Chapter 1 of 5

有田浩三の書斎。朝。

浩三  (読んでゐる新聞から目を放さずに、はひつて来た妻に向ひ)おはやう。昨夜はよく眠つたかい。何か寝言を云つてたね。倉子  (夫の手から新聞を取り上げ)これ、もう御覧になつたんでせう。ええ、よく眠ましたわ。寝言なんか云つて、あたくし?浩三  お前の寝言はこれで三度目だ。お前が、そんな顔をして、恐ろしい秘密をもつてゐようとは思はないが、それでも、何か、おれが知らずにゐるやうなことを口走りやしないかと、いつでも冷や冷やしてるんだ。倉子  あら、そんなに、あたくしのことを問題にしてゐて下さるの。ありがたいわ。それで、あなた、今日はまたお帰りがお遅いんでせう。浩三  遅いかも知れない。どうして?倉子  いいえ、遅ければ遅くつてかまひませんわ。そのつもりでゐますから……。ぢや、どうぞ、お食堂へ……。浩三  その前に、一寸お前に聞いて置きたいことがあるんだがね。(間)お前は、家の中のことはなんでも知つてるだらうね。倉子  ……。浩三  おれはこの通り忙しいからだで、家のことは何もかまつてゐられない。お前が、もう少し目をつけてゐてくれないと困る。倉子  何かお気に召さないことがあるんですの。浩三  お前は、水垣と銀のことで、近頃何か気がついたことはないか。倉子  水垣と銀と……何か間違ひでもございましたの。浩三  間違ひがあつたか、これから間違ふか、そこまではわからん。しかし、兎に角、危険な状態にあることは事実だ。倉子  何かさういふことを御覧にでもなりましたの。浩三  見た。たしかに見た。倉子  何を御覧になつたんですの。浩三  何をつて……さういふことをさ。二人は、暇さへあれば、隅つこで、こそこそ立話をしてるぢやないか。(間)おれは、さういふところを、今までに何度も見つけたよ。今朝も、おれが寝室を出ると、箒を持つた銀と、手拭をぶらさげた水垣とが、便所の蔭で切りに内証話をしてゐた。二人は、おれの姿を見ると、慌てて左右に別れたが、その目つきは、たしかに総てを語つてゐた。倉子  不思議ですわね。あたくし、ちつとも、そんなところを見ませんわ。浩三  見ても気がつかずにゐるんだらう。お前には男女関係などといふものの本体がよくわからんかも知れんが、若い男と女とが、人目をさけて、ひそひそ話をするといふことが、もう、ただの関係ではない証拠だ。それくらゐのことはわかるだらう。倉子  さうとばかりは云へませんわ。あの人たちには、あの人たち共通の利害問題だつてありますわ。さういふ問題についていくらも話しがある筈ですわ。浩三  さう取りたければ取つたつていいさ。おれは、なにも、わざわざ二人の関係をやましいものにする必要はない。ただ、間違ひが起つた後では、もう取返しがつかないことがある。それを心配するだけだ。倉子  それにしても、さういふことまで、あたくしが責任をもたなければならないんですの。浩三  あたり前ぢやないか。倉子  どういふ風に責任をもつんですの。浩三  わからないかい、それが……。倉子  だつて、二人が愛し合つてゐるんなら、それを、あたくしが、どうすることもできませんわ。浩三  おい、おい、よしてくれ、子供じみたことを云ふのは……。書生と女中とが愛し合つて、家の中が治まると思ふか。倉子  ……。浩三  若しあの二人が、愛し合つてゐるなら、さつさと余所へ行つて愛し合つて貰はうぢやないか。倉子  さうしたければ、さうするでせう。浩三  どうだかわかるもんか。おれは、どうも、お前のやり口が気に入らんのだ。おれに対しては飽くまで冷やかな態度を取つてゐながら、召使には可笑しいぐらゐ親切だね。親切なのはまあいいさ。だらしのない真似だけはさせないでくれ。水垣には、おれから注意して置くから、銀には、お前からよく将来を誡めておくがいい。(間)序でだから云ふが、お前は、おれの妻なんだぜ。倉子  あなたは、あたくしの夫ですわ。浩三  それがわかつてゐるんだね。倉子  ええ、わかつてますわ。浩三  それなら、妻は、自分の寝室に鍵をかけて寝るものかい。倉子  ……。浩三  おれは非常に風邪を引き易いつていふことを知つてるぢやないか。(間)水垣をここへ呼んでくれ。倉子  御飯を召上つてからになすつたら……?浩三  いいから、呼んでくれ。倉子  (退場)浩三  (別の新聞をひろげて読む)

戸を叩く音。

浩三  よし。水垣  (はひりながら)何か御用ですか。浩三  お前はいくつだ。水垣  私ですか。浩三  お前はいくつだと聞いてれば、お前の年を云へばいいんだ。水垣  は、二十五です。浩三  二十五にもなつて、部屋の壁へ落書をするのか。水垣  壁へですか。浩三  わかつてることを聞き直すな。あの顔は誰の顔だ。水垣  誰の顔つていふわけではありません。浩三  女の顔だね。水垣  女つていふわけでもありません。浩三  嘘つけ。水垣  髪の毛はさうですけれど……。浩三  銀の顔だらう。水垣  いいえ、違ひます。絶対に違ひます。浩三  これから、便所の蔭なんかで、銀と話をすることはならん。水垣  は。浩三  今度、ああいふことがあつたら、暇を出すぞ。水垣  しかし、あれは、なんです、お銀さんが、今朝頭が痛いつて云ふもんですから、その話をしてたんです。浩三  銀が頭の痛いのはお前の知つたことぢやない。水垣  どんな用事があつても、お銀さんと話をしちやいけないんですか。浩三  いかん。水垣  しかし、それぢや……。浩三  滝に取り次いで貰へ。水垣  お滝さんにですか。浩三  それから、お前はおれが使つてる人間だ。おれの為にならんことをすると承知せんぞ。水垣  ……。浩三  奥さんのことで、近頃、何か変つたことはないか。水垣  奥さんのことでですか。浩三  うるさいな、いちいち……。だから、あつたら、なんでも云つてみろ。(声を低くして)誰か奥さんのところへ、ちよいちよい来やしないか。水垣  どういふ方がですか。浩三  それをこつちが聞いてるんだ。水垣  いえ別に……。浩三  おれの留守中、奥さんはずつと家にゐるか。水垣  をられます。一度も外へ出られたことはありません。浩三  買ひ物なんかにも……。水垣  はあ。浩三  お前は、近頃、一体何を勉強してるんだ。水垣  英語です。浩三  少しは解るやうになつたか。水垣  まだ大分わからんところがありますけれど……。浩三  どうだ、一つ、外へ出て、苦学でもしてみちや……。水垣  今だつて苦学は苦学ですが……。浩三  だから、外へ出てと云つてるぢやないか。ここにゐても、それほど用事はないし、第一、人の世話なんかになつてゐては、奮発心が起らん。つい、余計な邪念が起つたりするんだ。水垣  邪念と申しますと……。浩三  兎に角、お前は、なんの役にも立たん。云ひつけたことさへろくに出来んぢやないか。この新聞はいらんから断われと云つたらう。まだ配達しとるぢやないか。どうしたんだ。水垣  玄関の処へ貼り出して置きましたんですが……。浩三  それだから役に立たんと云ふのだ。それから、お前、その頭は、見つともないから短く刈れと云つたのに、どうして刈らないんだ。水垣  これですか。これは、ついまだ刈りませんでした。浩三  おれの云ふことをきかんのか。水垣  さういふわけぢやありません。さういふわけぢやありませんが、急に短く刈ると変だらうと思ひまして……。浩三  さういふ料簡だから滝なんかにまで馬鹿にされるんだ。水垣  お滝さんが何か云つてましたか。浩三  ……。水垣  あん畜生!浩三  もういいから、心を入れ替へて勉強しろ。水垣  あ、昨夕六時頃、先生に電話がかかつて来ました。浩三  何処から……。水垣  事務所からです。浩三  事務所から?水垣  はあ。浩三  奥さんは、それを知つてるのか。水垣  いいえ、私が出ましたから、そこは、心得てをります。浩三  黙つてたね。水垣  無論です。浩三  よし。そのつもりで、しつかりやれ。

――幕――

Chapter 1 of 5