Chapter 1 of 4

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業苦

嘉村礒多

只、假初の風邪だと思つてなほざりにしたのが不可かつた。たうとう三十九度餘りも熱を出し、圭一郎は、勤め先である濱町の酒新聞社を休まねばならなかつた。床に臥せつて熱に魘される間も、主人の機嫌を損じはしまいかと、それが譫言にまで出る程絶えず惧れられた。三日目の朝、呼び出しの速達が來た。熱さへ降れば直ぐに出社するからとあれだけ哀願して置いたものを、さう思ふと他人の心の情なさに思はず不覺の涙が零れるのであつた。

「僕出て行かう」

圭一郎は蒲團から匍ひ出たが、足がふら/\して眩暈を感じ昏倒しさうだつた。

千登世ははら/\し、彼の體躯につかまつて「およしなさい。そんな無理なことなすつちや取返しがつかなくなりますよ」と言つて、圭一郎を再寢かせようとした。

「だけど、馘首になるといけないから」

千登世は兩手を彼の肩にかけたまゝ、亂れ髮に蔽はれた蒼白い瓜實顏を胸のあたりに押當てて、りあげた。「ほんたうに苦勞させるわね。すまない……」

「泣いちや駄目。これ位の苦勞が何んです!」

斯う言つて、圭一郎は即座に千登世を抱き締め、あやすやうにゆすぶり又背中を撫でてやつた。彼女は一層深く彼の胸に顏を埋め、獅噛みつくやうにして肩で息をし乍ら猶暫らく歔欷をつゞけた。

冷の牛乳を一合飮み、褞袍の上にマントを羽織り、間借して居る森川町新坂上の煎餅屋の屋根裏を出て、大學正門前から電車に乘つた。そして電柱に靠れて此方を見送つてゐる千登世と、圭一郎も車掌臺の窓から互ひに視線を凝つと喰ひ合してゐたが、軈て、風もなく麗かな晩秋の日光を一ぱいに浴びた靜かな線路の上を足早に横切る項低れた彼女の小さな姿が幽かに見えた。

永代橋近くの社に着くと、待構へてゐた主人と、十一月二十日發行の一面の社説についてあれこれ相談した。逞しい鍾馗髯を生やした主人は色の褪せた舊式のフロックを着てゐた。これから大阪で開かれる全國清酒品評會への出席を兼ねて伊勢參宮をするとのことだつた。猶それから白鷹、正宗、月桂冠壜詰の各問屋主人を訪ひ業界の霜枯時に對する感想談話を筆記して來るやうにとのことをも吩咐けて置いてそしてあたふたと夫婦連で出て行つた。

主人夫婦を玄關に送り出した圭一郎は、急いで二階の編輯室に戻つた。仕事は放擲らかして、机の上に肘を突き兩掌でぢくり/\と鈍痛を覺える頭を揉んでゐると、女中がみしり/\梯子段を昇つて來た。

「大江さん、お手紙」

「切拔通信?」

「いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ」

圭一郎は立つて行つた、それを女中の手から奪ふやうにしてぎ取つた。痘瘡の跡のある横太りの女中は巫山戲てなほからかはうとしたが、彼の不愛嬌な顰め面を見るときまりわるげに階下へ降りた。そして、も一人の女中と何か囁き合ひ哄然と笑ふ聲が聞えて來た。

圭一郎は胸の動悸を堪へ、故郷の妹からの便りの封筒の上書を、充血した眼でぢつと視つめた。

圭一郎は遠いY縣の田舍に妻子を殘して千登世と駈落ちしてから四ヶ月の月日が經つた。最初の頃、妹は殆ど三日にあげず手紙を寄越し、その中には文字のあまり達者でない父の代筆も再三ならずあつた。彼はそれを見る度見る度に針を呑むやうな呵責の哀しみを繰返す許りであつた。身を切られるやうな思ひから、時には見ないで反古にした。返事も滅多に出さなかつたので、近頃妹の音信もずゐぶん遠退いてゐた。圭一郎は今も衝動的に腫物に觸るやうな氣持に襲はれて開封くことを躊躇したが、と言つて見ないではすまされない。彼は入口のところまで行つて少時階下の樣子を窺ひ、それから障子を閉めて手紙をひらいた。

なつかしい東京のお兄さま。朝夕はめつきり寒さが加はりましたが恙もなくご起居あそばしますか。いつぞやは頂いたお手紙で、お兄さまを苦しめるやうな便りを差し上げては不可とあんなにまで仰云いましたけれ共、お兄さまのお心を痛めるとは十分存じながらも奈何しても書かずにはすまされません。それかと申して何から書きませうか。書くことがあまりに多い。……

お父さまは一週間前から感冒に罹られてお寢つてゐられます。それに持病の喘息も加つて昨今の衰弱は眼に立つて見えます。こゝのとこ毎日安藤先生がお來診になつてカルシウムの注射をして下さいます。何んといつてもお年がお年ですからそれだけに不安でなりません。お父さまの苦しさうな咳聲を聞くたびにわたくし生命の縮まる思ひがされます。「俺が生きとるうちに何んとか圭一郎の始末をつけて置いてやらにやならん」と昨日も病床で仰云いました。腹這ひになつてお粥を召上り乍ら不圖思ひ出したやうに「圭一郎はなんとしとるぢやろ」と言はれると、ひとり手にお父さまの指から箸が辷り落ちます。夜は十二時、一時になつても奧のお座敷からお父さまお母さまの密々話の聲が洩れ聞えます。お兄さまも時にはお父さまに優しい慰めのお玉章差上て下さい。切なわたくしのお願ひです。お父さまがどんなにお兄さまのお便りを待つていらつしやるかといふことは、お兄さまには想像もつきますまい。川下からのぼつて來る配達夫をお父さまはあの高い丘の果樹園からどこに行くかを凝つと視おろしてゐられます。配達夫が自家に來てわたくし手招きでお兄さまのお便りだと知らすと、お父さまは狂氣のやうになつて、ほんとにこけつまろびつ歸つて來られます。迚も/\お兄さまなぞに親心が解つてたまるものですか。

凡そお兄さまが自家を逃亡れてからといふものは、家の中は全く灯の消えた暗さです。裏の欅山もすつかり黄葉して秋もいよ/\更けましたが、ものの哀れは一入吾が家にのみあつまつてゐるやうに感じられます。早稻はとつくに刈られて今頃は晩稻の收穫時で田圃は賑つてゐます。古くからの小作達はさうでもありませんけども、時二とか與作などは未だ臼挽も濟まさないうちから強硬に加調米を値切つてゐます。要求に應じないなら斷じて小作はしないといふ劍幕です。それといふのも女や年寄ばかりだと思つて見縊つてゐるのです。「田を見ても山を見ても俺はなさけのうて涙がこぼれるぞよ」とお父さまは言ひ言ひなさいます。先日もお父さまは、鳶が舞はにや影もない――と唄には歌はれる片田の上田を買はれた時の先代の一方ならぬ艱難辛苦の話をなすつて「先代さまのお墓に申譯ないぞよ」と言つて、其時は文字通り暗涙に咽ばれました。お父さまはご養子であるだけに祖先に對する責任感が強いのです。田地山林を讓る可き筈のお兄さまの居られないお父さまの歎きのお言葉を聞く度に、わたくしお兄さまを恨まずにはゐられません。

先日もお父さまが、あの鍛冶屋の向うの杉山に行つて見られますと、意地のきたない田澤の主人が境界石を自家の所有の方に二間もずらしてゐたさうです。お父さまは齒軋りして口惜しがられました。「圭一郎が居らんからこないなことになるんぢや。不孝者の餓鬼奴。今に罰が當つて眼がつぶれようぞ」とお父さまはさも/\憎しげにお兄さまを罵られました。しかし昂奮が去ると「あゝ、なんにもかも因縁因果といふもんぢやろ。お母ア諦めよう。……仕方がない。敏雄の成長を待たう。それまでに俺が死んだら何んとせうもんぞい」斯うも仰云いました。

咲子嫂さまを離縁してお兄さまと千登世さまとに歸つていたゞけば萬事解決します。しかし、それでは大江の家として親族への義理、世間への手前がゆるしません。咲子嫂さまは相變らず一萬圓くれとか、でなかつたら裁判沙汰にするとか息卷いて、質の惡い仲人とぐるになつてお父さまをくるしめてゐます。何んといつてもお兄さまが不可いのです。どうして厭なら厭嫌ひなら嫌ひで嫂さまと正式に別れた上で千登世さまと一緒にならなかつたのです。あんな無茶なことをなさるから問題がいよ/\複雜になつて、相互の感情がこぢれて來たのです。今では縺を解かうにも緒さへ見つからない始末ぢやありませんか。

けれどもわたくしお兄さまのお心も理解してあげます。お兄さまとお嫂さまとの過ぎる幾年間の生活に思ひ及ぶ時、今度のことがお兄さまの一時の氣紛れな出來ごころとは思はれません。或ひは當然すぎる程當然であつたかもしれません。何時かの親族會議では咲子嫂さまを離縁したらいゝとの提議が多かつたのです。それを嫂さまは逸早く嗅知つて、一文も金は要らぬから敏雄だけは貰つて行くと言つて敏雄を連れていきなり實家に歸つてしまつたのです。しかも敏雄はお父さまにとつては眼に入れても痛くないたつた一粒の孫ですもの。敏雄なしにはお父さまは夜の眼も睡れないのです。お父さまはお母さまと一つしよに、Y町のお實家に詫びに行らして嫂さまと敏雄とを連れ戻したのです。迚も敏雄とお嫂さまを離すことは出來ません。離すことは慘酷です。いぢらしいのは敏ちやんぢやありませんか。

敏ちやんは性來の臆病から、それに隣りがあまり隔つてゐるので一人で遊びによう出ません。同じ年配の子供達が向うの田圃や磧で遊んでゐるのを見ると、堪へきれなくなつて涙を流します。時偶仲間が遣つて來ると小踊して歡び、仲間に歸られてはと、ご飯も食べないのです。歸ると言はれると、ではお菓子を呉れてあげるから、どれ繪本を呉れてあげるからと手を替へ品を替へて機嫌をとります。いよいよかなはなくなると、わたくしや嫂さまに引留方を哀願に來ます。それにしても夕方になれば致し方がない。高い屋敷の庭先から黄昏に消えて行く友達のうしろ姿を見送ると、しくり/\泣いて家の中に駈け込みます。そしてお父さまの膝に乘つかると、そのまま夕飯も食べない先に眠つてしまひます。臺所の圍爐裡に榾柮を燻べて家ぢゆうの者は夜を更かします。お父さまは敏ちやんの寢顏を打戍り乍ら仰有います「圭一郎に瓜二つぢや喃」とか「燒野の雉子、夜の鶴――圭一郎は子供の可愛いといふことを知らんのぢやらうか」とか。

先月の二十一日は御大師樣の命日でした。村の老若は丘を越え橋を渡り三々五々にうち伴れてお菓子やお赤飯のお接待を貰つて歩きます。わたくしも敏雄をつれてお接待を頂戴して歩きました。明神下の畦徑を提籃さげた敏雄の手を扶いて歩いてゐると、お隣の金さん夫婦がよち/\歩む子供を中にして川邊りの往還を通つてゐるのが見えました。途端わたくし敏雄を抱きあげて袂で顏を掩ひました、不憫ぢやありませぬか。お兄さまもよく/\罪の深い方ぢやありませんか。それでも人間と言へますか。――わたくしのお胎内の子供も良人が遠洋航海から歸つて來るまでには産まれる筈です。わたくし敏ちやんの暗い運命を思ふ時慄然として我が子を産みたくありません。

お兄さまの居られない今日此頃、敏雄はどんなにさびしがつてゐるでせう、「父ちやん何處?」と訊けば「トウキヨウ」と何も知らずに答へるぢやありませんか。「父ちやん、いつもどつてくる?」つて思ひ出しては嫂さまやわたくしにせがむやうに訊くぢやありませんか。敏ちやんはこの頃コマまはしをおぼえました、はじめてまはつた時の喜びつたらなかつたのです。夜も枕元に紐とコマとを揃へて寢に就きます。そして眼醒めると朝まだきから一人でまはして遊んでゐます。「父ちやん戻つたらコマをまはして見せる」つて言ふぢやありませんか。家のためにともお父さまお母さまのためにとも申しますまい。たつたひとりの敏雄のためにお兄さま、歸つては下さいませんでせうか。頼みます。

春子。

はじめの一章二章は丹念に讀めた圭一郎の眼瞼は火照り、終りのはうは便箋をめくつて駈け足で卒讀した。そして讀んだことが限りもなく後悔された。圭一郎は現在自分の心を痛めることをこの上なく惧れてゐる。と言つても彼は自分の行爲をあたまから是認し、安價に肯定してゐるのではなかつた。それは時には我乍ら必然の歩みであり自然の計らひであつたとは思はなくもないが、しかし、さういふ風に自分といふものを強ひて客觀視して見たところで、寢醒めのわるく後髮を引かれるやうな自責の念は到底消滅するものではなかつた。それなら甘んじて審判の笞を受けてもいゝ譯であるが、千登世との生活を血みどろになつて喘いでゐる最中、兎や斯う責任を問はれることは二重の苦しさであつて迚も遣切れなかつた。

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