七
喇叭の音は聞えないが、ゴト/\と重さうな車の軋りが、地響きをさせて來た。幾輛かの眞ツ黒な砲車は、馬に曳かれてお光の家の前を通つて鎭守の廣場の方へ行つた。村の人々のわい/\立ち騷ぐ聲は、祭りの夜よりも賑かである。
お光はシヨールをとりコートを脱いで、お召の着物に黒縮緬の羽織、博多の帶の間に金鎖を煌めかしたまゝ、長火鉢の側まで出て來た。店頭には何時の間にか山形に日の丸の高張提灯が輝いてゐる。其の高張提灯の傍で兵隊の通るのを見てゐた下女が、長火鉢の横手まで戻つて來て、驚きの眼を瞠りつゝ、お光の盛裝を見上げた。
將校の朗かな號令の聲が、鎭守の方に聞えてから暫くすると、ドヤ/\ガチヤ/\と、靴の音、サーベルの音を立てゝ、一群れの子供等に附き纏はれつゝ、十人あまりの兵隊がお光の店へ入つて來た。お光は下女に案内させて、將校五人を二階の一番と二番とを打ち通した室に案内させ、下士卒八人を階下の五番と六番とに入れさせた。兵隊さんの服や帽子は、連日の演習に皆よれよれになつてゐた。
お光は二階へ上つて行く人、階下に居る人の姿を眺めて、この人達が自分と小池との逢瀬を妨げたのだなア、と染々思つた。
下女の手で火鉢に火が入つたので、お光は茶と菓子とを持つて二階へ挨拶に行つた。
「人の戀路の邪魔する奴は……」と心の裡でさう思ひながら、如才なく愛嬌を見せて、茶菓を進めた。
お客樣は皆お光の身なりの立派なのを見て、眩しさうな顏をした。中には胡坐を解いて坐り直す人もあつた。
「奧さん、今晩は御厄介になります。」と、圓顏のデツプリ肥つた上座の人は、無邪氣な聲を出した。お光は去年の秋小池と田舍町の宿屋に泊つた時、下女や主婦から「奧さん」と呼ばれたのが生れて初めで、先刻猪之介が「奧さん」と言つたのが二度目、今將校に言はれたのが三度目なので、ハツとして顏を赧らめた。
階下へ下りて見ると、兵卒たちはまだ靴も脱かずに、上官の長靴を磨いてゐた。お光は下女に言ひ付けて、用意の酒肴を先づ二階へ運ばせた。二階からは軈て面白さうな高笑ひが聞えた。
旦那の家の丁稚が入つて來て、土間に突ツ立ちながら、
「お家はんがさう言やはりましたんだすがなア、お取り込み中を氣の毒だすが、造身を十人前出けまへんやろかて。」とおど/\する風で言つた。先刻旦那があんなにお魚を買ひ込んだと言つてゐたが、話半分にも當らぬ例の大風呂敷であつたのか。と、お光は微笑みながら、
「畏まりました。後でお梅に持たしてやります。……けどなア寅やん、家もお魚が足らんので、あんたんとこへ借りに行かうかおもてましたんやで。」と言つた。丁稚は直ぐ飛ぶやうにして歸つて行つた。
お光は羽織を脱ぎ、お召の上から前垂れを締め、襷をかけて板場へ下り立つた。其處へあるきの猪之介が何處で飮まされたか、眞赤な顏をしながら、ひよろ/\して入つて來て、長火鉢の側へ腰をおろすと、
「今、地内で淺川の旦那が、大砲の番してる兵隊さんにぼろくそに叱られやはりましたで。」と、大聲で言つた。何處かへ泊りに行くといつてゐたのも嘘であつたかとお光は思ひながら、氣にかゝるので、
「猪のはん、何んで叱られはつたんや。」と、眉を顰めて問うた。
「大砲の車のねき(傍)で卷煙草呑みやはりましたんやが。……初めに叱られた時、素直にタバコを放つて了ひやはれやよかつたんやが、袂から名刺出して、『俺こんなもんや』なんてえらさうに言やはつたさかい、ぼろくそに言はれはりましたんやが。……あきまへんわい、議員さんでも郡長はんでも、兵隊さんにかゝるとなア。」と、猪之介は感心した状で言つた。
お光はほと/\と、旦那の淺ましさが厭やになつた。
其の夜、お光は床の中で寢返へりばかりして、まんじりともしなかつた。小池は何處で寢てゐるであらうかと、そればかりを考へてゐる中に、早や天明に近くなつた。旦那の泊りに來なかつたことが、切めてもの有り難さであつたけれど、偖今こゝで旦那に棄てられたら、この家は何うなるであらうかと、二番鷄の歌ふ頃には、そんなことをもちら/\考へて來た。小池といふ惡足に逢へなかつたのは、家の爲めに幸福であつたのかも知れぬとさへ、遂には思はれて來た。――して見ると、昨晩から泊つてゐる兵隊さんは、一生の恩人かも知れぬ。――
朝早く兵隊さんは立つて行つた。馬の膝までを浸す清らかな山川の水を濁して、幾輛かの砲車が對岸の縣道へ進むのが、お光の家の納戸の縁側からよく見られた。フト前日の新聞を取り上げて見ると、この一隊の演習行軍の記事が出てゐて、「宛然一幅の繪卷物の如し」と書いてあつた。
あれが繪卷物かなア。と思つて、お光はまた對岸を見やつた。それから三日ほどの間、饅頭笠を被つた郵便配達の姿の見えるのが、待ち遠しくてならなかつた。
(大正四年一月)
●図書カード