Chapter 1 of 5

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たうとうこゝまで逃げて來たと云ふ譯だが――それは實際悲鳴を揚げながら――の氣持だつた。がさて、これから一體どうなるだらう、どうするつもりなんだらうと、旅館の二階の椅子から、陰欝な色の湖面を眺めやつて、毎日幾度となく自問自答の溜息をついた。海を拔くこと五千八十八尺の高處、俗塵を超脱したる幽邃の境、靈泉湧出して云々――と書き出してある日光湯本温泉誌と云ふのを、所在ないまゝに繰りひろげて讀んで見ても、自分の氣持は更にその境に馴染んで來なかつた。よくもこゝまで上つて來たものではある、が今度はどうして下れるか、自分の蟇口は來る途中でもう空になつてゐた。どこに拾圓の金を頼んでやれる宛はないのである。心細さの餘り、自分はおゝ妻よ! と、郷里の妻のことを思ひ浮べて、幾度か胸の中に叫んだ。でこの手記は、大體妻へ宛てゝ書くつもりだが、が特に何かの理由を考へ出したと云ふ譯では無論ないのだ。昨日――九月九日のある東京新聞の栃木版に、生ける屍の船長夫妻と云ふ見出しで、船の衝突で多數の人命を失つた責任感から、夫妻で家出して、鹿沼町の黒川と云ふ川に深夜投身自殺を計つたが、未遂で搜し出されたと云ふ記事を自分は寢床の中で讀んだが、町の人々の間にはそれが狂言自殺だなぞと云ふ非難もあると書かれてゐるが、そんな年配の夫婦が狂言自殺?――そんなことがあり得るだらうか。そしてまた、その生ける屍と云ふ文句が、自分の聯想を更に暗い方に引いて行つた。

「生ける屍か……」と、自分はふと口の中で呟いた。

白根山一帶を蔽うて湧き立つ入道雲の群れは、動くともなく、こちらを壓しるやうに寄せ來つつある。そして湖面は死のやうに憂欝だ。自分の胸は弱い。そして痛む。人、境、倶不奪――なつかしき、遠い郷里の老妻よ! 自分は今ほんたうに泣けさうな氣持だ。山も、湖水も、樹木も、白い雲も、薄緑の空も、さうだ、彼等は無關心過ぎる!

今日は東京で、親しい友人の著作集の出版記念會に、自分も是非出席しなければならないのだつた。それも駄目、あれも駄目。仕事の方も駄目、皆駄目なことになるのだ。斯うしてすべての友人からも棄てられ、生活からも棄てられて、結局生ける屍となるか、死せる屍となるか、どちらかなんだらうが、慘めな悲鳴を揚げつゝ逃げる愚か者よ! 自分は自分のその、慘めな姿を凝視するに堪へない。

雲の山が、いつの間にか、群山を壓してしまつてゐる。湖水は夕景の色に變つてゐる。自分は少し散歩して來よう。……

白根山、雲の海原夕燒けて、妻し思へば、胸いたむなり。

秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く澁く、タネあるもかなし、おせいもかなし。

湯瀧のさき、十五町ほど湖畔の道を、戰場ヶ原を一眸の下に眺められるあたりまで、道々花を摘みながら、ゆつくりと歩いた。原一面薄紫色に煙つてゐた。何と云ふ美しい眺めだらう。十八九年前の思ひ出から、自分は夕闇の迫つて來るのも忘れて、しばらく立つてゐた。湖水の暗い色は、冷めたい戰慄を傳へた。

自分のかゝりの女中は、あい子と云つた。二十だと云ふが、十七八にしか見えない、素直なやさしい娘である。彼女は自分の採つて來た花を帳場に持つて行つて、一つ/\紙片に名を書きつけて來て呉れた。――秋グミ、大カメノキ、ツリガネニンジン、ゴマナ、ニガナ、ハタザヲ、ワレモカウ、ミヤマウド、ヒヨドリバナ、アキノキリンサウ、カウゾリナ、ヤマハハコ――自分の知つてゐるのは秋グミだけだつた。

いつもの晩より遲く、二時頃まで自分は酒を飮んだ。滯在客はほとんどゐないのだ。それで女中たちは代る/″\遊びに來て呉れた。ナカ子、ハナ子、マス子、ツル子、ハマ子、ユキ子、それとアイ子との六人居るのだが、女中と云ふよりは娘と云つた感じの、十六七から二十までのやさしい氣立てのいゝ娘たちである。早く十一月になつて、日光の町にさがる日を、彼女等はどんなにか樂しみに待つてゐるらしい。そしてまた彼女等は、自分のことを、どんな人間かと疑つて見たこともないかのやうに、無邪氣に振舞つてゐる。それが時々自分を憂欝にさせる。……

四日の日――さうだつた、Kの咯血したのも、やはり先月の四日だつたが――自分は朝から金策に出歩いてゐた。自分は月末の下宿の拂ひを濟ましてなかつた。自分は九月號の雜誌には一つも書けなかつたので、全然の無收入だつた。自分は二三の雜誌社をつた。が下宿に差出すべく餘りに少な過ぎる額しか、出來なかつた。それに、前の晩またもおせいと醜い掴み合ひの喧嘩をやつたので、兎に角ひどく厭な氣分の日だつた。牛込にKを訪ねたが、Kはやう/\床の上に起きあがれる程度で、まだ談話は遠慮しなければならなかつた。やはり一度咯血したことのある弱い細君の顏は痛痛しいほどやつれてゐた。自分はそこ/\に外へ出て、若松町から電車に乘つたが、すつかり滅入つた氣分だつた。一ヶ月前の咯血の時、細君から速達郵便を受けて車で駈けつけたが、喀血がなか/\止まらなかつた。咳く度に混つて出た。自分も四五日の間、食がふだんのやうにたべられなかつた。三四年前自分もその經驗では、どれほど脅かされたものだつたらう。

「あの容態では、どうかなあ? よくなれるか知ら。何しろたいへんなことだなあ……」

と、思はずわがことのやうに、暗い溜息をついた。

神樂坂の鳥屋に遲い晝飯にはひつて、酒を飮んだ。下宿の出がけにポケツトに入れて來た、玄關の状差しにはひつてゐた郷里の長男からの手紙と、信州の別所温泉から出したSからの繪葉書とを、盃を舐めながら讀んで見た。長男からの手紙は、九月の新學期に間に合せて、どうして學用品の代を送つて呉れなかつたかと云ふ、詰責の文句だつた。心にかけながら、つい送つてやれなかつたのだ。Sは十日程前から、戀人と、信州の温泉めぐりをやつてゐるのだつた。別所温泉は自分も六七年前に半年程引かゝり、田舍藝者にふられた小説を書いた思ひ出の土地だつた。高原に立ちて四方の山々を眺め、雲を見る、多少の感慨無き能はず――斯う云つたやうな文句が走り書きに書かれてあつた。斯うした簡單な文句が、自分にはいろ/\なことを想はしめた。羨望とも、同感とも、同情とも、云ひやうのない氣持だつた。何と云ふヒタ向きな男だらう! 勇敢な酷烈な戀――自分は、氣持を引緊められるのを拒ぐことが出來なかつた。彼等の直情な戀に較べて、自分とおせいとの關係の、如何に醜く、耻づべきだか。互ひにドブ泥のなすり合ひをしてゐるやうなものなのだ。戀でもなく愛でもなく、そして彼女は姙娠三ヶ月?……自分は飮んだ酒がグツとこみあげて來るやうな氣持がした。淺ましくも、呪はれた、自分等二人だ。妻よ、輕蔑と憐れみを以つて許してほしい。さうだ、自分は今では、おせいにすら輕蔑されてゐるやうな、すつかりヤクザな人間なのだ。

「俺もどこかへ行きたい。どこかへ/\、行つちまひたい。そして當分歸つて來まいか知ら。……下宿へ歸つたつて、何が自分を待つてゐるんだ? 書き損ひの原稿と、あの髮を蓬々さした、狐憑きのやうな眼付きして、厭な姙婦氣取りのおせいとが待つてゐると云ふ譯かな。あゝ、厭だ厭だ。何も彼も厭だなあ。……行つちまへ! 行つちまへ!」と、自分は心の中に繰返して、われと勢ひづけた。

「この停滯、この墮落、自分の全身中がドブ泥見たいなものでいつぱいなんぢやないか知ら? これが人間の生活だとは、俺自身にも考へられない。一日でも一刻でも、この頃の生活を棄てろ。二人で釀す惡臭から遠退け。でないと、貴樣は今に自分から窒息するのだ……」

ふと十八年前、二十の年、暑中歸郷の途中、日光見物旁々湯本から金精峠へ、鬼怒川の上流に出ようとして、途中無理をした爲め戰場ヶ原にさしかゝつた時分にはもうすつかり日が暮れ、その上大雨に降られ、初めての道ではあり、原の眞中頃でどうにも歩けなくなつた時、後から牛を曳いて來た十五六の少年に助けられ、二荒山の下の木挽小屋で、一晩泊めて貰つたことのある――その戰場ヶ原のことが、ふと頭に浮んで來たのだつた。「さうだ/\、あそこがいゝ。あの原を久しぶりで見て來よう。あの憂欝な湖水もよかつた……」自分は鳥屋からツーリングを呼んで貰つて、すぐ上野驛へ駈けつけたのだつた。

その當年の少年も、今では幾人かの父となつて、平和な日を送つてゐるのか知ら? 彼は二十四五の兄と二人で、その小屋で炊事役をし、兄の挽いた板を牛で日光の町へ運び、そしてまた兄の木挽きの弟子でもあつた。丁度その日は彼等の父が日光の町から酒の二升樽をさげてやつて來たのだが、息子が酒を飮まないので、おやぢさん一人で手酌で飮んでゐるところであつた。自分のびしよ濡れの小倉服は土間の焚火のまはりにかけ、息子の褞袍を着せられて、生干の椎茸と川魚を大鍋で煮たのを肴に、空腹に熱燗をしたゝかに御馳走になつた。自分とおやぢさんとは、三枚ほど筵を並べた板敷の上に、薄團まで着せられて寢かされたが、息子たちは土間の焚火のまはりに横になつて、一夜を明かしたのだつた。それからざつと二十年、忘れ得ぬ懷かしい旅の思ひ出であつた。その一夜を思ふ時、自分の荒み切つた胸にも、人生と云ふ母のふところに温ためられた少年の日が、還つて來る氣がする。

自分は今度もまた、雨の中を、夕方四人の田舍婆さんと乘り合せ、ガタ馬車に搖られながらその原を通つて來たのだ。方角はたしかさうらしいが、ずつと道に近く、二棟ばかりの小屋が立つてゐた。滯在中に一度それとなく、訪ねて見よう。

十四日。發熱八度三分。左脊部肋間の神經痛堪へ難し。アスピリンを飮み終日臥床呻吟。昨夜の無理がたゝつたのだ。「すべてが、妄想と云ふものの仕業か知らん? 絶望して見たり、希望を描いて見たり、憎惡、愛着、所有感、離脱感――何もかも皆己れと云ふ擴大鏡を透しての妄想と云ふものか知らん? あの山の樹木、湖の水が自分等に無關心のやうに、自分も社會、人間、周圍に對して無關心な氣持になれないものか知ら。生の溺愛か、離脱か、はつきり出來ないものか知ら。はつきり出來ないところに何か知ら生活の味……?」が斯んな山の上に來て、蒲團の中で斯んなことを考へたりする自分の阿呆さ加減に氣づいて、ひとりできまりわるくなつた。

近所で材木を挽く鋸の音、庭の筧の音、鷄や家鴨の聲、下山の準備で屋根屋、大工、經師屋などはひつてゐるので屋根上でトタンを打つける音、鑿の音、さま/″\な音で晝間は山の宿も決して靜かではないのだが、熱のためについうつら/\と寂滅の境に落ちてゐた。

昨日は珍らしくカラリと晴れて、そして暖かだつたので、氣分がいくらか好かつた。それで、宿料の心配から、午後から何かしら書きはじめたいと思つた。按摩を呼びにやつた。こゝへ着いた翌日かに一度呼んだことがある、五十近い、口鬚なぞ刈込んだ、やはり日光在だと云ふが、中年後に習つたのだと云ふから下手だつたが、この前の時はわりに叮嚀に揉んだ。昨日は無茶だつた。「旦那の身體は一度揉んですつかりわかつちめえましたから、こゝのとこさへよく揉んで置くとね」斯んなことを云つては、左りの肩胛部のあたりを滅茶苦茶にグリ/\やり、強く叩き、頭もほんの形式ばかりに手拭を卷いてゴシ/\やりながら「どうですね旦那、片手で斯う云ふ風に緊まるのですぞ」なぞと自慢らしく手拭を右左りと片手で引絞つて見せ、それで「どうもお粗末さま」斯う云つてペコンと一つ頭をさげ、いくらかは視えるらしい薄氣味わるい眼の、土氣色した顏を自分に向けた。腰をさすらうとも横になれとも云はなかつた。この前の時もさうだつたが、それでやはり上下分の料金七拾錢を帳場から持つて行くのだつた。さすがに自分も毒氣を拔かれた氣持で「それでは……」と云つて、この前と同じやうに五拾錢銀貨を一つ彼の大きな掌に載せ、呼鈴を押して女中を呼んだ。自分はすつかり脅えた氣持で蒲團の中に横になつたが、亂暴な揉み方や叩き方を意固地に我慢してゐたお蔭で、折角温泉で鎭つてゐたのが、急にチク/\痛み出して來た。ホーツと熱が出だした。按摩の殘して行つた惡臭がいつまでも鼻から消えず、手垢で染つてゐた手拭が、眼から去らなかつた。後悔と疲勞とで、自分の氣分は滅茶々々だつた。

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