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万葉集研究
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万葉集研究
折口信夫
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Chapter 5 of 6

5

かうした家集の中には、誇張や、衒ひや、記憶違ひなどもあるはずである。其に第一、対人関係は、後人の発想法とは異なるものが多い。万葉以前からの「女歌」の論理を考へないでは、男女関係の誤解せられる様なものが多い。とにもかくにも平安の女房文学の中から、歌は放しては考へられない。前代の風俗・歌を中心に綴つた説話記録が、歌物語となり、自分の身辺の応酬を記した部分が日記歌として行はれるやうになり、其が更に単独な物語や、家集・日記・世代歴史を生む様になつた。時世が移つて、女房の教養が浅くなると、女歌は固より、すべての女房文学は、隠者階級の手に移つて了ふ。平安朝末のあり様である。此間の「女」の時代は実は、奈良以前からの、長い宮廷巫女生活の成果である。

妹の魂結び

家々の成女戒を経た女たちは、巫女である。其故、呪術を行ふ力を持つてゐた。愛人や、夫の遠行には、家族の守護霊でもあり、自身の内在魂でもあるものを分割して与へる。男の衣装の中に、秘密の結び方のたまの緒で結び籠めて置く。さうして、旅中の守りとした。後には、女の身にも男の魂を結びとめて置く様になつたのだ。

此緒は、解くと相手の身に変事が起るのである。だから互に、物忌みを守つて居ねばならぬ。其たまの緒に限らず、霊物の逸出を禦ぐ為に結び下げて置くものを、ひもと言ふ。此は外物の犯さぬ様に、示威するものらしい。紐は、身にとり周らさずともよい。懸けるかつけるかしてあればよい。此変化したのが、いれひもであり、したひもなのである。こまにしき・からにしきなど、紐の枕詞に近い誇称は、悪を却ける為の、讃辞であつたらしい。必しも、ひもの古義には、下佩びを直に指す処はない。

難波津に御船泊てぬと聞え来ば、ひもときさけて、立ちはしりせむ(巻五)

とある憶良の歌は、恋人を待ち得た性の焦燥を言ふのではない。此は、長者の霊の游離を防ぐために、男もすることになつてゐたのだ。

こま錦 ひもとき易之 天人の妻どふ宵ぞ。我も偲ばむ(巻十)

の歌なども、直に閨ごとの予期を言うてゐるのではない。

易之は「かへし」と訓むべきなのかも知れぬ。遠く別れて居た者の、我が土地――難波津は、大和の国の内と観じたのだ――家に還り来ると、物忌みは解除せられるのだ。其双方の身にぢかにつく下袴・裳などにした物が、ふもだしの禁欲衣などにもつく処から一つに考へられて行つたのだ。だから必しも、紐が下佩びは勿論、貞操帯の意義でもなかつたのである。記・紀から見えるひもの信仰は、もつと広いものであつた。妻・愛人の結ひつけた守護霊の籠められた紐の緒が、ついて居る以上、此に憚る風も生じたのである。下袴の紐をさう言ふ欲望の物忌みの標とする考へが行はれてゐた訣ではない様だ。

かう言ふ訣で、旅行者の歌には、妻の魂の逸出せぬ様にとの考へで、此ひもを問題にするものが多かつたのだ。其が、妻を偲ぶ歌心を展開して来たのである。又同時に、郷家の寝床に、我が魂の一部は、分離して留るものと信じてゐた。其為に家や床や枕を言ふ風が出来て居た。

たま藻刈る 澳べは漕がじ。しきたへの枕のあたり 忘れかねつも(巻一)

此宇合の歌なども、今日は頻に家の我が枕のある床の様子が、目に浮んで思ひ去りにくい。かう言ふ時は、凶事があるものだと、舟行を恐れてゐるのである。

魂はやす行事

東国では、旅行者の魂を木の枝にとり迎へて祀る風があつたらしい。此も妹のする事だつたらしい。此をはやしと言ふ。

あらたまの塞側のはやしに、汝を立てゝ、行きかつましゞ。いもを さきだたね(巻十四)

上ツ毛野さぬのくゝたち折りはやし、我は待たむゑ。言し来ずとも(巻十四)

きべは、村の外囲ひの柵塁の類である。あらたまは枕詞。遠江麁玉郡辺で流行した為に、地名を枕詞にして「き」を起したのだ。きべは地名説はわるい。村境で、魂はやしの式を行ふのである。木を伐つて、此に魂を移すからはやしである。処が、此はやすには、分霊を殖し、分裂させる義があるのだ。「旅出の別れの式に、妹よ。汝を立ち見送らしめては、行き敢へまじ。妹よ。先だち還れ」。此に近い意だらう。後の者は、上野の民謡故、さぬ――又、さつ――なる木を言ふ為に、地名の佐野にかけたのだ。茎立ちは草の若茎と考へられ易いが、木の萌え立ちの心の末になる部分だらう。其を折つて魂はやすのである。――をるはくり返す義か――「旅の人の伝言よ。其は此頃来通はず。かうして続くとしても、我は、魂はやしによつて、迎への呪ひをして居ようよ」。かう説くのが、ほんとうだらう。すると、

家場中のあすはの神に 木柴さし、我は斎はむ。帰り来までに(巻二十)

すると、此こしばも、神に奉ると言はぬ処から見ると、霊を対象にしたのだ。あすはの神は竃神だから竃の事にもなる。竃に――或はかまどの前方にか――はやしの木柴(?)を立て定めて、旅人我の魂を浄め籠めて置かう。帰り来る時まで――ひきよせられて還り来る様にの意か――此歌、旅行者自身の歌と伝へたのは、誤りであらう。此歌の意も、神を斎ふと言ふ様にならないでよく訣る。又、幼稚だが、極めて近代的なと思はれてゐる、

まつのけの なみたる見れば、いはひとの 我を見おくると、立たりし もころ(巻二十)

と言ふのも、道中に松の並み木を見た歌として鑑賞出来ぬ様になる。靡並而有ではない様だ。松の木の靡き伏すばかり、老い盛え木垂るを見るに、松の木の枝の靡き伏す斎戸に――斎殿か、家人又は斎人か――旅の我を後見る――家に残つた人の遠方から守らうとして、立てたりしはやしの松の、其まゝの姿である。家の魂の鎮斎処の、我が為のはやしの木の勢盛んにある様の俤と信じられる。さすれば、家なる我が魂は、鎮り、栄えて居るのだ。かう言ふ旅人の「枕のあたり忘れかねつも」一類の不安は、旅泊の鎮魂の場合に起り勝ちなのであつた。

もころ男は、同等・同格・同輩の男と言ふ風に、大和辺では固定して居る。が、此は、卜の卦の示現する様式の一つらしい。将来の運命や、遠処の物や、事情の現状を、其まゝ見る事と思はれる。旅泊の鎮魂歌のあたりの矚目と、遠地の郷家の斎戸の様とを兼ねて表してゐるもので、叙景と瞑想風な夜陰の心境望郷の抒情詩とが、此から分れ出ようとする複雑な、古式の発想法である。

私ははやすと言ふ語について、別に言うて居る。祇園林・松囃子・林田楽などのはやしが、皆山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽き物であつた。山・山車の様な姿である。此牽き物に随ふ人々のする楽舞がすべてはやしと言はれたのだ。「囃し」など宛てられる意義は、遥かに遅れて出来たのである。山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。「七草囃し」と言ふのも、春の行事に、嘉詞を用ゐるのだ。大根・人参の茎を、切り放すことを、上野下野辺で、はやすと言ふのも「さぬのくゝたち」の歌の場合の、古用例だとは言へないが、おもしろい因縁である。

ふるの内容の深いやうに、はやすも木を伐り迎へ、鎮魂するまでの義を含んでゐた。其が後世は、更に拡つて行つたのだ。はやすわざは、初めから終りまで妹のするのではない様だ。が、大嘗の悠紀・主基の造酒児なる首席巫女の、野の茅も、山の神木も、まづ刃物を入れるのを見れば、さうした形も、想像出来る。

霊の放ち鳥

漢土の天子諸侯の生活には、林池・苑囿を荘厳するのが、一つの要件であつた。さうして、奇獣を囹にし、珍禽を放ち飼うた。此先進国の林池の娯しみは、我が国にも模倣せられた様に見える。蘇我氏の旧林泉の没収せられたものらしい飛鳥京の「島の宮」は、泉池・島渚の風情から出た名らしい。而も、此が代表となつて、林苑を「しま」と言ふ様になり、又山斎を之に対して「やま」と言ふ様になつたらしい。我が国造庭術史上に記念せられるはずの宮地であつた。

其離宮に居て、摂政太子として、日並知皇子尊と国風の諡を贈られたのは、草壁皇子である。其薨後、其宮の舎人等の吟じたと思うてよい二十三首の挽歌は――人麻呂の代作らしい――此島の宮と、墓所檀の岡との間を往来して、仕へる期間も終りに近づいた頃に謡うた鎮魂歌らしいが、島の宮の池の放ち鳥を三首まで詠じてゐる。

島の宮、上の池なる放ち鳥、荒びな行きそ。君まさずとも

み立たしの島をも家と棲む鳥も、荒びな行きそ。年かはるまで

塒たて飼ひし雁の子、巣立ちなば、檀の岡に飛び帰り来ね(巻二)

と鳥に将来の希望を述べてゐる。此は皆、皇子尊の愛玩せられたものだから、其によつて感傷を発したものと言うて了へば、其までゞある。が、天智の崩御の時も「わが大君の念ふ鳥立つ」と、湖水の游鳥を逐ひ立てぬ様に心せよ、と言ふ風な皇后の御歌がある。鳥に寄せて悲しみを陳べた歌は、他にも多い。

此は唯遺愛の鳥だからと言ふやうに見えたが、尚古い形から展開した発想法であつた。鳥殊に水鳥は、霊魂の具象した姿だと信じた事もある。又其運搬者だとも考へられた。而も魂の一時の寓りとも思うて居た。事代主神がしてゐたと言ふ「鳥之遨游」も、ほむちわけの鵠の声を聞いて、物言はうとしたのも、皆水鳥を以て、鎮魂の呪術に使うた信仰の印象である。やまとたけるの白鳥――又は八尋白千鳥に化したと言ふのも霊魂の姿と考へた為であつた。鵠・鶴・雁・鷺など、古代から近代に亘つて、霊の鳥の種類は多い。殊に鵠と雁とは、寿福の楽土なる常世国の鳥として著れてゐた。雁は、仁徳帝とたけし・うちの宿禰の唱和だと言ふ、宮廷詩本宜歌の主題となつた。雁が卵を生んだ事を以て、瑞祥と見たのである。島の宮の雁の子と言ふのは、名は雁と称へてゐるが、名だけを然呼んだのであらう。恐らく鴨と雁との雑種で、家鴨に近いものではなかつたか。平安朝にも、雁の子を言つてゐる。鴨の卵らしい。島の宮のも、寿を祝ぐ為の目的から、伝来どほりの名を負せた代用動物だと定めてよい。

常にも水鳥を飼うて、此を見る事で、魂の安定をさせようとしたのだ。臨時には篤疾・失神・死亡などの際に、魂ごひの目的物とせられたのである。出雲の国造の呪法では、鵠が用ゐられた。蘇我氏の雁によるのと相対してゐる。国造の代替りに、二年続けて「神賀詞」奏上の為に参朝した。其貢物は皆国造家の「ことほぎ」料であるが、其中、白鵠の生御調は、殊に重要な呪物であつた。鵠の「玩び物」と称へてゐる。此は、鵠に内在する威霊を、聖躬に斎ひこめようとするので、其を日常眺めて魂の発散を圧へようと言ふのである。鵠の白鳥も次第に他の白羽の鳥を代用する様になつて来た。鷺などが、其である。

雁がね・たづ――鵠・鶴・鴻に通じた名――がねと特別に、其鳴を注意したのは、其高行く音に聴き入つた処から出たのである。鳴く音の鳥として遂には、之鳴と言ふを接尾語風に扱うて、たづや雁その物を表す様になつたのであらう。島の宮の水鳥も、古義の玩び物としての用途と漢風の林池の修飾とする文化模倣とが調和して、原義は忘れて行つたものである。其で、歌の上もやはり、さうした時代的合理化が這入つて来て「念ふ鳥」だの遺愛の「放ち鳥」などゝ言ふ風に、表は矛盾なく、形を整へてゐるが、ほぎ歌・鎮護詞・魂ごひ歌などの展開の順序を知つてかゝると、長い年月の変化が語られる。後世人の理会力や、感受性に毫も障らぬ様に整頓せられてゐる、詞章・歌曲の表現法が、思ひもかけぬ発生過程を持つてゐる事に思ひ到るであらう。

すめみま

記・紀すでにさうした解釈を主として居り、後世の学者又其を信じてゐる所の皇孫即すめみまとする語原説は、尠くとも神道の歴史の第二次以下の意義しか知らぬものである。続紀宣命などを見ても、みまは聖躬の義で、宮廷第一人なる御方の御身――即、威霊の寓るべき御肉身――の義であつた。其が、宣命の原型からあつた形を二様に分岐して、記・紀に趣く伝承では、新しい合理化によつて、聖孫の義としたのだ。其一方を継いだ宣命の擬古文では、聖躬とした。だから、第二人称の敬称みましは、此と関係のあるものに違ひないと思ふ。

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