四
後になつて、だん/\に分つて来たことであるが、伯父は子供の時分から、ふた親の手におへないほどの暴れ者であつた。剛情で、我儘で、一徹で、見栄坊で、喧嘩好きで、気の弱い彼の母親などは、彼が将来、強盗を働くとか、人殺しをするとかいふやうな恐しい悪党になりはしないかと、その将来性を非常に気遣ひ且つ怖れて居たさうである。
彼は十六の時に大阪の方へ出奔して行つた。その後どんな生活をして居たか、それきり便りがなかつたので殆ど分らなかつた。うどん屋の出前持になつて居るとも言はれたし、新町の或る芸妓屋の箱屋になつて居るとも言はれたし、また無頼漢の仲間に入つて居るとも噂された。
七八年の後、彼はひよつくり京都へ戻つて来た。そして彼が出発前に嫁に行つて居た姉の家――六条の鍵屋――に暫く身を寄せて居た。親の方では表向き彼を勘当して居たので寄せつけなかつたのである。
京都へ戻つた時には、彼はいくらかの纏つた金を懐にして居た。どうして獲たものであるか誰にも話さなかつたが、彼は間もなくそれを資本に停車場前にうどん屋を始めた。
それが不思議に当つた。数年ならずして彼は別に、五条の方に牛屋を始めた。それからはとんとん拍子であつた。七条新地に女郎屋を、三条の方に鳥屋を、西石垣に会席料理屋を、先斗町に芸者屋をといふ風に、次から次へと新しい妾を蓄へては、その度毎に新しい店を一つ宛もたせた。そして最後にこの四条の橋詰に最も新しく最も気に入りのお雪伯母に宿屋を始めさせたのであつた。
併し私が京都へ来た時には、この四条の家だけしか残つて居なかつた。それほど手広くやつて居たのに、どうして廃めたのか知らなかつた。多くの女達も離れて行つて居るらしかつた。西石垣の料理屋をやつて居たといふ本妻のお文伯母の外には、みなで七八人もあつたとかいふ妾の中には、今のお雪伯母しか残つて居なかつた。
お文伯母は、本妻として、戸籍には載つて居たが、宮川町の方にお福といふ養女と別居して居た。彼女は時々四条の店の方へやつて来たが、泊つて行くことは稀であつた。
お福といふ其の養女も時々やつて来た。二十二三の面長のすらりとした綺麗な女だつた。眼のきれの長い、鼻のつんと高い、どこかに剣のある顔の女だつた。お文伯母の円顔の穏かな人の好ささうな顔附とは反対に、きりゝと締つた、しつかり者といふ様子があつた。その点では彼女はお雪伯母に似て居た。彼女は祇園でかなり知られた芸妓だつたさうだが、今は廃めて、ある旦那に囲はれて居るのであつた。彼女は伯父をば「お父つあん。」と呼んで居たが、お雪伯母をば「姉はん。」と言つて居た。
伯父は自分の子供はもたなかつたが、養子を幾人もして居た。お福さんの外に、お高さんといふ娘を養女にして先斗町の芸妓屋の方に置いてあつた。私が行つた時分には、お高さんは丹波の福知山に芸妓をして居て京都には居なかつた。これも後になつて聞いたことであるが、伯父はこのお高さんを大変可愛がつて、行く/\は、四条の家の方の養子にしてある幸三郎といふ男と娶はせる考へだつたのであるが、お高さんが自身から芸妓になりたいと言ひ出してきかなかつたので、流石に土地から出すわけにも行かず、福知山の知合の芸妓屋へ預けたのださうだ。
幸三郎さんといふのは、四条のお雪伯母の養子にしてあつた、大阪の新町の芸妓屋の息子で、その頃兵隊に徴られて伏見の聯隊に行つて居た。幸三郎さんは、日曜になると休みに帰つて来たが、いつもにこ/\とした、愛嬌のある、立派な好い男だつた。私が行く前には、薬店の方へ出て居たさうだが、帰つて来ると和服に着更へて、番頭風に前垂掛で、店の机に坐つた。優しい親切な人で、「恭やん、淋しいことおへんか、田舎へ帰りとうおすやろ、お父つあんから便おすか? 辛ろても辛抱おし。」などと、優しい女の様な調子で、よく私を慰めいたはつて呉れた。私が彼の養父の弟の子で、彼とは義従弟同士で、普通の丁稚とは違つて居た為も幾らかあつたであらう――。時にはまた、「兄さん、店に居てやるよつて、おまはん、暫く遊んでお出で。京極へでも行てお来なはい。かまへん。お父つあんには、兄さんがあんじよう言うてあげるよつて。」などと言つて、私を遊びにやつて呉れることもあつた。私に菓子を買はせて来て、自分はその中一つ二つつまむきりで、後を私に残して呉れる事なども度々であつた。
私は幸三郎さんを本当の兄の様な気持で懐しんだ。日曜日の来るのを待ち兼ねた。
今一人、やはりこの四条のお雪伯母の子として、お信さんといふ女が養女になつて居た。お信さんは、私が来る一寸前まで、宿屋の方の下女の取締りのやうなことをやつて居たさうだ。が、私が行つた時分には、彼女は家に居なかつた。
私が来て間もない頃であつた。或る日私は使にやられた。真中に四つ目の紋を、一端に浪華亭と白く染め抜いた一反風呂敷に、夜具か何かを嵩高に包んだ私の身体よりも大きな包みを背負つて、私は教へられた通り、辻々の電信柱に貼つてある町名札を見ながら、西へ西へとよち/\と歩いて行つた。それが私が使に出された始めての経験であつた。そして、もう四条通りも端に近い或る町の、狭い露地奥の小さなしもた家で、私はその大きな包みを下した。私は家の中へは上らなかつたが、入口の土間に立つて居ながら、奥の方に子供でも生んで寝て居るらしい若い女の姿を見た。それがお信さんであつた事が後になつて解つた。
お信さんは乞食の子であつた。このことも私は後になつて聞いたのだ。家のすぐ前の河原に、橋の下に両親と共に寝起して、朝夕二度宛、客の食べ残りなどを貰ひに裏口へやつて来て居たのを、伯父が憐んで貰うつてやつたのださうだ。それは彼女の十二三の時であつた。冬の寒い夜、近所などに内密にそつと家へ入れてやつて風呂へ入れてやり、お福さんの着古しの綿入に着更へさせてやつたが、虱にさゝれて、全身が膨れあがつて居たさうだ。
彼女の両親は、その日から河原から姿を隠して了つた。そしてそれぎり一度も顔を見せなかつた。
三年五年と経つうちに、お信さんは見違へるほどのいゝ娘になつた。色も白くなり、髪も黒く長くなつた。鼻が少し上向だつたが、円顔の黒瞳勝の顔には愛嬌があつた。十六七の頃から、彼女は下女達と交つて、客の前へ出るやうになつたが、家の養女だといふのと、小作りの可愛気のある姿態とで、大変客に可愛がられた。
さうかうして居る中に、電信の技手で、東京から出張して来て半年余りも滞在して居た森本といふ男と関係して、其の男の子を孕んだのであつた。そしてお腹が人目にたつ様になつた頃から、お雪伯母の姉の家へ預けられたのであつた。私が使に行つたのは、丁度子供が生れたばかりの時で、嬰児の産衣や蒲団などを持つて行つたのであつた。
お信さんが森本といふ男と関係したのは、お雪伯母が自分の不始末を塗り隠す為に、巧くくつゝけたのだといふ事も、私は後になつて、人々がお雪伯母の不義に関するいろ/\の噂をするのを聞いて知つた。それは最初お雪伯母が森本と関係して居たのであつたが、その噂が伯父の耳に入りさうたなつたので、彼女は巧にお信さんを森本と関係させたのであつた。さうして、森本が関係したのは、彼女ではなくて、お信さんだつたと家中の者のそれまでの誤信を証拠立てようとしたのであつた。このお雪伯母の策略は見事に成功した。お信さんは不幸にも、お雪伯母にとつては幸福にも妊娠した。そして誰も彼も、森本とお雪伯母とが関係があると思つたのは彼等の誤信だつたと思ふ様になつた。併し知る者は知つて居た。
お雪伯母の不倫に関するこの種の風説を、後になつて、彼女が或る事情から親類の人達の非難の的となつた時に私はよく耳にした。彼女が伯父の許に来る前に出来て居た男と、其後も関係を続けて居たといふこと、宿屋を始めた頃によく盗賊が入つたやうな事情から刑事巡査が始終出入して居たが、その中の一人とも関係したこと、また伯父の友人で、保険会社へ勤めて居る池田といふ男とも出来合つたこと、それから更に、養子の幸三郎の父親とも――。
幾人もの妾達が、伯父から離れて行つたのも、またお雪伯母が出来てからであつた。それまでは、彼等は互に友達交際親類交際をして、仲よく往来して居た。が、お雪伯母が家に入つてからは、彼等は言合せたやうに次第に伯父から離れて行つた。それはお雪伯母が伯父の特別の寵愛を笠に着て、新参者にも拘はらず、彼等に対して兎角驕慢に振舞ふので、それに対する反感から同盟したのだとも言はれた。伯父が、何故に、彼等妾達が彼に反いて行くのを黙つてなす儘にさせたのか、それはお雪伯母にすつかり籠絡されて了つて、彼女の思ひ通りに占有されたのだとも言はれたし、また伯父自身が身体の衰へもあつたりして、最早彼から離れ去らうとする彼等を、再び引き止めようとするほどの強い執着も熱も精力もなくなつたが為だとも言はれた。
しかし私はその頃そんなことは少しも知らなかつた。お雪伯母の身特のことも、伯父と彼の周囲の人々とのこみ入つた関係や事情などについては、もとより知るところがなかつた。只私は本妻だといふお文伯母が、何故伯父と、一緒に居ないで、別居して居るのだらうかとその事ばかり不審に思つてゐた。