Chapter 1 of 7

坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ先刻のことであつたが、あるきの猪之介は、今のツそりと店へ入つて來て、薄暗い臺所の方を覗き込みながら、ヒヨロ高い身體を棒杭のやうに土間の眞ん中に突ツ立てゝゐる。

店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、縁のところをピカ/\光らして、人間ならば大胡坐をかいたといふ風に、ドツシリと疊を凹ましてゐる。

「猪のはん、何んぞ用だツか。」と、若女將のお光は、物の香や酒の香の染み込んだらしい、醤油のやうな色をした竹格子の奧の板場から聲をかけた。

「あゝお光つあん、其處だツか。……お母んが留守で忙しおまツしやろ。」

鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、目脂の一杯に溜つた眼で見詰めた。

「お母アはんの居やはれへんとこへ、役場からあんなこというて來やはるよつて、ほんまに難儀や。」

晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へはり、其處の岩乘な縁の廣い長火鉢の前に腰をかけた。

一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお女郎人形のやうに、優しく婀娜かしかつた。

すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、華奢な指に握らせるには痛々しいと思はれるほどの、太い鐵作りの火箸を取り上げた。

かういふ時にタバコを喫まぬのは、彼女の態度風采を調へる上の一つの大きな疵とも思はれた。襷を外してから、長火鉢の前で、輕く長煙管を取り上げて貰ひたいと思はれた。

「お前、タバコ呑んだら何うやな。キセロと煙草入れわしが一つ大阪で買うて來てやるがな。」

二三年前に聟養子を離縁してから、お光の一身と一家とを引き受けて世話してゐる旦那は、よくこんなことを言つた。

若い時にカメオだとかオールドゴールドとかいふやうな舶來タバコを吸つて、村の人々に感心さした旦那は、今でも敷島や朝日を吸はずに、金口の高いのをこれ見よがしに吸ひながら、お光にもタバコを喫めと口癖のやうに勸めてゐる。

「明後日郡參事會へ行くさかいな、大阪へはつて煙草入れ買うて來てやる。」なぞと切羽詰つたやうにいふ折もあつた。お光はさういふ時、タバコのことよりも、郡參事會なぞを鼻にかけて、土地の勢力家顏をする旦那の淺果敢な容子が、厭やでならなかつた。

今は東京に住んで、三四年に一度づゝすら村へは歸つて來ない小池といふ畫を描く男の、縣だとか郡だとかいふことには一切頓着してゐない容子が、奧床しく思はれてならなかつた。大臣だとか議會だとかいふ話が出ても、豚小屋か蜂の巣の噂さほどにも思つてゐないらしいのも、お光には耐らないほど小池をえらく思はせた。

東京に展覽會なぞが開かれて、小池の描いた畫の評判が新聞や雜誌に出ると、お光は眼を皿のやうにして一々讀んだ。小池の評判がだん/\高くなるのが嬉しくてならなかつた。

「小池はんちう人はえらいんだすな、東京や大阪の新聞に、しよつちう名が出てまんがな。」なぞと、店へ來て話す人でもあると、お光はいよ/\嬉しくて、其の人を無理に引き留めて、一本漬けて出したりした。さうして田舍の新聞へ偶に自分の名が出ると、鬼の首でも取つたやうにして、持つて來て見せびらかす旦那の仕業が、ます/\淺ましく思はれて來た。

「村で一番出世をしたのは、小池はんと、新田の五郎作やがな。すもん(角力)でもあつてみい、五郎作の名は毎日々々新聞に出んことあれへん。」なぞといふ人もあつた。

學校を落第ばかりしてゐた新田の五郎作といふ馬鹿息子が、小池の後を追うて東京へ行つて、小池にたよらうとして跳ね付けられ、角力になつて××川と名乘り、此頃では新聞の勝負附けにも出るやうになつたのを、お光も面白いことの一つに思つてゐたが、そんなものと小池とを並べて話されるのが殘念にもあつた。

「わたへ、タバコ嫌ひだんがな、臭うて臭うて胸がわるうなる。……三十越したらまた喫む稽古して見ますわ、もう二三年だす、それまで待つとくなはれ。」

小さな黒子の眼立つて愛くるしい口元に微笑を浮べつゝ、かう言つてお光は常に旦那をあしらつてゐた。

「こなひだ、指輪拵へるさかい十圓呉れいうたが、今さしてる其の指輪それか。……一寸見せてみい。」

旦那はタバコの脂の黒く染み込んだ反齒の口を大きく開いて、さも恩に着せるやうな調子でこんなことを言つた。

環の二つ繋がつた其の比翼指輪の一つの環には Koike、他の一つの環には Mitsu と細く刻つてあるが、こんな字の一つも讀めぬ旦那には、黄金の性でも書いてあるのかと思つて、指輪の裏を覗き込んでゐるより外はなかつた。

「これ十圓、高いな。二匁かゝろまい。」

かう言つて旦那は、お光に外させた比翼指輪を自分の節くれ立つた太い指に嵌めかけてみたり、掌に載せてふは/\と目方を考へてみたりした。

「そやよつて、十圓はしえへんいうてますがな。……殘りであんたの下駄買うて來てあげましたやないか。……きらひ。」と、お光は媚を含んだ眼をして、旦那を睨むやうにした。

「金の性はわるいで、見い銅の色がしてるやないか。」

世の中に金ほど尊いものはないと信じて、黄色く光るものに、靈魂を打ち込んでゐる旦那は、細い比翼指輪の弱々しい金色にも凄いやうな白味の勝つた眼の光を浴せて、自分の幅の廣い白縮緬の兵兒帶に毒々しく絡んでゐる太い金鎖の色と比べなぞした。

「知りやはらんのやなア、この人は。……今時そないに黄色い金流行らしまへんがな。かういふやうに赤味の勝つたのか、また白ういのが流行りまんのや。……時計の鎖かて、東京あたりから來やはる人見なはれ、白味の勝つた金の細い粹なのをしてはりまんがな。……そやなけれや白金だす。あんたの金鎖みたいに山吹色をした太いのは、これ金鎖で候と書いたるやうで、いきまへん。」

お光が嘲弄半分の積りでこんなことを言ふと、旦那は躍起となつて、

「お前は何んでも東京や、そないに東京が好いのんなら、東京へいたらえゝ。……わしは在所もんや、在所にゐて百里も先きの町の人の眞似したて何んにもなれへん。……混ぜもんした色のわるい金より、わしは矢つ張り二十金か十八金がえゝ、二十二金から純金ならなほえゝな、値打ちが違ふんやもん。」

旦那はお光の比翼指輪を其處へ放り出して、自分の左の指に嵌めた認印の刻り込んである太い指輪を外して見せたり、帶の間から脱け落ちさうになつてゐた、兩蓋に斜子を切つた虎屋の最中のやうな大きな金時計を出して見せたりした。

「お醫者はんの時計見たいな。……」と笑ひながら、お光は比翼指輪を取つて、元の通り右の紅さし指に嵌めた。

其の比翼指輪が、今長火鉢の側に腰をかけて、鐡作りの太い火箸を取り上げたお光の細い指に光つてゐるのが、眼を病むあるきの猪之介にもよく見えた。

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