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ごりがん
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ごりがん
上司小剣
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Translation Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 3 of 6

三

それから去年まで、私はこのごりがんの老僧に逢ふ機會がなかつた。一昨年の初夏、私の年中行事の一つとして、上國に遊んだ時、麥畑の間を走る小さな痩せた電車で、願念寺の二重屋根を見ながら通つたから、一寸立ち寄つて見ようかとも思つたが、おつくふでもあつたし、老僧の在否も分らなかつたので、停車中の電車の窓から、小學校歸りの子供を呼び止めて、願念寺へこれを持つて行つて呉れと言つて頼んだ。スルと其の子供は嬉しさうな顏をして畦のやうな細路を一散に願念寺の方へ走つて行つた。電車が動き出してからも、小ひさな姿が麥畑の彼方に、吹き飛ばされてでもゐるやうに見えてゐたが、ある藁葺きの家の生垣の蔭になるまで、私は名刺を持つて行つた子供から眼を離さなかつた。

願念寺に近い村の麥畑で、柔かい穗を拔いて麥笛を作つたのが、ピイ/\とよく鳴つたのを夏外套のかくしに入れて、私は東京へ歸つて來た。それが偶然音樂會の切符とともにかくしから出て來たので、妙に懷かしい氣持ちで見てゐたのは、上國の旅行後二週間ほど後で、空からは陰鬱な五月雨を催しかゝつてゐた。其處へ丁度郵便が一束になつて投げ込まれた中に、老僧からの葉書が混つてゐた。

「……東京に××さんといふ人の居るのを忘れかけてゐるところへ、名刺のことづけで、漸く思ひ出し申し候。いづれまた出て來るであらう、其の節は久方振りに一ボラ試み度樂み居り候に、たうとう出て來なかつた。(老僧も時よ時節で、この節は少しづゝ江戸辯を使ふやうになつた。それから言文一致とやらも、ちよい/\やらかしてみるが、こいつなか/\便利ぢや)そこで、寒夜ならずとも、鍋を叩いて、大に文字禪を提げ、天晴一小手進上申し度候ところ、どう考へても、筆ボラは舌ボラの妙には不如、儉約して葉書に相場を卸し申し候。筆法螺舌法螺。畢竟無駄法螺。渇來茶飢來飯。默々兮眞法螺。痩電灯の下にて、叩鍋僧和南」

これだけのことが、細かい字で書いてあつた。私は老僧の村にも電燈會社の蔓が延びて、あの薄暗い庫裡にタングステンの光つてゐるさまを想像するより外に、この葉書から感得する何ものもなかつた。それにしても天南と其の若い妻とはどうしてゐるのか、それが知りたいと思つた。

ところが去年の新緑の頃、また上國に旅をして、大阪船場の宿で雨に閉ぢ籠められてゐると、夕方電話がかゝつて來た。取り付いだ女中がくす/\笑つてゐて、何んといふ人からかゝつたのか一向分らない。問ひ詰めると、「ごりがんからや言やはりました。」と、袖を顏に當てゝ、笑ひ轉げた。

あの老僧と電話といふものとの對照が既に妙である。電燈を點けたり、電話をかけたり、流石のごりがんも征服されたかと思ひながら、電話口へ出ると、聲は老僧ではなくて、若い女らしく、「今夜これからお伺ひしようと思ふがいかゞでせう。御都合がわるければ明朝でも結構です。」と、ハツキリした東京辯であつた。其の夜は舊友と寄席へ行く約束がしてあつたから、「明朝お待ちしてゐます。」と、答へて私は電話を切つた。

すると、翌朝まだ私の寢てゐるうちに、老僧はやつて來た。取り敢へず次ぎの室へ通させて置いて、私は顏を洗ひ、食事にかゝつたが、隣りの室では、咳拂ひと、吐月峯を叩く音が頻りに聞えた。其の咳拂ひも、其の吐月峯を叩く音も、私には殆んど幼馴染のもので、調子に聞き覺えがあつた。

「喫飯か。」と、言つた聲とゝもに縁側の障子がさらりと開いた。老僧が待ち兼ねて闖入して來たのである。手には二三年前東京で見たあの中くらゐの信玄袋を提げてゐる。

「失禮します。」と言つて、私は食事を續けた。老僧は給仕の女中が進むる座蒲團の上に痩せた膝を並べつゝ、キチンと坐つた。薄セル被布の下に痛々しく骨張つた身體が包まれてゐた。

「喫飯が何んの失禮なもんか。次ぎの間で待たすのが、よつぽど失禮ぢや。煙草盆一つ出さずに。」と、老僧はむつかしい顏をして言つた。

「まアお煙草盆も出せえしまへんでしたか。」と、女中は驚いたやうな顏をした。

「なに、吐月峯の音がしたよ。」と、私は笑ひながら言つた。

「いや、煙草盆はあるにはあつた。けどもそれはわしに出した煙草盆やない。前に來た客にでも出したんぢやらう。それがそんなり置いてあつたんで、もとより火も何もない。わしはこの通り御持參の煙草盆で吐月峯だけを借つたんぢや。」と、老僧は袂の中をもぐ/\探つて、ブリキ製の輕便點火器を取り出した。痩せた指の間から「實用新案……」の文字が讀まれた。

「なか/\ハイカラ坊主になりましたね、電燈は點ける、電話はかける。そんなものは持つ。……」と、矢張り笑ひながら言つて、私は食後の茶を飮んでゐた。

「いやア、便利ぢやからと言つて、人が勸めるんで、やつてはみるが、あんまり便利でもないて。……第一電燈の火では煙草が吸へんし、電話では相手の顏が見えんし、……人はどうか知らんが、わしは相手の顏が見えんと話をする氣にならん。そんなもんの中では、まだこれが一番ましぢや。」と言ひ/\、老僧は其の點火器を弄つてゐた。

「さうですか。」と、私は氣のない返事をして、茶を飮み續けた。

「これさ、主人ばかり茶を飮んで、客に茶を出さんといふことがあるか。」と、老僧は叱るやうに言つた。

「えらいひつ禮でおましたなア。」と、女中も笑ひながら、老僧に茶を出した。

「其の茶碗、疵がある、そつちの無疵のと變へてんか。」と、老僧は埋れ木の茶托にのつた六兵衞の茶碗を見詰めつゝ言つた。

「何處にも疵はおまへんがな。」と、女中も茶碗を見詰めて、怪訝な顏をした。

「いやある。糸底に疵がある。臺所で洗ふ時に附けたんぢやらう。」と、老僧は眼を据ゑて睨むやうにした。女中は默つて其の茶碗を取上げ注いだ茶をこぼしへあけて、糸底を改めると、老僧の言つた通り、糸底が少し缺けてゐた。

「まア、ほんまや、あんたはん千里眼だツかいな。」と、女中は呆れたやうな顏をした。

「わしは器物に疵のあるのが嫌ひでなア、長年の經驗から直覺するんや。」と、老僧は得意らしく言つた。

「あなたはもう樂隱居でせう。まだ孫は出來ませんか。」と、私は手づから無疵の茶碗に茶を注いで老僧に進めつゝ言つた。

「孫どこかいな。天南の嫁に就いて、話がある。そいつを是非あんたに聽いて貰ひたうてな。新聞に宿が出てたから、わざ/\やつて來て、昨夜電話をかけるとペケ、忌々しいから無理にも押し込んでやらうかと思うたが、まア/\辛抱して、今朝早う來て見ると、次ぎの間で待たしくさる。業腹で業腹で。」と、老僧は膝を乘り出した。

Chapter 3 of 6
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