Chapter 1 of 4

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私は検察のことは全然存じません。いろんなことを学問その他の面からやりました。然し、幸か不幸か検察に関することは何等の経験も知識もございません。それでは何のために出たかというとその理屈は別といたしまして、心の中は非常にやましいのでございます。知らずして言う、これは非常に悪いことです。私は正義をささえるには涙をもつてせよということでございますが、社会正義は冷たい考えだけで支えられるものではない。あらゆる面を考えまして溢れるが如き涙ぐましい心をもつて正義を求めねばならぬというのであります。いろいろと刑事行政の専門家の話をうかがつていると、この世の中に果して正義が行われておるであろうかという、この世上一般に対する疑問が起つて来たわけであります。何故かというと、犯罪を犯しても容易なことではその処罰が行われない。余程はつきりした証拠があり、あらゆる研究をかけてどうしてもこれを問題にするというときに、はじめて正義問題が舞台に上るのであります。多くのものは免れて恥なしというような気がしておるわけであります。私はかつて大臣をやつておりましたときに議会で時の司法大臣に質問があり、「一体闇米を汽軍で運搬するとき、自分達の親類や何かに喰わすのに闇米を運んでおるけれども、それを警察当局は摘発して闇米をとり上げてしまつて、或いは刑罰をもつて臨んでおる。これは怪しからん」という。こんなふうな質問でございました。そのとき司法大臣は「いやそんな時には決して摘発することはしないのだ。自分の責任をもつてそんなことはしないようにする」という、こういう宣言をいたしましたところ、その多くの委員会の人人は拍手せんばかりにこれを歓迎いたしました。私はこれを聞いておりまして非常に悪印象を受けたわけでございます。何故かというと、悪いことをやつても、国法で禁じられるということをやつても、司法大臣は罰しないぞということを議会の委員会で正式に論じ、しかも聞いておる委員諸君は拍手をもつてこれを迎えたのであります。私は立場が少しちがつております。最後の是非善悪の決断は難かしいのでありますけれども、これを一口につづめてみますと国法は現実存在しておつても、国法を守らざることに対して、時の司法大臣が議政壇上において宣言した。而して国民の代表はこれを喝采した。こういうことでございますと、私の立場からいうと、法律というものは一体何の価値があるか、国会をつくり、法律をつくり、これを官報にのせて国民はこれを守るべし、法律こそは守るべきものであるといつておつても、すべての人これをふみにじつて平気でいる。

たまたま法を守つて食物が少くなつて餓え死んだところの某裁判官の如きも、当初は誰も同情したが、後に至ると、肚の中では愚かしき法の犠牲だと思つておつた人があるかも知れん。結局は強いものが勝ち或は多数が勝つのであります。その多数は国民の全部ではなく、あるところに盤踞した勢力、影響のつよいものの言うことが勝つのではないでしようか。こんなことでは法の大部分をとり去つてしまうような国の方がまさるのではないかとも考えられます。しかしこれは全く書生の一家言にすぎないのでございます。だが、この中にいろいろ大きな問題がふくまれておるような気がいたします。理屈は複雑でございまして、ここでは解決いたしませんが、法律があり、秩序があり、守るべき原則があつても、人人はこれを捨てて省みず、国家もこれを守らないのです。これはひとり食料の問題ばかりでございません。もつと大きな法律が出ておつても、それを一つも守らない方が正しいように思われることもないとは言えません。例えば、衆参両院のいずれかの議員の何分の一かが国会を開けといつたら必ず国会を開かなければならぬということがあるにも拘わらず、未だ、かつて素直に開かれたことはございません。法律家は議論が上手でございます。私のような正直者と違つて、いたるところにうまい説明が出て折角法律が要求したものも、そのまま消えてしまうことがあります。

義務教育はただでやる。それは私のあずかつた憲法の中にございますが、ただの義務教育がどこにあるかというと、若し法律の素人が考えますと、どこの学校に入つたところで何かかにか相当の費用をとられている。無償の義務教育はないのだと言えそうです。私は秩序を愛する国民に生れながらも、果して秩序の中に生きているであろうかと疑います。これは一例でございまして、こんなことを申しますは、この問題をとやかく申すのではございませんけれども、一番根本は法律を愛する国民ではないのではないかと言いたいためです。私の本当の心は我我は秩序を守るべきものであると信じております。秩序を守らざる国民はよき国民であり得ないものである。若しも秩序を守ることがないとすれば、その秩序と思うものが秩序でなくて浮かべる水の泡のようなものではなかろうか。言い変えると法律というものが、秩序になつていないのである。法律と書いてあつても実は秩序でも何でもない。実は絵にかいた餅であるという。こういう思想が成立するかも知れないのであります。多少私は何かすねたようなことを申上げます。本当はそうではないのであつて、我我は前途永遠に栄ゆべき日本国民でありますから、何とかして本当の筋道を立てようとするのです。およそ過去十年の間に日本国民が努力して、ともかくも今日の社会秩序をつくつたわけであります。つくつたのはつくつたけれども、それきりであつて、昔中国で道路をつくりました。つくつた時は立派である。後は牛の糞で通れなくなつてしまうというような嫌いがあるのではないかと心配します。私共は法律とか秩序とかいうものに対しまして、平素からどんな考をもつていいのだろうか。守らなくてもよいと思うのが賢いのかそれとも馬鹿正直に守るべきか。しかし本当いうと、法律というものは曖昧なものもあり、子供の作文のように、はつきり決めることができないことがあるが、具体的には出来ないにしても心の中では秩序を愛好すると考えねばならぬと思うのでございます。これが終戦後に日本国民の頭の中はからつぽになりまして、世は虚無的になり、ニヒリスティックになり、片方で法律をつくつても片方で法律を否定するというようなことになつておる。一種の過渡期の現象がありました。だが遵法心は少しづつ恢復しました。では涙をもつて秩序を保てということを心からもちたいような気がいたします。私は今、何をかくそう図書館屋でございまして、実はこういう難かしい問題はふれないのが通常でございましたが、我我の図書館は一体何を考えておるかというと、私の図書館には唯一つの法律がある。一つの図書館のために単独の一つの法律がございまして、その法律の前文にも(前文のある法律は比較的少いのでございますが)一つの前書がある。何と書いてあるかというと「真理が自由を与える」ということが格言的に掲げてあります。実は法律で格言をつくるというのは如何なる意味があるか、これも亦面白い問題でございますが、この法律をつくつた人人は、真理が自由を生み出すものであるという確信をもつていたことでございましよう。果して真理が自由を与えるかどうか、それは疑問でありますけれども、私もそれを確信しておるのでありますから、これは日本で発明したということではございませんで、ヨーロッパにもこういう言葉がある。或は東洋にも恐らくこれに近い言葉があるのみならず、バイブルのヨハネ伝の中に「真理が自由を与える」という意味のことが書いてある。すなわち「真理が汝らに自由を与える」と書いてございます。ところが近時真理を愛せずしてこれを土くれの中におとし込んでいるという傾があると思うのでございます。ところで私は今日、真理を説くつもりではございません。真理という言葉をもう少し他の言葉に転用いたしまして、正義が我我に自由を与える。真理と正義といくらか意味が違うように存じますが、正義こそ我我に根本的に自由を与えることを主体として考えてゆきたいと思うのでございます。

今日は先ず検察行政ということに関連して申上げますが、一体検察行政で何をやつているか時の方便でこちらをやつた方が都合がよさそうだ、或はあちらを動かした方が世の中の方便としてよさそうだという考えではなかろうかと思います。要するに正義というものを地上に現出する、我我は正義のために何事も犠牲にして突進しようという心がけの一部分を検察行政というものは考えているに相違ないと確信しております。そこで問題になりますのは、一体正義とは何だろう。我我は口に正義と言つておりますが、本当はよくわかりません。日本ではこの裁判所は何でも正義の根本を正しくするものであるように言われております。法律というものが又正義の本体であると考えられております。法律という言葉をラテン語でいうとユスと言います。ユスという言葉は正義ということでございましよう。従つて法は正義なりというのが正当でありますが、実際にあてはめてみるとどうも喰い違いがあるという気持がございまして、ここに法律を軽蔑し、従つて法律に従うことを軽蔑し、従いまして法を執行することを軽蔑し、更に日本の法律にはつきりと謂わば悪いことをしたもの必ずしも起訴するものでないということが刑事訴訟法に書いてあります。それには勿論相当の理由がありますがちよつと面倒な関連をもつてくる思想であります。そういうような自由起訴主義ということを否定する意味でもございませんが、そんなことにも関係があろうと思うのであります。そこで私共は正義というものは一応どんなものだろう。虎の皮を上にもつていなければ虎ではない。同じように我我は人間が生きてゆくかぎり如何なることを軽く見るも時と場合によりましようが、正義だけは何とかして守つてゆきたいのだという気がいたします。その正義の実体は何であろうか。本当の説明は私にはできませんが、何かつり合いということを含んでいる。一方から見ても正義であり、他方から見ても正義である。便宜主義ではなく、どこかこういう人間世界における利害が調節されている。そういうところでなければならぬと思います。だから個人同志の関係でございますと金を借りたとすれば返すのが当り前でございます。これは勿論問題のないことでございますけれども、人は個人同志で生きておるとばかり限りません。国として世界の人類として共同生活をしておる時に、正義はもう少し複雑な形をとつてくるに相違ございません。例えば会社が客に対して物を割引いてやるのは通常差支えございませんけれども、国家が煙草を売る時お前には煙草を半額にしてやるなどと言えば何かおかしいという気持になります。私生活で賄賂めいたものをとるということは個人には許されるにしても、公人が賄賂をとつたらきつと悪いことに相違ございません。何か言うと一体正義の根本には何かあるだろうか、先程申しました個人と個人との間の正義の標準というものは大体わかるのでございます。プラス、マイナスのつり合いをとる、それだからよくわかるのでございますが、社会生活において正義というものは、どこからくるかというとこれはもつと大きな見地からくるので、全体の中に一個の人間がうまくはまり込んで、あちらこちらに影響しておるということに触れます。

個人は社会に孤立して入つておるものではございませんので、終局は社会や世界というものの中に生きておる。従つて余りわがままをしてはいけない。余りひき込んではいけない。ちやんとうまいことにおさまるというとろに正義の問題があるのでございましよう。終局は私共はそうでなければならぬと思うのでございます。例えば公務員は賄賂をとつてはならぬ、これは共同生活の本義に反するのであります。選挙投票をする時、金をとつておると何も金をとつたからといつて選挙自身が消えてなくなる筈はないのでありますが、金をとつて公の権利である選挙をやる。それは国民大衆が正しい代表者をつくるという原則を根本的にこわしてしまうのであります。個人間の正義は我我に解決する手段があります。

何故俺の家を壊わしたか、もと通りに壁を塗り直せ、大体人は得心いたします。求めなければ別に塗り直す必要はございません。相手方が塗つてくれといつたら塗つて返すが普通でございましよう。しかし、社会的正義というものは一寸難かしうございます。そのために苦情をいう人間がはつきりしないからでございます。人を一人殺した。殺された人は文句を言う口はもつておりません。どこからかその文句が出て来なければならぬ。社会が文句を言うわけでございます。その社会というものがどんな口をもつて叫ぶか相当これはまわりくどく考えなければならぬ。ある場合は法律が出て、ある場合にその法を執行する人が出てくる。警察官は捜索をやるだろう。又検事はその捜査権を行使して起訴の手続をとるであろう。その他刑務所の職員はその後の始末をつけるであろうというふうに、あちらこちらにおきましていろいろのことが一斉に動き出すことによつて、この社会正義は擁護されているのでありますが、その時にどこかその沢山の国家の口になるような国家の手足になるような多くの部分が責任を怠つたら、社会正義遂に実現されることはなかろうと思います。

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