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医術の進歩
岸田國士
榊 卯一郎 新案炊事手袋製造業
同 とま子 その妻
今田末子 親戚の女
津幡 直 医師
乙竹外雄 外交員
きぬ 女中
三木 小僧
松原延蔵 医師
榊卯一郎の住宅兼工場。――相当時代のついた二階建日本家。震災で傷んだまゝの貸家を、更に住み荒すだけ住み荒したといふ状態だが、普請は流石に大がかりで、床柱一つでも、なかなか堂々としたものだ。その階下の幾部屋かを工場に、階上の二間を主人夫婦の居室に充ててゐる。一方は十畳の座敷で、絨氈を敷き、テーブル、椅子など、すべて洋風客間の作り、但し、一隅に、ソファ兼用の寝台があつて、現に、榊卯一郎は、それに寝てゐるのである。隣りは、八畳の純日本間。箪笥、鏡台、長火鉢、その他、ひと通りの家具。不統一のなかに、何処か生活の余裕らしいものを見せてゐる。
舞台は、この二階だ。正面奥は障子を隔てて縁側。
冬のはじめ、午後二時頃、空は晴れてゐる。
卯一郎 あゝ、痛い、痛い。それ見ろ、誰も側にゐなくつたつて、痛い時は痛いんだ。病気を大袈裟に云ふなんて、おれの性分ぢやない。おい、奥さん、済まないが、また二分ばかり、さすつてくれ。奥さん、そこにゐないのか。(呼鈴を押す)
女中きぬが上つて来る。
きぬ なにか御用でございますか。卯一郎 (鼻を鳴らし)生魚をいぢつて来たな。云つとくがね、おれはその臭ひが何よりも嫌ひなんだ。奥さんには、もう何度も云つた筈だが、お前はまだ来たてで、教はつてなけれや仕方がない。早く下へ降りてくれ。奥さんはなにしてる?きぬ お洗濯をなすつてらつしやいます。卯一郎 なに? 奥さんが洗濯? よろしい。それは後にして、大急ぎで来るやうに云つてくれ。(女中去る)おや、腰の痛みは大分退いたぞ。だが、心臓の方は、相変らず面白くない。ドキドキ……ドキ……ドキドキ……ドキ……ドキドキドキ。たしかに面白くない。
妻のとま子が現はれる。
とま子 おやすみになつてたんぢやないの?卯一郎 兎に角、今は、この通り眼をさまして、お前の来るのを待つてるんだ。病気の時だけは、もうちつと傍についててくれ。洗濯なんか自分でしなくつてもいゝぢやないか。それに、手袋ははめたかい。(妻の手を握つてみる)とま子 さうおつしやるけど、あの炊事手袋つて、どうしてもあたし、使ふ気になれないんですもの……。卯一郎 ほかの品物ならわざわざ使ふ必要はないさ。おれが新案を取つて、あれだけ世間へも広めた完全無欠といふ品物ぢやないか。お前がそんなことを云ふと、第一、人聞きもよくない。「滑らず、破れず、外れず」この三大特長を備へた炊事手袋といふものは、今のところ外にないんだぜ。だからこそ、瀬沼商会からは、五万円で権利を買はうとまで云ひ出して来てる。売らんよ、それくらゐの金ぢや……。ぢつとしてても、毎年一万八千円以上の売上げがある。原料が知つての通り安く手にはひるから、利益はざつと六割といふぼろさ加減だ。今時の商売人で、二万六千といふ現金を銀行に遊ばせておくなんざ、夢のやうな話だぜ。あゝ、苦しい。心臓が止りさうだ。済まないが、そうつと、さすつてみてくれ。とま子 (右手を毛布の下に差し込み)この辺ですか。あらいやだ、汗をかいてらつしやるわ。卯一郎 暑いからぢやない。もつと軽く……。ねえ、おれはどうも、あのお医者、信用できんよ。ざつと見たぐらゐで、なんでもないなんて云ふのは、無責任極まる話さ。心臓だけは、もうちつとしつかりした医者に見せておきたい。とま子 あんたのやうにお医者ばかり替へても、却つて為めにならないわ。体質つてもんは、同じ患者を普段手がけてないとわからないつて云ふぢやないの。卯一郎 だから一人の医者にきめようと思ふんだが、これといふのに、まだぶつからないんだ。今まで診せたうちで、博士といふ奴が三人もゐたけれど、一人として、命を委せてもいゝと思ふやうなのはゐなかつた。第一、見立てがあやふやだ。一週間で直すと云ひながら、一月かゝつても直さない。初めのうちは、効かない薬を飲ましよるに違ひない。とま子 さうぢやないのよ。あんたの病気ぢや、大概のお医者が困るのよ。だつて、病気つて云へるほどの病気は、ひとつもないんですもの。卯一郎 それは、お前の口癖だ。非難とも取れるし、慰めとも取れる。どつちにしても、おれには必要でない。いゝかい、最後にもう一度云ふが、おれが病気だと云つたら、お前だけは、もう少し、同情してくれ。痛いと云つたら、どれくらゐ痛いか察してくれ。それでこそ夫婦ぢやないか。そこは腹だよ、もつと上だ、心臓は……。とま子 (笑つて)こなひだうち、さんざお腹を揉まされたもんで、まだ癖がついてるんだわ。卯一郎 笑ひごとぢやないよ。あゝ、苦しい。呼吸が苦しい。枕を低くしてくれ。下へ誰か来たやうだ。行かなくつてもいゝ。水をくれ、水を……。
女中がはひつて来る。
女中 今田さんつていふ方がいらつしやいました。とま子 男の方、女の方?女中 女の方でございます。とま子 末子さんだわ、こつちへお通ししてもいゝでせう。卯一郎 今頃見舞か。とま子 ぢや、こゝでいゝわ。(女中去る)少し片づけませうね。卯一郎 何時客が来てもいゝやうにしといてくれ。部屋つていふもんは、片づいてるのが常態だ。いざつていふ時だけ片づけるなんて、それや物置きか掃溜めのこつた。その書附けはこつちへくれ。なんだ、もう丸めたのか。
今田末子が上つて来る。とま子よりも二つ三つ年上かと思はれる女。手土産の菓子折を提げてゐる。
とま子 まあ、しばらく……。末子 お加減はいかゞ……。でも、明日は明日はと思ひながら、そら、子供がゐるとね。(急に声をひそめ)あら、よつぽどおわるいの?とま子 (片眼をつぶつてみせ)えゝ、なんですか、はつきりしないんですのよ。末子 胃病は、あれでなかなか、あとが大変でね。卯一郎 (咳払ひする)とま子 胃の方は、すつかりよくなつたんですの。今度のは、神経痛ですけど……。卯一郎 (また咳払ひ)とま子 それに心臓が少し弱つてるんでせうね、時々、苦しがりますの。卯一郎 (息苦しさうな声を出す)末子 ほんとだわ。冷すかあつためるかしてらつしやるの?卯一郎 末子さん……いらつしやい。なんでも……ないんですよ。(大きな溜息)たゞね、たゞ……ちよつと。……時に、お宅の方は、景気がいゝですか。(末子の方に笑ひかけ)小さいのは、風邪も引かずにゐますか。末子 あんまりお話をなすつちやいけないんでせう。とま子 さつきまで一人で喋つてましたの。卯一郎 ほ、ほ、発作的に来るですよ。もう楽になりました。医者にはわからんと見える。これや、たしかに、弁膜症といふやつです。あんたのお父さんは、そいつでなくなられたんぢやなかつたかな。末子 心臓は心臓でしたわ。卯一郎 人間のからだで、心臓といふやつが一番大事らしい。さうして、一番脆いやうだ。生命といふやつは、心臓のすぐ近くにあるんだな。末子さん、うちの細君はね、わたしが病気になるのを、それや嫌つてね。とま子 だつて、当り前だわ。卯一郎 その当り前がさ、末子さんには想像もつかないほどだ。大体、病気つていふものを知らないんですね。あんたはそんなことはない。入院も二度三度されたし、どつちかと云ふと、旦那さんより弱いからな。茂七君は、しかし、なかなか、奥さん孝行だから、あんたは仕合せだ。会社の帰りに、必ず病院へ寄つたといふことも、わたしは聞いて知つてる。だからさ、今度は茂七君が床についたといふやうな場合、あんたなら、うちの細君のやうに、いやな顔はしないだらうと思ふんだ。とま子 あら、何時あたしがいやな顔をしました。末子さんがほんとになさるわ。卯一郎 さうでせう、わたしがからだを大事にするつていふのは、誰のためだと思ひます。子供は一人もなし、親はあつても何処にゐるかわからず、四十過ぎまで独身で来たこのわたしが……。とま子 ちよつと、そんな大きな声をなすつていゝの……。卯一郎 (得意と満足の微笑を末子の方におくり)あんたの顔を見たら、急に元気が出て来ましたよ。しかし、帰つたら、茂七君にもさう云つて下さい。「榊卯一郎も、近来めつきり疲れが出て、なんとなく心細い。親類らしい親類はほかにないんだから、忙しくもあらうが、時には、顔を出してせい/″\陽気な笑ひ声を聞かしなさい」つて……。末子 それをうちでも、さう云つてるんですよ。ほんとの兄弟みたいに思つてるんだから、ちよく/\行かなきや悪いんだけれどつて……。それが、あの億劫がりでせう。追ひ出すやうにしなきや、お風呂にだつて行かないんですもの……。それやさうと、ねえ、とま子さん、お願ひがあるの。ほら、こちらの手袋さ、一つ原価でわけて頂けないかしら……。うちで頂いたのは、まだ結構使へるんだけど、お隣りの奥さんが、そんなわけなら、特別に幾らか割引してつておつしやるんでせう、あたし、お安い御用だつて云つちやつたの……。卯一郎 あゝ、いゝですとも……。たゞで上げたつてかまはないんだけど……。末子 いゝえ、それや困りますわ。卯一郎 こつちもさうでない方が都合がいゝから、それぢや、五割引、半額にしときませう。包んでおあげ。まだいゝでせう。末子 一度どんな様子か見て来いつて云はれたんですの。今日はゆつくりしてられませんわ。ぢや、お大事に……。なんて云つときませうね。大したことはない……つて云ふと、また安心しちまふし……。卯一郎 まだ今日明日つていふほどのことはないぐらゐなところでどうです。それでいゝですよ。や、どうも失敬……。(大きな溜息をつく)
末子ととま子は下に降りる。
やがて、卯一郎は、寝台の上に起き上る。
卯一郎 どんな様子か見て来いとはなんだ。死にかけてゐたら、自分で見舞に来ようつていふのか。心掛けの悪い奴だ。あ、また苦しくなつて来た。これやいかん……。(寝る)医者を呼ぶとしたら、どいつにするか。(呼鈴を鳴らしながら)おい、奥さん……奥さん……。
とま子がゆつくり上つて来る。
卯一郎 なにを愚図々々してるんだ。自動車で送つてやつたりなんかしやすまいな。おい、早く医者を……医者を呼べ……。とま子 誰を呼びませう。この前の湯本さんぢやいけないんですの。卯一郎 あんなの、いかん。あれを呼べ、あれを……四度目に呼んだ、背の高いの……そら、夜遅く来たのがゐるぢやないか。内科専門で……お前が電話をかけて……えらく横柄だなんて云つてた……。とま子 津幡さんでせう。卯一郎 それだよ。津幡、津幡、津幡医学士を呼べ。とま子 あんなんでいゝんですか。頼りなささうなお医者さんぢやないの。卯一郎 いや、お世辞のいゝ奴はいくらでもゐる。病気はお世辞ぢやなほらない。すぐ来て下さいつて……心臓だと云はんといかんよ。苦しい。非常に苦しい。
とま子去る。やがて、電話をかける声が聞える。
「もし/\津幡先生のお宅でいらつしやいますか。はあ、こちらは、先日御厄介になりました榊でございますが……はあ、榊卯一郎でございます……はあ、さやうでございます。先生、只今、いらつしやいますでせうか……あゝ、それでは……実は、もう一度、御診察を願ひたいんでございますが……はあ、少し、急ぎますんですけれど……いえ、それほどでもございません……さきほどまで元気で……いえ、そんなこともないらしうございます……は? あゝ、それでは、ひとつ、早速……お迎ひは……さうしていたゞいて結構でございます……では、どうか……」
とま子が上つて来る。
卯一郎 どうしたんだ。とま子 電話をかけてる最中に、往診から帰つてらしつたの。丁度よかつたわ。卯一郎 あんな頼み方ぢや、向うはゆつくり構へてるかも知れんぞ。それほどでもございませんと云つてたのはなんだい。とま子 苦しがるかつて訊くからだわ。卯一郎 それほどでもないつてことが、お前にわかるかい。好い加減なことを云ふもんぢやない。もう一度掛けて来い。大変苦しがつてるつて……。とま子 あれくらゐに云つとけばよくつてよ。卯一郎 よくないよ。その後で、そんなこともないらしうございますつて云つたね。なんだ、あれや……。とま子 脈が途切れるやうなことはないかつて……看護婦よ、そんなこと訊くのは……。卯一郎 訊くのが当然だ。そんなこともないらしいどころか、この通り、ドキ……ドキドキ……ドキ……立派に途切れてる。早くさう云つて来い。とま子 いゝわよ、もう先生、お出掛けになつた頃だわ。そんなに心配なさらなくつて大丈夫よ。この前だつて、胃が破れさうだなんて、実際どうもなかつたぢやないの。卯一郎 胃と心臓は違ふ。おい、もう少し、なんとか、病人のそばにゐるらしくしろよ。ぢつとそんなとこに立つてないで、椅子をこつちへ引寄せるなりなんなり、脈を取るなんて気の利いた真似が出来なけれや、せめて、はらはらした顔附でもしろ。額に手を当ててみるぐらゐのことは、他人だつてして差支へないことだ。おれがお前なら、医者の来る前に、酸素吸入の用意をするぜ。とま子 戯談だわ。そんなに、はつきり物が云へるぢやないの。顔色だつてどうもないし……。卯一郎 顔色? 顔色が好いのは、どうにもならんさ。十五年間南洋の日にさらしたお蔭だ。はつきり物を云ふから可笑しいと云ふのか。はつきり云はなけれや、お前にはわかるまい。二十八にもなつて、男の眼附が読めないぢやないか。とま子 またはじまつた。えゝ、えゝ、あたしは馬鹿で、間抜けで、気が利かなくつて、ぼんやりで、低脳よ。卯一郎 どれもみんなおんなじこつた。とま子 さうよ、おんなじよ、あたしだつて、頭痛がするわ。寒気がするわ。足の先が冷たいわ。卯一郎 ちえツ、またはじめやがつた。とま子 なにをはじめたの。病気はあんたの専売特許だと思つてんの?(ぷいと部屋から出たと思ふと、隣室へ現はれて押入から夜具を取り出し、手早くそれを敷いて、今度は羽織を脱ぎ帯を解き、長襦袢のまゝ横になつてしまふ)卯一郎 (調子を和らげ)おい、奥さん、おれが悪かつたよ。後生だから、その手は勘弁してくれ。不自由この上なしだ。おれが病気になると、お前がいやな顔をすると云ふのは、そこを云ふのだ。お前は、おれが病気になるたびに、自分も加減が悪いと称して寝てしまふ。これで幾度だ。平生は至つて健やかなお前が、一日や二日の看護に、疲れるといふわけがない。それも徹夜をして氷をわつたとでもいふなら格別、看護と名のつく看護を、一体全体何時したことがある。これは決して、お前の愛情に疑ひをもつといふ意味ぢやない。その証拠に、おれがどうもない時は、世にも稀れなる女房振りをみせてくれるぢやないか。さつきも云ひかけたことだが、四十幾つかになつて、はじめて貰つた若い細君を、さうはやばやと未亡人にできるかい。おれが病気を怖がる理由は、たゞそれだけだ。おれは、よく云ふやうに、二十の年に国を飛び出して、南洋の島から島を渡り歩いた。真珠採りになつて海の底へもぐつたり、ゴム林の中で土人と一緒に寝起きしたりしてゐた頃は、病気なんて実際、屁とも思はなかつた。それが、日本へ帰つて、偶然思ひついた仕事が、案外うまく行くし、こはごは持つた女房が、これまた大当りと来たもんだから、おれは、やたらに生命が惜しくなつた。聴いてるかい、奥さん。そこで、お前が、おれを大事にし序に、病気の時は、病人らしく扱つてくれさへしたら、却つて、おれは、なに糞といふ気になるんだ。痛いでせうと云はれゝば、多少痛いところも我慢をする。苦しくはないかと訊かれゝば苦しいなんてことも、三度云ふところを一度にするんだ。寝てゐろと云はれゝば、つい起きてみたくもなるし、医者を呼ぼうと云へば、いや大丈夫だと云ひたくなる。そこのところをひとつ考へてくれ。今だつて、お前の出方ひとつで、おれは註文を取りに出かける支度をしてみせるぜ。どうせお前が止めると思へばだ。来たぞ、医者が来たらしい。どれ、あゝ、苦しい、さつきよりまだ苦しい。だんだん苦しくなる。