Chapter 1 of 3

東京の近郊――

雑木林を背にしたヴイラのテラス

老婦人

アンリエツト

秋の午後――

長椅子が二つ、その一方に老婦人、もう一方に青年が倚りかかつてゐる。それが毎日の習慣になつてでもゐるらしく、二人とも、極めて自然に、ゆつたりとした落ちつきを見せて、静かに読書をしてゐる。

老婦人は、純日本式の不断着、ただ、肩から無造作に投げかけた毛皮の襟巻が、さほど不調和に見えないほどの身ごしらへ、身ごなし。

青年は軽快な散歩服。無帽。

収  (書物が手から滑り落ちるのを拾はうともしないで)少し歩きませう。老婦人  (書物から目をはなさずに)もうあと二三枚……。収  (起ち上り、黙つて相手が読み終るのを待つ。が、なかなか済みさうもないので、また腰をおろす)老婦人  (目をあげずに)静かになさいよ。収  (漠然と)静かにしてゐます。

長い沈黙。

収  (独語のやうに)あなたほどのお年になられても、まだ、ものに凝るやうなことがおありと見えますね。老婦人  ……。収  ものに凝るといつても、そのことに熱中する、つまり、われを忘れてどうかうといふやうなことはおありにならないでせう。やめようと思へば、何時でもおやめになれる……。それをやめないでいらつしやるのは、ただ、ほかになさることがないからなんでせう。少くとも、ほかのことをなさるのと、別に違ひはないからでせう……。さうでせう。してみると……。老婦人  (相変らず目を伏せたまま)また、うるさいから……。収  (笑ひながら、しつつこく)ねえ、お祖母さま、あなたは、世の中の人間が、みんな、さういふ風に、老眼鏡をかけ、背中を丸くして、宗教の本を読んでゐれば、それで間違はないと思つておいでになるんでせう。老婦人  間違がなけれや、どうなのさ。やかましいね、ほんとに……(書物を青年の鼻先につきつけ)これが宗教の本ですか。収  (聊か拍子抜けがしたやうに)なんだ、アナトオル・フランスか……。La Vie en Fleur……。あんな爺にかかり合つてると、ひどい目にあひますよ。老婦人  余計なことを言つてないで、用意をなさい。(起ち上らうとする)収  (それを制して)その前に、お祖母さま、一寸、お話しておきたいことがあるんです。(間)此処でもいいでせう。老婦人  ……?収  それぢやどうぞ……(と、老婦人を再び座につかせて)変だな、すこし……?老婦人  なにさ、早く云つたら……。収  今、言ひます。かういふ話をする時は、そんなに顔を見ないで下さい。老婦人  あなたが下を向いてゐればいいでせう。それで、わたしに、どうしろといふのさ。収  もう御存じなんですか。老婦人  なにを……。まあ、いいから云つてごらん。

間。

収  お祖母さまは、アンリエツトをどういふ処へお嫁にやらうと思つていらつしやるんです。老婦人  あの娘をお嫁にやるのは、わたしぢやない。立派なお父さんがあるんだもの……。収  しかし、そのお父さんは、外国にばかりいらつしやるし、お母さんが亡くなられてからは、お祖母さまのあなたが、何もかも引受けていらつしやるんでせう。さうすると、結婚のことだつて、あなたが、いいつておつしやれば……。老婦人  まあ、お待ち……。わたしには、それや、幾分の責任はある。しかし、ただそれだけさ。あの娘は、自分で自分の道を選ぶやうに教育してあるんです。収  どうかしら……。老婦人  なんです、失敬な……。お前こそ、まだ海のものとも、山のものともわからないぢやあないか。今やつてゐる法律なんか、何になるものか。アンリエツトは、あれで、なかなか頭のいい娘だからね。収  僕には勿体ない……。お祖母さまは、一体、どういふ男が、お好きなんですか。老婦人  わたしがかい。収  (一寸まごついて)お年は別として……。老婦人  どうして? だから、お前は駄目なんだよ。若いばかりが女ぢやあるまい。笑ふなら云つてあげようか、気障でしやうがない、お前みたいな男は……(怒つたふりをする)収  (とぼけて)お髪に松葉がひつかかつてゐますよ。老婦人  (こだはらずに、取つて棄てる)収  お祖母さまは、いくつの年にお嫁にいらつしやつたんです。老婦人  どうして?収  どうしてでも……。老婦人  わたしは、早かつた……。十八の春……。アンリエツトの年に、わたしは、もう女学校をすまして、例のパリアニさん、あの人のお母さまのオリガさんのところで、伊太利語の勉強をしてゐたものだ。収  お祖父さまが、羅馬から迎ひに来て下さるのを待つていらつしやつたわけですね、お祖父さまが、その頃……?老婦人  お年かい? さあ、兎に角、お前みたいに若くはなかつたよ。口髭を生やして、堂々たる紳士だつたから……。収  堂々たるはいいな。お祖母さまも、その頃は、楚々たる令嬢で……。老婦人  あたり前さ。お前のお母さんほど丈は高くなかつたけれど、アンリエツトみたいに、おちびさんでもなくさ……。収  さうですとも……。その上、乗馬と幅跳びがお得意でね……。老婦人  (笑ひながら)それはうそ……。収  ねえ、お祖母さま、あなたが、お祖父さまと御一緒に巴里でお写しになつた写真が、この間、お母さまの手文庫から出て来たんですよ。裾のしぼんだ黒いカアプを、かう、軽くひつかけて……。あれは、ルユクサンブウルでせう、誰かの像の前で、鳩に餌をやつてらつしやるところ……かういふ手つきで……。それを見て、僕は、「へえ」つて云つたきり、そこへすわつてしまひました。老婦人  そんな写真があつたかね、お祖父さまはどうしてるのさ。収  お祖父さまは、これはまた、どうかなさればよささうなものを、ステツキを両手で、かう、水平に持つたまま――器械体操でもするやうにね――つくねんと、若い美しいお祖母さまの横顔を見つめておいでになるのです。老婦人  何を云ふんです。収  なるほど、髭だけは立派ですね。老婦人  さうですか。収  さうです。老婦人  あの頃の写真は、さうだ、随分長く出して見ないから……。わたしの処にも、そんなのがある筈だ……。へえ! ぢや、あん時だ、きつと……。

長い沈黙。

収  お祖父さまと云ひ、うちのお父さまと云ひ、アンリエツトのお母さまと云ひ、みんな早死をしたんですね。老婦人  早死をしたね。イヴオンヌなんか、まだ三十にもなつてなかつたんだからね。収  僕も早死をしさうだな。今度は、まあ助つたやうなものだけれど……。老婦人  お前は、それがいけないんだよ。すぐに自分を弱いものと決めてしまつて……。収  決めてやしませんよ。だから、今日だつて、テニスをやらうつて云へば、例の、柔道二段が、君は駄目だつて、やらせないんです。アンリエツトはまた、それをいいことにして、僕の方を振り向きもしないんです。老婦人  Tu es bte!

長い沈黙。

老婦人  寒くないかい、お前、何も上へ着なくつて……。今日は、風が冷たい。収  一と月ぐらゐ、すぐたつてしまひますね。(間)ここへ来た時は、まだ白楊の葉が、こんなに黄色くなつてませんでした。兎に角、もう、病人とは見えないでせう。老婦人  見えない。だけど、もうあと、一年間は用心をするんだね。また何時かのやうなことがあると……。収  (急に暗い顔をする)海岸行きを止めて、もう少し、ここにゐたいなあ。

間。

老婦人  寒くさへならなけれやねえ……。何しろ、冬向きぢやないよ、ここは……。収  どつち道、僕はここにゐない方がよささうですね。老婦人  どうして?収  どうしてつて……。お祖母さまは、一番、そのわけを御存じなんでせう。老婦人  さ、もう、そのことを云ふのはおよし。男らしく、さつさと発つておしまひ、ね。お祖母さまもわるかつた。もつと早く、お前の心持ちを酌んで、できるだけのことをすればよかつたんだけれど……。もう、今になつては、どうすることもできない。お前はこれから、どんな幸福でも……。収  得られるつておつしやるんでせう。僕さへ、それを望めばね。しかし、お祖母さま、僕は、今が一番幸福なんですよ。いいえ、ほんとです。アンリエツトは、まだ時々は僕と二人きりで遊んでくれます。朝の食卓は、毎日僕たち二人だけの為めに用意されてゐるでせう――お祖母さまは、遅くお目覚めですからね。老婦人  Pauvre garon!収  今だつて、御覧なさい、もう日が暮れる、また三人きりになれる。さう思つただけで、気分がこんなに、いいぢやありませんか……。老婦人  (青年の肩に手をかけ)気分がいいなら、泣くのはおよし。さ、その辺を一と廻りして来よう。収  ……。老婦人  さ、お起ち……。

この時、運動服姿の少女が、ラケツトを振りながら、現はれる。

アンリエツト  ああ、喉が渇いた。老息仰人  もう済んだの。アンリエツト  だつて、ボールが見えないんですもの、暗くつて……。老婦人  それや、さうだらう。アンリエツト  でも、まだ御飯ぢやないでせう。あら、どうなすつたの、収兄さま?老婦人  シヤトオブリヤンに泣かされたんですつてさ。アンリエツト  小説を読んでお泣きになつたの? 可笑しいわ。老婦人  それより、お前、弘さんは……。アンリエツト  ええ、それがね、お祖母さまのとこへ、左様ならをしに来ようとしてらしつたのよ。さうしたら、そら、あの柿の木を見て、柿を取るつてきかないの。だから、あたし、お祖母さまに伺つて来るから、待つてらつしやいつて、さう云つて来たの。老婦人  まだ熟してやしないでせう。アンリエツト でも赤いことは赤いわよ。だから、取つていいこと?老婦人  ああ、それやいいけれど、怪我をしないやうになさいよ。アンリエツト  ええ。(行きかける)収  (起ち上り)僕も取らう(かう云つて少女の後を追ふ)老婦人  つるやにさう云つて、物乾竿を出してお貰ひ。収  ああ、さうだ(裏の方へ走つて行く)老婦人  (叱るやうに)また、走るんぢやありません。

すると、入れ替りに弘が現はれる。

アンリエツト  あら!弘  もう遅いから、僕、帰りますよ。また叱られちやわ……。アンリエツト  (つまらなさうに)どうして……。弘  柿は明日でいいでせう。アンリエツト  明日でいいでせうつて、御自分で云ひ出したくせして……。弘  (快活に笑ひながら)さよなら、小母さん(帽子を脱ぐと、いきなり、全速力で走り出す)老婦人  みなさんによろしく。

弘が去つた後へ、収が竹竿を持つて出て来る。

アンリエツト  (その竹竿を取らうとする)どら、貸して……。収  君ぢや駄目だよ。アンリエツト  いや、あたしが取る。老婦人  アンリエツト!アンリエツト  (その方をちらと見て、投げ出すやうに竹竿を収の手に渡す)あたしにも取らしてね。

二人姿を消す。

老婦人  (両人を見送つた後、再び書物の頁を繰る)

長い沈黙。

アンリエツトの声  あれがいいわ。もつと、こつち……、そら、そこよ……。赤いのがあるぢやないの……盲ね。老婦人  (時々声のする方に気を取られるらしい。それでも、すぐに、書物の上に目をおとす、音読をし始める)J'tais loin d'tre un beau garon et le pis est que je manquais de hardiesse. Cela me nuisait auprs des femmes.アンリエツトの声  まあ。そんなにひどくしちや、傷がついてよ……。あたしに貸して……(間)大丈夫よ……見てらつしやい。老婦人  (音読する)Car j'estimais que le plus grand pch d'une femme est de n'tre pas belle.アンリエツトの声 どうするの。樹へ登るの……。あぶないわよ。老婦人  (一寸、耳を聳てる。が、すぐに)Je remarquais que dans le monde, beaucoup de jeunes gens, qui ne me valaient pas, plaisaient et russissaient mieux que moi.アンリエツトの声  その枝に、いつぱい赤いのが生つてるぢやないの。ええ、その、あなたが乗つてらつしやる枝……。老婦人  J'ai toujours cru que la seule chose raisonnable est de chercher le plaisir.アンリエツトの声  (一段声を張り上げて)あら、お祖母さま、あのねえ、収兄さまがね、柿の樹の高い処へ登りました。老婦人  (顔を上げて、心持ち眉をひそめるが、すぐにまた目をおとし)Il n'est pas difficile de s'apercevoir si un homme est heureux ou malheureux. La joie et la douleur sont ce qu'ou dissimule le moins, surtont dans la jeunesse.アンリエツトの声  いやよ、いやだつてば……。お祖母さま、収兄さまが、あたしに、渋柿をぶつけます。(はしやいで)そんなことをすると、かうしてよ。

長い沈黙。

老婦人  Ils taient jaloux, haineux, ambitieux. Jtais indulgent et paisible; j'ignorais l'ambition.アンリエツトの声  あら、いいの、そんな無茶なことをして……。老婦人  Il ya de ces passions violentes qui font les grands hommes et dont je n'avais pas l'toffe.アンリエツトの声  お祖母さま、収兄さまがね、柿を皮ごとたべますよ……。よろしいんですか。ずるいわ、そんな……。老婦人  (だんだん、落ちつかぬ様子を示しだす。目を書物から放し、時々、声のする方を見る)アンリエツトの声  お祖母さま。老婦人  なんです、やかましい。アンリエツト  お祖母さま、あのね(姿を現はす)あのね、収兄さまがね、柿の樹の上でお昼寝をするんですつて……。目をつぶつて、腕組みをして、眠てるの。いくら棒でつツついても、起きないわよ。老婦人  いたづらするんぢやありませんよ。もう降りるやうに、さうお言ひ……。アンリエツト  (笑ひながら去る)老婦人  (しばらく黙読を続けてゐる)アンリエツトの声 収兄さま、早く採つて頂戴よ、暗くなつてよ。(間)いやね、もう少し左、左よ、左だつたら……。それや、右ぢやないの……。そこよ、手がさはつてるのにわからないの、それ、それ、ええ、それよ。老婦人  (再び音読を始める)Mais ce dont je m'aperus aprs une longue observation, c'est que le dsir embellit les objets sur lesquels il pose ses ailes de feu, que sa satisfaction, dcevante le plus souvent, est la ruine de l'illusion, seul vrai bien des hommes.アンリエツトの声  もういいわ、それくらゐで……。ほんとに、いいのよ、もう沢山……。(声がふるへる)もうよして頂戴……、そんなに上は、あぶなくつてよ、ねえ、収兄さま、もういいつて云ふのに……(泣声になる。急に、高い声で)お祖母さま、収兄さまが、云ふことを聴きません。ずんずん高い処へ登つて行くんですよ……細い枝のところへ……。老婦人  (びくつとする)収、もういい加減にしないかい。

長い沈黙。

アンリエツトの声  それ御覧なさい。(間)え! みんなで……? 随分あるわ……。一い、二う、三い、四お、五つ、六う、七、八あ、九、十、十一、十二……十三……老婦人  (また、読む。今度は、やや、高い調子で)

O Thbains! Jusqau j'our qui termine la vie

Ne regardons personne avec un oeil d'envie.

Peut-on jamais prvoir les derniers coups du sort?

Ne proclamons heureux nul homme avant sa mort.

アンリエツトの声  あら、どうするの、そんな上へ登つて……収兄さま、駄目よ、駄目よ、その枝は駄目、……後生だから、降りて……。老婦人  (此の時、突然何かに悸えたやうに、書物を放した手を、痙攣的に、口のところにもつて行く。そして、アンリエツトの「あツ、あぶないツ!」といふけたたましい叫び声が聞える前に、もう立ち上つてゐる)

――幕――

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