩を列ねた集の名を「千載佳句」と言うてゐるのは、考へねばならぬことである。踏歌から出て、帝徳を頌し聖寿を呪するものなるが為の名である。さうして其が更に、他の淵酔にも用ゐられた。万葉集の編纂が、平安初めにあるとすれば、其題号の由来も、踏歌其他の宴遊の用語に絡めて説いてよい。

万葉集の名義について、万詞又は万代の義とする議論は、王朝末の歌学者からくり返されて来た。而も今は、もう空論に達してゐる。疑ひもなく、万代の義である。だが、万代に伝ふべき歌集の義と信じられてゐるのは、尚考へ直さねばならぬ。私は、千載佳句に対して、天子・皇居の万葉を祝する詞章と言ふ用語が、平安朝初期には、あつたのだらうとの仮説を持つ。後に、万春楽と言ふが如きである。此語、踏歌章曲の一部としての、歌詞の名として通用した処から、舞踏歌の総称となつてゐたのであらう。さうして、次第に四季の風物と述懐とを示す歌集を、万葉集と言ふ事になつたものと見る。

初めは専ら謡ひ物として、後には半以上鑑賞用の作物にも、通用する名となつたのではあるまいか。私の推定が幸に正しくば、此集編纂当時は、まだ謡ひ物としての「万葉」の集であつたのであらう。して見れば、万葉集の最新しい時代の意義に叶うた巻は、八・十である。だが、万葉詞曲には、尚古い形が、宮廷及び氏々に残つてゐた。踏歌章曲以前の万葉を、此に加へて編纂しようとした成蹟が、現存の万葉集である。

此意味における万葉の用語例を拡充すれば、宮廷詩と言ふ事になる。宮廷の祭事儀式に用ゐられた伝来の歌詞及び、民間から採用せられた詞曲は、すべて此にこもる。

二 万葉集の大歌

記・紀に見えた大歌――歌・振をこめて――と、万葉の一・二に残つた宮廷詩との差異は、下の二つである。彼は、呪詞・叙事詩――物語――から游離又は、脱落したものが、其母胎なる詞章の裏書きによつて呪力を持つてゐ、此は、其原曲から独立した様式といふ意識の上に立つてゐる事である。伝来の大歌の改作・替へ歌でなくとも、威力は自由に詞章の上に寓るものと考へた事である。尤、古物語を背景に持つたものもあるが、尠くとも其を引き放して考へることが出来たのである。

仁徳朝・雄略朝などの伝説ある歌も載せてゐるが、大体に於て、飛鳥末、即舒明・皇極朝頃からの記録である。此時代は、大歌の転機であつた。日本紀や万葉自身を見ても、宮廷詞人――秦大蔵造万里・野中川原史満・間人連老――らしいものが出かけてゐる。代作詞人の作物が宮廷詩として行はれたものゝ記録を採用したらしい。而も、一・二を通じて、其序と歌との間に、半数以上境遇・地理・時代・作者の矛盾や錯誤を指摘出来る。後世の書き留めな事は明らかだ。が、巻末の体裁に、長皇子が、書いたらしい様子を見せてゐるから、奈良朝の初期に成書となつて居たものと見られる。恐らく右の皇子の編纂であらう。さうして奈良前の物を、大歌の本格と見てゐた事が察せられる。

此二巻にとりわけ明らかな事実で、万葉集全体に亘るものは、歌と鎮魂法との関係である。鎮魂歌は、舞踊を伴ふ歌詠で、正式にはふりと言ふべきであるが、宮廷伝来の詞曲には、うたと称へてゐる。此巻々の雑歌・相聞・挽歌は皆、明らかに其手段として、謡はれたものなることが見えてゐる。此意味に於て、此二巻は、宮廷人の信仰生活を、鮮やかに見せてゐる。

三・四・六の巻は、古今集の前型とも言ふべき、古風・近代様を交へ録したもので、此が、私人或は、其一族の歌集にも、其伝来正しく、最重々しい編輯法とせられてゐたのではないか。して見れば、此は、大伴氏長の家の集であり、大伴古今和歌集とも言ふべきものであらう。さうして出来た目的は、年頭朝賀の寿詞奏上同様、氏族の歌に含まれた鎮魂的効果を聖躬に及ぼさうとしたのではあるまいか。だから、三・四・六は、大伴氏に流用した宮廷詩の「大歌」古曲及び、現代の族長の身辺の恋愛・誓約・病災除却のすべて鎮魂に属する歌曲伝来の久しい考へ方から、此歌集を献ることが、服従を誓ひ、聖寿を賀する事になつたのであらう。

此両巻は、家持が、主上に献つたものと見てよい。が、或は皇太子伝としての位置から見て、其後み申した早良太子――或は、他の男女皇子――の為の指導書として上つたものとも、文学史的には考へられる。平安の女房日記や、其歌物語が、宮廷貴族の子女教育に用ゐられたり、男子の手に書かれたものでも、倭名鈔や、口遊などが、修養書に使はれた例の古いものではあるまいか。かうして見れば、以前持つてゐた大伴氏に繋る、両度の疑獄の為に、没収せられた家財の一部として、此等の巻及び巻五並びに、巻十七以下の四巻等が、歌所に入つたものとする私の考へ方は近世式な合理観である。一説として採用して下さつた澤瀉さんにはすまないが、潔く撤回して了ふ。東宮坊の資材となつて残つたのが、第二の太子安殿皇子の教材となり、平城天皇となられても、深く浸みついてゐた「奈良魂」の出所は、此等の巻々などにありさうに思ふ。

巻第五は、族長としての宴遊詞・其他の鎮魂詞といふ意味から出て、文学態度を多くとり入れたものである。憶良の私生活の歌詞の多いのも、此巻が憶良の手で旅人の作物の整理せられたものと見てよい。だから序引の文詞は憶良の作で、歌だけは、恐らく旅人の自作であらう。さうした歌書を献る事が、長上に服従を誓ふと共に、眷顧を乞ふ所以にもなるのであつた。「あがぬしのみ魂たまひて」の歌に、其間の消息が伝つてゐる。さうすると、巻五の体裁や、発想法の上にある矛盾も解けるのである。

巻五は、憶良の申し文とも言ふべき、表に旅人を立て、内に自らを陳べた哀願歌の集である。此巻などになると、二・三・六其他には隠れた家集の目的が、露骨に出てゐると見てよい。

かうして見ると、三・四には、全体として諷諭鎮魂・暗示教化の目的が見えると言へる。巻五には、魂の分割を請ふ意味が、家集進上の風と絡んでゐる様である。皆形を変へても、鎮魂の目的を含まないものはない。

三 ふり くにぶり うた

万葉や記・紀に「門中のいくりにふれたつ……」「下つ瀬に流れふらふ」「中つ枝に落ちふらはへ」など、ふるの系統の語の、半分意義あり、半分はないと言つた用法を、類型的にくり返してゐるのは、何故であらう。此は全く、たまふりの信仰から出来た多くの詞章が、其ふると言ふ語の俤を、どこかに留めて居るのである。たまふるを略してふると言ふ。此ふると言ふ語は、外来の威霊を、身に、密着せしめると言ふ用語例である。内在魂の游離を防ぎ鎮めると言ふたましづめの信仰以前からあつたのだ。

此まな――外来魂――信仰は、国々の君の後なる族長・神主なる国造等の上にもあつた。其国を圧服する威力は、霊の「来りふる」より起るとした。其為の歌舞が、国の霊ふり歌及び舞である。此がくにぶりと言ふ語の原義である。同時に、ふりは、舞姿或は歌曲を単独にいふ古語でなかつた事が知れよう。霊ふりには、歌謡・舞踏を相伴ふものとして、二つの行為を一つにこめ、ふりの略語が用ゐられる様になつたのは、古代の事である様だ。

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