一
ある大学の哲学教授、加来典重は、カントの研究家としてその名を知られ、近年は、ハイデッゲルなどの名をもその講義の間にしばしばはさみはするが、学生の一人がサルトルについて質問を行つたところ、それは自分の専門以外であると答へたことによつて、相手に首をひねらせた逸話の持主である。時に文明批評や随想に類する文章を二、三の雑誌に発表することもあるが、その衒学的臭味によつて、多くの読者を悩ましてゐることは、本人はもちろん知る筈もない。ただ、その風貌のまさに学究然たるところと、性情の率直にしてやや稚気を帯びたるところとが、或は世間の信用を博し、或は周囲の同情を買ふに十分だといふだけの、言はば、愛すべき一老教授である。
停年が近づきつつある。著書の数は多い割合に売れ行き思はしからず、退職後の生活をあれこれ思ひ悩んでゐる矢先、ふとした風邪ひきがもとで、自慢の健康に狂ひが生じた。
肺炎のぶり返しがやうやく治つたと思ふと、急性腎臓炎の併発をきつかけに、十二指腸虫のおびただしい繁殖がはじめて医者の注意をひき、その手当のために服用した薬品の副作用によつて、今度は極度の苦痛を伴ふ胃腸障害を起した。
衰弱は日に日に募つた。近所の主治医が慌てふためいてゐる様子に、細君の冬菜は気が気でなく、夫のためらふのを押し切つて、同じ大学の医学部教授で内科専門の早見博士を立ち合ひ診察に来てもらふことにした。
早見博士とは、学内のなにかの会合で、一二度顔を合せたぐらゐの関係で、君僕と呼び合ふほどの親しい間柄ではない。とはいへ、そこは同僚の誼みでもあり、かつ、高名な学者としての敬意をも含めて、至れり尽せりの診察振りを示した。
早見 食慾は?加来 ない。冬菜 ここ二週間ばかり、さつぱりございませんのです。早見 ここ、痛みますか。加来 痛い。冬菜 からだぢゆう、どこもかしこも痛いつて申しますんです。でも、ほんとに、よく我慢いたします方なんですけれど……。早見 気分はどうです? むろん、どうもないわけはないが……非常にだるいとか、むしやくしやするとか……。冬菜 非常にだるいさうでございます。どこか特別に苦しいところがございますんでせうけれど、それをはつきり申してはくれませんのです。早見 呼吸です。呼吸が……苦しいでせう……この心臓では……。さうして、眼を開いてゐて、眩しくはありませんか?加来 (眼をつぶる)冬菜 今朝ほどでございます……眩しいから雨戸を締めろつて申しますんです。急にそんなことを申しますんです。昼間から、それではあんまり陰気だと思ひまして、かうして枕もとに屏風を立ててみましたんですが……。早見 では、主治医の方とよくご相談をして、必要なら、処方を書いてみませう。
かうして、早見博士は、病人に会釈して、座を起ち、細君の冬菜に案内されて別室にはいる。
主治医の煙と細君とを前にして、早見博士はしばらく沈黙を守つてゐる。
煙 率直にお見立てを伺ひたいもので……。早見 率直もなにも、一目瞭然です。
彼は、そこでやや声をおとして、例のドイツ語まじりの専門的会話をはじめる。ラッセルといふ言葉が切りに使はれ、主治医煙の当惑しきつた表情へ、冷酷とも思はれる一瞥を投げた後、
早見 奥さん、誠にお気の毒ですが、わたくしとしては、もう、万事休すと申しあげるよりほかありません。このうへは、もし、それができれば、奇蹟を待つといふことが残つてゐるだけです。はつきり申せば、先生は、既に危篤状態です。しかし、このことを直接、先生のお耳に入れることのよしあしは、奥さんのご判断にまかせますが……。近親の方々だけはお呼び寄せになつていい時機だらうと思ひます。煙 どうもさうぢやないかと思ひました。やはり、肺が両方とも完全に冒されてゐるといふことです。冬菜 完全に治つてゐた筈の肺がですの? でも、早見先生、主人はかねがね、死といふ問題を深く考へてをりました。つい四五日前でございましたか、もちろん、戯談めかしてではございますが、もし、命が助からんといふことがお医者さんにわかつたら、すぐに自分の耳に入れるやうにしてくれ、と申すんでございます。日頃の考へかたから申しましても、それだけの覚悟ができてゐるに違ひございませんし、予めそれを知つて、なにか大事なことを言ひ遺しておきたいのではないかと、思ふんでございます。早見 失礼ですが、先生はなにか、信仰がおありですか?冬菜 べつだん、宗教には関係してをりませんが、やはり、哲学者としての信念みたいなものはあるんだらうと存じます。早見 哲学者としての……ああ、さうですか。では、それを、奥さんから暗示なさいますか? それとも誰か……?冬菜 わたしからでは、ただ取越苦労のやうにとられやしないかと思ひますの。早見 しかし、さういふ宣告は、医者の口から直接すべきものぢやありませんから……。どうです、煙先生?煙 いや、わたしもかねがねこちらの先生とはご懇意にねがつてゐますが、理窟としては、それができても、情において忍びないやうな気がします。早見 わたしはそんな人情論をしてゐるんぢやない。ただ、それは医者の資格においてするべきことかどうか、といふ疑問をもつてゐるだけです。言はば、対人的な、特別な技術を必要とする役目なんだから、責任はもてないといふだけです。しかし、わたしにやれとおつしやればやりますがね。冬菜 いえ、やつぱり、あたくしから、折をみて、なんとかうまく切り出しますわ。いくら主人を信じてゐましても、結果がまつたく予想のつかないことのやうに思ひますから……。では、先生、ありがたうございました。あの……もうダメといたしましても、あと、どれくらゐの時日……?早見 わかりません。そこまではわかりません。多分早ければ二十四時間以内、おそくても、三日はどうかと思ひます。わたしはこれから臨床講義に出ますが、急変がありましたら、お知らせください。では、一、二時間おきに、強心剤だけ、どうぞ……。
早見博士が帰つた後、主治医の煙は、ぼんやり応接室に残り、冬菜は、ひとり、夫の病室に戻つて行く。
加来 話が長すぎるぞ。冬菜 ご診察の結果を詳しく伺つてましたの。加来 素人が聞いてわかるやうな話かい?冬菜 わかるところと、わからないところと、ありましたわ。でも、結論は……。加来 絶望だつていふんだらう。冬菜 あら、そんな風にはおつしやらないわ。だつて、そんなことありつこないんですもの。ただ……衰弱がずいぶんひどいから、よつぽど用心しないといけないつて、おつしやつただけよ。ご自分でも、そのくらゐおわかりになるでせう?加来 自分でわかる程度のことを医者に教はる必要はない。それで、いつたい、どこがそもそもわるいつていふんだい?冬菜 それが、あたし、驚いてしまひましたの。肺ですつて……両方の肺が……。加来 もう、いい、わかつた。お前が泣いちまつちや、なんにもならんよ。それで、早見は、今度は、いつ来るんだ?冬菜 いつでも、必要があつたら、さう言つてくれれば来るつて、おつしやつたわ。加来 必要があれば、か。冬菜 やつぱり、主治医に遠慮がおありになるらしいわ。加来 煙さんは?冬菜 応接にいらつしやいます。加来 ちよつと呼んでくれ。冬菜 でも、見当違ひのことは、あんまり、おつしやらない方がいいわ。加来 さうか。今、顔は出しにくいか。しかし、ちよつとその顔を見たくもあるな。いや、しばらく眠らう。
冬菜は、夫の夜着を着せ直し、そつと出て行つて、息子と娘の出先へ電話をかける。息子の四紋は丸ノ内の銀行に勤めてゐる。娘のネラ子は、某女子大学の英文科に通つてゐる。息子には、ただ、急いで帰れとだけ言ひ、娘には、授業中なので、教務課から、それを伝へてもらふことにした。電話の声を夫の耳に入れぬやう、彼女はせいぜい気をつけた。
しかし、その声がもし夫の耳にはいり、息子や娘を急いで呼び寄せてゐるなと勘づいたら、それはそれで、却つて、自然に目的を達したことになる、といふ狡い考へもふと胸に浮ばぬでもなかつた。
そこまで考へて来ると、つい大胆になり、夫の兄にあたる加来雅重にも電話をかけた。
「せんだつてはどうも……。お礼を申しあげよう申しあげようと思ひながら、あれからずつと、よくないもんですから……。ええ、今日、大学の早見先生に来ていただきました。それがね、お兄さま、やつぱり、楽観できないらしいんですの。あら、さうですか。今日、おでかけくださいます? ええ、そんな、わざわざでなくつてもよろしいんですけれど、やつぱり、元気をつけていただく方が……さうですとも……そりや、よろこびますわ」
これで、大体、意のあるところは先方に通じたと思つた。「あら、さうですか」以下は、先方が何も言つてないのに、こつちで勝手に喋つた文句である。
息子の四紋が、息せき切つて帰つて来た。これはすぐに、それと察したからである。
冬菜は、息子と相談のうへ、まづ、大学の研究室で父典重の直弟子に当る細木助教授、次ぎに、学問上といふよりはむしろ私的関係において一番親しい倫理学の大里教授、それから、父の著書を殆ど一手で出版してゐる玉石堂の主人、浦某に、それぞれ、電報または電話で危篤を知らせることにし、息子が、その役目を引受けた。
やがて、娘のネラ子も帰つて来た。